玄について

https://cocomasak.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-b470.html 【老子超解:第四章 玄について】 より

四 玄について

道として示すことのできる道は、真の道ではない。名として示すことのできる名は真の名ではないのだ。

名づけ得ぬものこそ天地の始まりであり、(道と)名づけられて万物の母となる。

そこで、常に無欲のままであれば、(道の)微妙な本質をとらえることができるも、意欲したままでいると、(道の)表面的な仮象しかとらえることができない。

この(本質と仮象の)両者は同じ所に由来し、名を異にするだけである。その同じ出所を玄と言い、玄の玄こそはあらゆる事物の微妙な本質の門なのである。

 

 前章で、道には本来名が無いと述べられていたことが敷衍的に展開されると同時に、老子的認識論の基礎が簡明に示されているのが本章である。通行本では本章が冒頭第一章に位置づけられているのも、道に関して存在論的‐認識論的に重要な事柄が凝縮されているためであろう。

 第二段で整理されているように、道は本来無名であるが、仮に道と名づけられて始めて万物の根源という意味を持ち得るのである。ここで改めて名家との相違が明らかにされる。

 本来名づけ得ぬ道は、道とは云々という述定的な形で示すことができるような何ものかではない。道は道[みち]として求めて得られる超絶的‐宗教的な境地でもない。この意味で、老子は求道者ではない。

 道の微妙な本質を把握するためには、それを意欲して追い求めるのではなく、無欲のままでいなければならないという。前章では個物の区別を追求することを禁欲すべきことが説かれていたが、同じことは道についても妥当するのである。

 言い換えれば、企図を持たない言わば脱力的な本質直観こそ老子が励行する認識法であって、もし企図を持った追求的、求道的な方法によるなら、道の表面的な仮象しかとらえることができないのである。

 老子によれば、こうした本質と仮象とは同じ一つの出所、すなわち「玄」から生ずる。この「玄」は他の章でも随所に現れる老子の隠れたキーワードの一つである。

 ただし、ここで言う「玄」とは、「幽玄」というときの文学的・美学的な観念とは全く異なり、本質と仮象とを統一する哲学的な概念である。その点で、これはプラトンにおいて本質と存在とを統一する永遠普遍の実在として観念される「イデア」を思わせるものがある。

 しかし、老子の「玄」は、より実践的な認識の方法論的目標として、ここでも仮の名として示されているにすぎないのである。そうした「玄の玄」、すなわち「窮極の玄」とは、原文で「衆妙の門」と表現されるまさに道の認識論的な別言と解することができるであろう。


https://ameblo.jp/taomuijinen69/entry-12434297583.html  【万物を生む「玄き門」 ~體道第一~】 より

象元第二十五に続きまして次にご紹介します章は體道第一、第1章です

このフレーズは有名なので、覚えておくと良いかもしれません

何の役にも立ちませんが(;´∀`)

原文

道の道とすべきは、常道に非ず。名の名とすべきは、常名に非ず。名無し、天地の始めには。名有れ、万物の母にこそ。

故に、常無は以って其の妙を見んと欲し、常有はその徼を見んと欲す。

此の両者同じきより出でて、名を異にす。同じきもの之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門。

世間一般で言われている「これこそが道だ」というものは、老子の言う恒常の「道」とは違う。世間一般で言われる「これこそがその名だ」というものは、老子の言う恒常の名ではない。宇宙が誕生する前は、名前などなかった。宇宙が誕生し、万物が生まれたときに名前が出来たのだ。だから、宇宙誕生以前の根源的に「無」の状態には、道の微妙で奥深い働きが見て取れ、宇宙誕生以後のはっきりとした形の「有」の状態になると、万物の区別がされるようになったのである。

この「無と有(妙と徼・天地と万物)」は同じものが生み出したが、名前が異なっている。

この二つを生み出したものを「玄」という。

玄の更に玄にこそ、全ての奥深い現象を生み出す門である。

はい、難しいです(;´∀`)

学者でも意見が分かれるところであり、解釈の仕方もいくつもあります。

さらに原文の「故に、常無は~~」以降は老子ではなく別人がつけ足したのではないかとも考えられていてますますカオスですが、大事な所は前半と最後のところ「世間一般で守るべきと考えられている道は」「老子の言う恒常の道とは違うよ」のところが1つめ

