俳句観

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2015_12_01/03.html  【資料3:「飴山実の俳句観」】 より

<新春座談会>「今日の俳句、明日の俳句」より

 飴山実は上記座談会で持論の俳句観を述べている。その論点を纏めると以下になる。

* なお太字の部分は、飴山実の俳句観の基底と思われるもの(発表者の判断)。

■俳句史と俳壇史は分けて考えないと本質を見誤る危険性がある。

■「自然の真と文芸上の真」という秋桜子の文章で、秋桜子が虚子から離れたのは俳句史上の大事件と考えられている。

■この事件以降、俳壇は昭和俳句に入り今日までつながる、という一般的な見方には大きな疑問をもっている。

■秋桜子と虚子の当時のいきさつを見ると、この事件は俳句史上の問題ではなく単なる喧嘩である。つまり俳壇史的な事件である。

■自分は俳壇的なことに関心は全く無く俳句的なことだけに関心があるので、従来言われている俳壇と俳句が混同している歴史を一回白紙に戻して、自分の目で俳句史を作り直している。

■一般には秋桜子以降の昭和俳句は固陋な「ホトトギス」の俳句から離れ、飛翔し進歩して来たと言われているが、むしろそこから俳句は本筋から離れてヘボ筋に入ったと見ている。

■ヘボ筋というのは俳句の性質に関わることで、俳句の根幹をなす定型と季語に関する捉え方に問題があるということである。

■秋桜子は窪田空穂の短歌を、また秋桜子に合流した山口誓子は石川啄木とか斎藤茂吉の短歌を研究していた。つまり昭和俳句は短歌に関心のある人からスタートしたといってよい。

■このため、俳句の定型が短歌的定型に入ってしまい、五七五で自己完結してしまった。

■短歌の定型と俳句の定型は本質的に違うもので、性格も機能も違うものである。

■短歌の場合は五七五七七と詠みその時点で完結し、さらに七七で上に返り閉環するが、俳句の場合は最後の七七がないために側(そば)の人に預けるという性格が本質的にある。つまり自分が五七五と詠めば横の人があとを付けるということで成り立つものである。

■すなわち自己完結せず、展開していこうというのが俳句の定型の一番大事なところ。端的に言えばあと半分は人まかせにするというのが俳句の定型である。

■季語も、季節の先端に触れて、「ああ春が来た」というのが、季語の本来の姿です。そういう作品を他人が読んで自分も同じ感じを受ければ、その季語を介して、作者と読者は一つの挨拶が交わされた関係になる。これも定型のときにあと半分他人にまかすのと同じように、複数の人がおらんことには成り立たない世界です。短歌は自己完結するから一人ぼっちで完成するわけです。一つの世界ができる。俳句の方は一人ぼっちで完成したってつまらない世界なのに、昭和俳句はそっちの道を選んだ。そこがヘボ筋に入った。ということ。(p153~154)

■現代俳句というのはみんな発句を作ることに一生懸命になってきたでしょう。五七五という恰好で発句を作ることに一生懸命になっていたけれども、発句というのは脇があっての発句だから。脇句も作れない人間が発句を作れるはずがない、というのがこの詩型の根底にあるわけですよ。別に脇を作らなくていいけども、自分の作る五七五というものには脇があってもいいのだということ。古典がそうだったからというだけでなくて、五七五という形はそういうものだ。それを、五七五で世界を完成してしまうという現代俳句の考えは、秋桜子から始まった昭和俳句のヘボ筋で一層明確になった考えだと思うんだ。(p154)

■あの頃は「アララギ」とか、「明星」という非常に魅力的な世界があったというのが片方にある。短歌にその当時の俳句作りの心が寄るのも分るし、それからもう一つ文学を抜きにしても、正岡子規以降、どの分野でも近代化というのがあって、自然科学も産業のほうもそうでしょう。それからあの頃、僕が学生のとき読んだ『近代自我の確立』というのがあったけれども、個我を確立ということにたいへん前のめりの考え方が強かった。そういう時代背景というものがあったと思うんですよ。(p154)

