松尾芭蕉『奥の細道』現代考

http://www.akitakeizai.or.jp/journal/201610_zuisou.html 【松尾芭蕉『奥の細道』現代考】  より

「波越えぬ 契りありてや みさごの巣」(「象潟」曽良)

1. はじめに

 地元秋田の意欲ある中小企業の発展を支援する税理士法人とコンサルティング会社を経営する日常からは、飛躍しますが、筆者は、ここ数年、1689年(元禄2年)象潟(現在のにかほ市内)を訪れた松尾芭蕉(1644年-1694年;以下、「芭蕉」。)の紀行文『奥の細道』1に魅せられています。関係文献の通読はもとより、実際に芭蕉の旅したゆかりの地を訪れ、320年前の往時に思いを馳せることで、時空を超える芭蕉の偉大さに触れてきました。

 そこで、本稿では、芭蕉の生涯と『奥の細道』の旅を紹介することで、読者にビジネスセンスに加え、「風流」や「粋」の要素も経営姿勢に盛り込んで頂くことを目的として記述したいと思います。

1本稿で紹介する紀行文・句・行数等は、高松和平『芭蕉-奥の細道内なる旅-』(佼成出版社、2007年)及び松尾芭蕉『芭蕉全句集』(角川文庫、2014年)から引用しています。また、句は、原則として芭蕉作とし、他者の句については、別途作者名を付記しています。

2. 芭蕉の生涯

 芭蕉は、1644年、伊賀の下級武士の次男として生を受け、伊賀上野の藤堂家に仕え、俳諧の心得を学び、俳諧で身を立てるべく、江戸へ出ます。日本橋に居を置き、神田上水工事などで生計を保ちながら、修行を積みます。甲斐あって、著名な宗匠(プロの俳諧師)となった芭蕉は、当時の世俗的な俳壇から距離を置き「風流」を極めるため、一人深川の草庵(現在の江東区常磐一丁目内)へと転居しました。当時の飾らずに静然と時空を見つめる心境を「古池や蛙飛びこむ水のおと」と、詠んだのです。

 1689年の陽暦5月9日、芭蕉は弟子の曽良を伴い、深川を出立し、松島、平泉、象潟を目指します。やはり旅を栖とした尊敬する歌人でもある能因法師(988年-1058年)や西行法師(1118年-1190年)2 の足跡を辿ることが俳人・芭蕉の旅の目的だったことは論を待ちません。およそ2400km、150日に及ぶ行脚は、人生50年の当時、既に46歳の芭蕉にとって、どれほどの苦行だったか、想像に難くありません。しかし、同年の陽暦10月11日3 、旅は見事に大垣(岐阜県)で完結します。

 その後、芭蕉は、江戸に戻り、紀行文の編纂に力を注ぎます。1694年夏までの編纂を終えた後、弟子同士の諍いの仲裁のため、大阪に出向き、不覚にも体調を崩します。同年の陽暦10月12日、大阪・御堂筋の花屋仁左衛門屋敷で、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」(笈日記)の句どおり、芭蕉は行きかう年月とともに現世での50年間の旅を閉じることになります。

2西行は藤原氏の出自で、俗名は佐藤義清。鳥羽院の北面武士として仕えましたが、1140年(23歳)に出家、1144年頃、奥羽地方(平泉・羽州など)のほか諸国を旅し、歌を詠んでいます。西行については、白洲正子『西行』(新潮文庫、2014年)をご参照下さい。

310月17日との説もあります。

3.元禄期について

 芭蕉が活躍した元禄期はどのような時代だったのでしょうか。ここでは、文化面に絞り、簡潔な紹介を試みたいと思います。

 江戸初期の元禄期(1688年-1704年)は、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉(1646年-1709年、1680年-1709年在位)の文治政治の下、井原西鶴(文芸)、近松門左衛門(浄瑠璃)、尾形光琳(日本画)、菱川師宣(浮世絵)などを輩出し、江戸っ子の「粋な庶民文化」を華開かせます。それまでの公家や武家の文化の時代とは異なる庶民による創造性あふれる文化の時代を築き、文壇では、連歌に加え、俳諧も盛んとなり、芭蕉はその中心に鎮座していました。