学校には「道徳」の授業があります昨年果今年からかは知りませんが、道徳の授業も「採点」しなくちゃいけないとかで先生方はお困りでしょう。道徳、というと老子もまた道徳について語っています

この世界の法則である「道」とそれに身を委ね生きる「徳」 道と徳、道徳です

ところが、この章の始めにあるように「世間一般で言われるような道(道徳)は」「老子のいう道とは違うよ」ということです。

老子の言う「世間一般」が何かというと老子の時代で言えば「儒家」の唱えた「道(道徳)」親子関係や上下関係、目上に対する礼儀礼節今まさに日本で教えているような道徳は老子の言う道徳とは全く別なようです

老子が書いたのかは分かりませんが老子の中には「儒家批判」が多く出てきます

大道廃れて仁義有り。(中略)六親和せずして孝慈有り。――俗薄第十八

無為自然を失い、道に身を委ねない者が増えたため(儒家の唱える)仁だの義だのが重視されるようになった。

(大道から離れたが故)親族を大事にしなくなった者が増えたためたまに出てくる孝行者が目立つようになった。

無為自然であれば、そもそもに人と人は調和するはずだったが、無為自然が廃れてしまい、「仁」「義」「礼」などというものが無いとダメになってしまった

老子曰く「礼は争いの元」だそうです(;´∀`)

道可道、非常道 道の道とすべきは、常道に非ず

本当の道の法則、無為自然っていうのは人に作られた礼とか仁愛とかじゃないんだよ

もっと本質的な所に、目を向けるんだよと言われている気がします

で、後半此の両者同じきより出でて、名を異にす。同じきもの之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門。

「無と有」もしくは「天地宇宙と、私たちを含む万物」は同じものから生まれましたよ、という話

その同じものってなんやねんというと当然「道」が生み出したわけですが、老子はここでは道とは言わず、「玄」と言っています

玄米、玄人、玄武というような「玄」ですが元の意味は「黒い糸」

この黒い糸が束ねられた状態から「玄」という漢字が出来たそうです

ただ、ここでの意味は「糸」よりかは「黒くてドロドロしたもの」と思う方が良いかもですね黒くてドロドロ未分化の状態=混沌=道 という流れになります

老子は「道」の説明をする時に 色んな別の単語を使っています

「道」を表現した単語

・玄・恍惚・母・一(いち)・玄牝などなど

特にこの「玄」という言葉は老子が愛用したのか、よく出てきます

奥深い深遠な様子を表した言葉ですが「玄徳」…奥深い徳「玄牝」…奥深い母性

など、よく出てきます

この玄の更に奥深い玄が万物を生み出した「門」だよ、と書いているわけですね何だかますます道のことがよく分からなくなってきた気がします(笑)

今後色んな具体例や身近なものが例として出てきます次も道の不思議な現象を見ていきますよ~


http://www.aqast.net/~tao/01seiseiron.html  【老子の宇宙観The World of Lao-tzu and Tao】 より

●「道(tao)」の宇宙論

まず最初に、老子の「天地生成論」を図でご紹介しておきます。

One-Point ◆ 老子は、天地生成の仕組みから、君子候王に治世の道を説きました。そのため『老子』の冒頭、第1章に「天地生成論」を置き理解を求めたのです。しかし、ほとんどの『老子』註釈書は、ここからして誤解をしています。

老子の思想を正しく理解するには、『老子』の冒頭部分を、まず正しく解釈しないことには始まりません。

「道(タオ)」や「太極」、また「陰陽思想」にかかわる老子の「天地生成論」の部分です。

この第1章の解釈が、『老子』全体の解釈の基礎となる重要な部分であるために、正しく理解しておくことが、『老子』全体の理解には必要です。

ここを間違えると、老子の教えを誤解し、『老子』の解釈に齟齬(そご)をきたす箇所が生じざるをえません。

このサイトでは、老子の「天地生成論」の正しい解釈をご紹介します。

ちなみに、かねてより『老子』解釈の重要なテキストとして、魏の王弼などの註釈が参考にされてきました。

すでに、旧き時代から、さまざまな註釈書があり、『老子』は誤釈されることが多かったことが分かります。

素直に、ごく素直に第1章を読めば、老子が実に分かりやすく、「天地生成論」を述べていたことが見えてきます。

●名もなき「道(Tao)」

先に「天地生成論」の概要を述べておきます。

そののち、第1章を一文ずつ解説してまいります。

そのほうが次ページから述べる第1章を理解しやすいと思うからです。

「道(Tao)」という言葉は、誰でも聞いたことがあると思います。

実は「道(Tao)」には名がありません。

名はないけれども、宇宙の根本を「道(Tao)」としています。

宇宙天地世界が始まる前、つまり深淵(しんえん)の深淵、暗闇のまた闇をのぞくように見ることができず、形容すべき象(かたち)もなく、あるべきもないので、名がつけられません。

