諸行無常・タオ

http://blog.jundokan-yogi.com/?eid=994419&target=comment 【只今に専心しよう・・諸行無常】 より

諸行無常とは:仏教の思想にある根本的なもので、あらゆるものは刹那の間にも変化をくり返しているということ。人生のはかなさを表す言葉であり、一般的には、世の中の移り変わりの激しさや人の死を嘆くときに使われる。「諸行」とは、この世の一切の事物・現象のこと。「無常」とは、この世にある一切のものは常に移り変わり、不変のものはないということ。(故事ことわざ辞典より)

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”たとえば「変化は常に起きている」という真理を考えてみよう。頭ではこの教えを容易に吸収できる。だが、実際に人生に変化が起きるとする。自分が年老いてきたことに気付く、愛する人間が死ぬ、或いは愛に溢れ、親密だった関係がよそよそしくなる・・・。

そうすると、この真理は私達を恐怖に陥れる。ずっと同じであってほしいと願っていたために、変化による痛手から回復するのに何年もかかることもある。いつか変わることはわかっていたのに、変化のエネルギーが、自分の人生のこの部分だけは避けて欲しいと考えてしまうのだ。”

”「変化は常に起きている」という言葉が、人生の幸福を運び去ってしまう敵のように感じられとしても、孤独な時期はいつか終わり、新たな人生が始まる。「変化は常に起きている」という真理が約束するのは、何かひとつが完結すると、後には必ず新たな始まりが続くという事である。

高い意識とは、すべては適切な時に始まり、すべては適切な時に終わるという気づきを持ち、古い物を手放して、新しいものを自分の中に包容することを意味する。

人間は安定、つまり変化の無い状態を求めるため、この真理を受け入れて生きることは難しい。高い意識をもつというのは、今という瞬間に百パーセント生きること、どんな状況でも、誰であっても、全く同じ明日はあり得ないと知ることだ。

変化が実際に起きていくなかで、私たちはそれを人生のごく自然な一部と解釈し、老荘思想が教える道(タオ)のように「流れとともに生きる」ことを求めていくべきであって、逆らってはいけないのだ。物事を同じままに留めておこうとするのは無駄なことであり、不可能だ。” 

(以上、同書より転載)

https://aokikenji.com/tao-01 【【老子 第1章】道可道非常道~道(タオ)とは何か】より

之を視れども見えず  之を聴けども聞こえず  之を搏えんとすれども得ず

それは、形なき形、声なき声。 の・ようなもの。はじめに、道(タオ)ありき。

天地に先立ちて実存する絶対的なものであり、名づけようもなく、名のない存在である。

天地一切万物は、生起滅尽流転する有限有形の存在であるが、道(タオ)は、生滅と変化を超えたところにある悠久無限無形の実在である。

道(タオ)は、人間の言葉で説明できるようなものではない。

その言葉は、おぼろげな輪郭をなぞるだけの単なる点画に過ぎない。

不立文字

Non-verbal 言葉なき言葉 言わざるの弁 言葉を去てた至言 言葉にならない言葉

言葉にできない言葉 道(タオ)は、宇宙の根本、万物の本源・始源。 道(タオ)は、恒常不変、絶対的な無。

道(タオ)は、天地(無)を生み、天地が万物(有)を生み、絶対的な無から相対的な無と有が生まれ、相対的な無(天地)から、相対的な有(万物)が生まれた。

道(タオ)への回帰、目覚め。

欲を捨て、その形なき形、声なき声に静かに向き合うとき、命とはなにか、自己の存在、生きて死ぬ意味が明らかになる。

無形なる道(タオ)の世界は、純粋無欲でなければ、その幽玄霊妙な本質を知ることができない。

欲に囚われる者は、常に彼此差別と対立の相対世界に生きるが故、物事の上辺だけでしか観ることができないのである。

道(タオ)に目覚めた者は、心安きに在り静を守り柔を守る。無形のものこそ実在であることを知る。

だから、形あるものに囚われることがなく、形あるものを指し示す名に囚われることもない。それを聖人と呼ぶ。

名の異なる妙なるもの(形而上的世界)と、徼かなるもの(形而下的世界)とは、同じところより出て、やがて道(タオ)に還る。

無形のものと有形のもの、実在世界と現象世界、天地、万物の根源はひとつ。

ALL ONE ONENESS 共通の根源、絶対的な無。これを仮に『玄』と名づけよう。

この玄は一切現象世界を生じる門である。

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【参考文献:白文/書下文/訳】

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道可道非常道。名可名非常名。無名天地之始。有名萬物之母。故常無欲以觀其妙。常有欲以觀其徼。此兩者。同出而異名。同謂之玄。玄之又玄。衆妙之門。