 言い換えると、元禄期は、平安時代末期からの武家の台頭、応仁の乱(1467年-1477年)、下剋上の戦国時代、関ケ原の戦い(1600年)、大阪冬・夏の陣(1614年・1615年)など、長い戦乱の時代を終え、漸く庶民にも文化を享受できる豊かな日常が与えられた時代だったと解せます。

 元禄期が生み出した浮世絵は、海を渡って、あのクロード・モネなどの印象派に影響を与えたのは周知の事実であります。正に世界で認められた近世日本の庶民アートが輝き始めた時代でした。

4.『奥の細道』の旅の真の目的

 元禄期のアーティスト・芭蕉が『奥の細道』の旅に出立した真の目的は、先人の旅跡を巡り、俳諧を極めるだけでなく、①亡き人々への鎮魂と②不易流行の境地に辿りつくことにあったとする長谷川櫂氏の説4があります。

 ①については、「夏草や兵どもが夢のあと」(二十五「平泉」)が、一般には、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏と義経主従を鎮魂する名句として知られていますが、同氏はそれを含めた長い戦乱の時代に散った多くの人命に対する鎮魂句として、より広く解しています。

 ②については、芭蕉が、越後(現在の新潟県)・出雲崎で詠んだ「荒海や佐渡に横たふ天の河」(三十三「越後」)からも読み取れるように、不易流行の境地に辿りつくことも旅の真の目的だったと解しています。筆者も同感であり、筆者は、当句が「人間の愚かな営みが波のように荒々しく多くのものを飲み込んで流れる中(流行)で、日本海に厳然と横たふ佐渡島とその上空に悠然と横たふ天の河が示す不変の存在感(不易)を表現している」と解しています。さらに、同氏が不易流行の境地のさらなる先の人間の営みのあり方を「かるみ」5という概念で説いている点は、非常に興味深いと考えます。

4長谷川櫂『100分de名著 おくのほそ道』NHK出版、2013年。同氏は東日本大震災の後、松島、平泉、立石寺を辿った結果、この鎮魂説に至ります。『奥の細道』の旅の目的は諸説があり、この他にも、日光東照宮の修復工事の視察、仙台藩や加賀藩の密偵にあったとの説もあります。

5「かるみ」については、鎌倉時代、やはり平泉・松島を始め、諸国を旅した時宗の祖とされる一遍上人(1239年-1289年)の思想が思い浮かびます。仙台市若林区新寺町にある阿弥陀寺には上人の像と「かるみ」を唱える石碑が置かれています。

5.『奥の細道』現代考

 さて、現代に時計の針を進めて、『奥の細道』の旅を振り返ってみると芭蕉について、どのようなことが浮き彫りになるのでしょうか。

 十人十色、様々なことが、論じられると思いますが、筆者は本稿で芭蕉が持つ3つの特性について論じたいと思います。

 第一は、『奥の細道』に代表される芸術作品を生み出した天才的な感性です。

 芭蕉の言葉として知られる「絶景に向かうときは奪われてかなわず」のように、巡り合った絶景に、心を奪われた画家6がカァンバスに絵の具を落としたような、「暑き日を海に入れたり最上川」(三十一「酒田」)の感性です。さらには、「閑さや岩にしみ入る蟬の声」(二十八「立石寺」)では、実際に目で見えている身近な事象(蟬とその鳴き声)をそれらに相反する、目に見えない時空(山寺の閑静な仏教世界)へと展開させ、全体として見事に両者を調和させています。この句も五七五の僅か17文字で究極的な単純美を創り出す感性に満ち溢れています。

 第二は、『奥の細道』という作品に組み込まれた幾何学的な論理性です。

 この点は、二十三「松島」と三十二「象潟」の紀行文や句から明確に読み取ることができます。これら全文を対比表にすれば、その対称性が一目瞭然となりますが、紙面の都合から、その一部を対比しましょう。