しかし、何か命名しておかないと伝えることができないために、仮に「道(Tao)」としたものです。

ですから、一般の道と「道(Tao)」はまったく異なります。

天地の「道理」でもなく、人の「倫理道徳」でもなく、ふつうに歩く大地の「道」でもなく、もちろん名前がないので、「無」という名前でもありません。

そんなものがあるか、って?

私は見たことがありません。 当たり前ですね。

でも、それが、老子が『老子』の冒頭で述べている「道(Tao)」です。

One-Point ◆ 第32章にも「道常無名」とあります。「道は常に名無し」です。しかし、第1章をふつうに読めば、「道(Tao)」に名が無いのは当たり前だと分かります。

●名による「無」と「有」

「道(Tao)」をなんとなく分かったところで、次にいきます。

分かりやすくするために、少し飛ばして、陰陽思想で「太極」と呼ばれる、「無」と「有」を先にご紹介します。

そのあと、話を戻して、老子がいう「名」をご説明します。

森羅万象が生じた万物世界に私たちは住んでいます。

この世界は、確かに存在しています。

この天地の「始まり」は何か? 老子は問いました。

「有る」の前は「無い」ので、天地の始まりを「無」としました。

一方、「始まり」があれば、当然、その「結果」や「結末」があります。

「結末」とはこの万物世界のことです。

しかし、「無」からいきなり万物世界は生じません。

老子は、万物を生じさせたものがあることに気づきました。

それが、「有」です。

老子は「無」と「有」をそのように位置づけたのです。

もとい。

では「無」と「有」は、どこから生じたのでしょうか?

「道(Tao)」には名がありませんが、天地の始まりは、「無」という名ですし、また万物を生じさせた母には「有」という名があります。

では、いったいどこから名が生じたのでしょうか?

「無」と「有」に先んじて、「無」とか「有」とか名付けた働きがあるのです。

それを老子は、「名」と呼んだのです。

この「名」は、ふだん言われている名前や名分ではなく、むしろ命名に近い働きを意味しています。

「名」ありて、「無」と「有」、すなわち陰陽思想で使われているような「太極」が生まれたのです。

One-Point ◆ 古来、中国では、「太極」は万物の根源とされてきました。老子以後、太極の前に「道(Tao)」を置き「無極」としたり、一緒にして「無極にして太極」とすることがあります。老子の「天地生成論」の影響です。

●『老子』は単純でよい

老子ほどの頭を持つ人です。

難しく解釈する必要はありません。

老子は、『老子』第1章にちゃんと順番に、分かりやすく「天地生成論」を記しています。

まず「道」。

次に「名」。

「名」の次に、「無」、そして「有」です。

順番に触れていき、簡潔に定義づけをしています。

素直に、ごく素直に読めば、老子の「天地生成論」を理解できるのです。

多分、多くの知者は、「名」の理解が難しかったのでしょう。

難しく考えすぎて、「道(Tao)」と「無」を同一視したり、と。

「道(Tao)」は、「名」以前ですから、当然、「道(Tao)」なるものに名はありません。

一般的にも、命名されることによって初めて認識され、「概念」としての意味づけがなされ、「存在」として認知されます。

そのような命名の働きを老子は、「名」と呼び、存在可能ならしめるものとして位置づけたのです。

天地万物世界が生じる前に「無」と「有」(俗にいう太極)があり、「名」が、それに先んじていることに気づかなければなりません。

「名」以前は、名もなき「道(Tao)」です。

これが老子の「天地生成論」の概要です。

「えーっと、そうですよね? 老子さん」

「然り!」

老子もそう言っていますので、間違いはありません。

では、次のページから、『老子』第1章を一文ずつ、分かりやすく解説していきます。

お時間がありましたらお付き合いください。

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