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道の道とす可きは常の道に非ず、名の名とす可きは常の名に非ず。名無し、天地の始めには、名有り、万物の母には。

故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。

此の両者は同じく出でて名を異にし、同じく之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門。

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これが道だと規定しうるような道は、恒常不変の真の道ではなく、これが真理だと規定しうるような言葉は、絶対的な真理の言葉ではない。

天地開闢以前に元始として実在する道は、言葉では名づけようのないエトヴァスであるが、

万物生成の母である天地が開闢すると、名というものが成立する。だから人は常に無欲であるとき、名を持たぬ道のかそけき実相を観るが、いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る。

この道のかそけき実相およびあからさまな差別と対立の相の両者は、根源的には一つであるが名の世界では二つに分かれ、いずれも不可思議なるものという意味で玄とよばれる。

そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、造化の妙用に成る一切万物は、そこを門として出てくるのである。

※朝日選書:老子(福永光司)より引用

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[老子:第一章體道]


https://aokikenji.com/tao-37  【【老子 第37章】道常無爲~無為にして為さざるは無し】 より

為さざること無き、無為。

大自然のいとなみは、道(タオ)の働きによって、自ずから然り、ただ淡々と無心になされる。

人間のように何らかの使命感や目的意識持ったり、作為、打算的意図を持って何かをしてやろうと力んだり騒いだりアッピールしたりしない。

『花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ』

川は流れる橋の下♪ ひろし    雲が流れる丘の上♪ しんたろう

おーい雲よ、嗚呼河の流れの様に穏やかに此の身を任せて、悠々と莫迦に呑気さうぢゃないか。

何処まで行くんだ?ずっと磐城平の方まで行くんか~?   知らん。

水はただ淡々と流れるべくして流れ、雲はただ風の吹くまま流される。

何のために?何の意味が?どんな使命が?と問われても答えようがない。

それらの事象、現象は、人間を喜ばせるためでも悲しませるためでもない。

運がいいとか悪いとか、ツイてるとかツイてないとか、それは人間がただ己れの感情を移入して、勝手に喜んだり悲しんだりしているすぎない、極めて自己中心的な価値判断なのである。

ハムソーセージおいしそう、ハムソーセージたべたいナ♪

って、牛や豚は人間に喰われるために生まれてきたわけでなく、ゴキブリだってスリッパでひっぱたかれる星の下に生まれてきたのではない。

神さまはわたしたちの喜ぶ姿をみたいがために万物をおつくりになられました。

って、教えられても、ゴキブリ嫌いの女子にとってゴキブリを見るだけで神さまを不信するであろうし、アタマデッカチの神さま信者にとって、あの嫌われ者のゴキブリの存在意義とは如何に、などといくら頭で考えてみても答えなど出るはずがないのだ。

なぜなれば、牛や豚やゴキブリは、ただ生まれてきたから、自ずから然り、ただ淡々生きているだけであり、死を向かえればただ静かに死んでゆくだけなのだ。

これが『無為にして為さざる無きもの』の世界である。

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【参考文献:白文/書下文/訳】

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道常無爲。而無不爲。候王若能守之。萬物將自化。化而欲作。吾將鎭之以無名之樸。

無名之樸。夫亦將無欲。不欲以靜。天下將自定。

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道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し。侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。化して作(おこ)らんと欲すれば、われ将にこれを鎮むるに無名の樸(ぼく)を以(も)ってせんとす。無名の樸は、それまた将に無欲ならんとす。

欲あらずして以って静かなれば、天下将に自ら定まらんとす。

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道の本来的な在り方は、人間のような作為がなく、無為でありながら、しかも為さぬということがない。

もしも支配者が、この無為の道を守ってゆけるならば、万物はおのずからその徳に化せられるであろう。

もしも万物がその徳に化しながら、なお欲情を起こすとすれば、わたしはそれを「無名の樸」

――荒木のように名を持たぬ無為の道によって鎮めよう。

荒木のように名を持たぬ無為の道であれば、さても万物は無欲に帰するであろう。

万物が無欲に帰して心静かであるならば、天下はおのずからにして治まるであろう。

※朝日選書:老子(福永光司)より引用

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[老子:第三十七章爲政]

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