<『奥の細道』での松島と象潟の記述の比較>

松 島 象 潟

風景(絶景の表現) 扶桑第一の好風にして 江山水陸の風光尽して

地勢 江の中三里 江の縦横一里ばかり

天空との関係性 天を指す島々 天をささえる鳥海山

美の象徴 その気色窅然として美人の顔を粧ふ 「象潟や雨に西施がねぶの花」

ゆかりある歴史上の偉人 雲居禅師 能因法師・西行法師

身近な動植物(鳥) 「松島や鶴に身を借れほととぎす」(曽良) 「汐越や鶴脛ぬれて海涼し」

「波越えぬ契りありてやみさごの巣」(曽良)

行数(うち句数) 31行(1句)7 33行(5句)

6洋画家・沖津信也氏(米沢市)は、『奥の細道』のゆかりの地に出向き、絶景に向かいながら創作を重ねています。沖津信也『沖津信也画集-油絵で描くおくの細道-』(青葉堂印刷、2012年)。

7芭蕉は松島の絶景に圧倒され、句を詠まずに曽良の1句のみを収録したとの逸話がありますが、「島々や千々にくだけて夏の海」(「蕉翁全附録」)を詠み、あえて『奥の細道』には収録しなかったようです。時に芭蕉の句と誤認される「松島やああ松島や松島や」は狂歌師・田原坊の作との説が一般的です。

 「松島」と「象潟」では、季語はもとより、風景、地勢、天空との関係性、美の象徴、歴史上の偉人、身近な動植物といった要素を洩れなく散りばめ、紀行文全体をシステマチックに構成しています。そして、「象潟」では最後に「松島は笑うがごとく、象潟は憾むがごとし」と結んでいるのです。

 当然ながら、比較研究の学術論文でも、論理的にトピックを記述することが求められます。具体的には、先ず両者の共通点を明示し、次に、両者の相違点を明示する。そして、最後にそれらの関係性を論じて締めくくるのが一般的な記述であります。芭蕉は『奥の細道』の編纂に約3年を費やしたとされますが、このように推敲の作業は、冷静に、かつ、極めて論理的に進められたと読み取れます。

 最後は、『奥の細道』の旅の真の目的につながる徳性(倫理観・人生観)です。

 この点で筆者は、現代も元禄期の前の時代のように、戦乱と人間の強欲の只中にあり、心ある現代人も鎮魂あるいは癒しの旅に無意識に引き寄せられているとの仮説を立てます。宗教対立や経済対立による内戦やテロ事件の増幅、新自由主義に基づく金融のグローバル化が齎す貧富の格差や繰り返される経済危機、さらには、経済合理性を優先した原子力発電所の事故など現代社会の凄惨さを示す事象は枚挙にいとまがありません。

 一方、現に熊野古道やスペインのサンディエゴ・デ・コンポステーラの巡礼の道がユネスコの世界文化遺産に登録されただけでなく、NHK・BSプレミアムの「にっぽん縦断こころ旅」や「グレートトラバース~日本百名山一筆書き踏破~」が人気番組となっていることは、非日常の旅を通して鎮魂や癒しを求める現代人の心の内面を示す証左と言えます。前述のように、戦乱の時代に亡くなった多くの人命への鎮魂自体がこの偉大な紀行文の最大のモチーフであり、そこに芭蕉の徳性が静かではあるが、脈々と流れていると考えます。

 そして、芭蕉の人生自体がこれら3つの特性の絶妙なバランスを土台に「風流」や「粋」を意識しながら表現した、彼の創出した最高の芸術作品だったと結論づけたいと思います。

6. むすびに

 これまで、「風流」で「粋」な芭蕉の生涯とその活躍した時代である元禄期、『奥の細道』の旅の真の目的とその旅から読み取れる芭蕉の持つ3つの特性について、紹介してきました。

 ここで、感性・論理性・徳性を論じた理由は、弊社の経営理念が、3つの特性を役職員が磨きながら、地元秋田の意欲ある中小企業の発展に貢献することにあるからです。

 到底、天才・芭蕉に及びもつきませんが、会計・税務・コンサルティングという3つの領域で、これらの3つの特性を生かすことが、「風流を尊ぶ粋な会社」に繋がると信じ、これからも肩肘を張らず、コツコツと日常業務に精進したいと思います。

 読者の多くは企業の経営者だと思いますが、皆様も「風流を尊ぶ粋な経営」を目指されることを念願して、拙稿を結ぶことに致します。

「風流の初めや奥の田植歌」(十二「須賀川」)