■片方で、もう一つ、人間は進歩するものだという迷信があるでしょう。子規の頃よりも虚子、虚子の頃よりも秋桜子、その後の新興俳句、戦後俳句から今日まで、というように。俳句もどんどん新しく進歩してきたという、たいへんたわいない迷信があるようだけれども、そうは簡単にものごとが進むものでないことは、みんないい人を選んだから政治がよくなった、というわけにはいかないのと一緒でね。ちっとも進歩していませんよね。こんな考えは近代以降の自然科学の影響だと思うんですけれどもね。(p154)

■だから、やっぱり俳壇史と俳句史を区別せんといかん。俳句史を考えるんだったら自分の裸の目で見て、素手でものを掴み直すということをしないと、俳句史の姿をちゃんと掴めない。(p154)

■秋桜子・誓子の昭和俳句は短歌形定型を持ったところからスタートしてしまった、ここにヘボ筋の誤りがある。

■これに対して本筋の虚子の句には挨拶句も多く、そうでない句でも付けて見たくなるような句が多くある。この傾向は虚子周辺の素十、青畝、川端茅舎、松本たかしにもある。

■秋桜子のヘボ筋への離れ方が華々しかったので、新興俳句以降は自己完結俳句ばかりになってしまった。

■ヘボ筋の二点目はまたこれも俳句の根本問題である季題の使い方である。季題と言うのは本来、季節の先ぶれに出会ったときの感動からくるもの。季節の先端に触れて「ああ春が来た」というのが季語の本来の姿、つまり先に生活感情があって言葉はあとになる、それが基本である。

■ところが今は、季語が先にある、そうなると生活感は淡いのに季語だけを使っている句が多い。つまり生活感情が抜けている。

■季節の先ぶれに感動し作品を作ると、その作品を読んだ人も共感する。すると季語を介して作者と読者が挨拶を交わすことになる。季語がピン・ホールになり、こちらの世界があちらにも世界を作る。ところが季語が先にあって生活感情が淡い作品は、その分挨拶性が弱くなる。

■歳時記の存在も、その傾向に拍車をかけている。自然科学みたいなもので先に分類している、だから生活感情は置き去りにされ知識が優先される。

■江戸末期までの梅の句にはいい句が多いが、現代俳句にはいい句がない。江戸時代までの句には、たしかに梅だなという梅の質感があった。つまり材質感がきちっと出ていて梅の本性が表れていた。それが現代会句からは材質感が失われている。

■昔の句には梅の匂いがたしかにしてくる、今の句は梅の匂いがしない。もともと文学とは作りものなんだから材質感をおさえていればいいが、おさえてなければ何を作っても駄目。

■歳時記と言う便利なものがあるが、材質感については何も触れていないし、鑑賞も材質感とは離れた所で行なわれている。

■材質感というものは生活感である。生活をしている人間が、これは梅の匂いだな、あれは白梅の匂いだな、紅梅は匂いがないなあ・・ということで生活感がものを区別しているところがある。

■春に先駆けて春を感じとるのも生活感であって、季語や天気予報のせいではない。季語なんていう言葉はそのあとから来るもの。

■材質感というものは本に書けるものではなく、一人一人の人が一人一人の生活の中で出くわして、体でおぼえていくしかないもの。

■俳句とは生活している人間の感性を扱うもの。だから生活している人間がその感性でものをつかまえ、それを表現することで自分自身がそこに実存している、ああ自分自身があるのだなあという現実感をつかまえるのが俳句での表現である。そうすると生活感情が非常に大事になる。そして材質感が大事になる。

■私は新興俳句をよく読むし、へたな有季定型よりもよっぽど面白い。だが必ず表現上の問題がある。理由は二つある、先ず前述したヘボ筋にはまった昭和俳句の埒内だから、もう一つは現代詩を親か兄気にしているから定型感覚がないに等しい。

■象徴的なのは「櫂」の谷川俊太郎さん達の連詩で何人かで連句見たいのを作っている。ところが誰か何を言ってもそれが通じないまま次の人がまた呟くという感じ、イメージが動いて行くのではなく、ポツンポツンと別の言葉の音が聞こえるだけ。

■誰もがすさまじく孤立している。前述した俳句の定型の、動いていく要素に欠けている。これは現代詩がきわめて個的閉鎖的な世界を生きて来たための末期症状でしょう。

■ヘボ筋というのは自己完結の世界だった。自己完結というのは俳とは違う、俳を問題にするなら自己完結でなくて複数の人間の世界を取り戻さなければならない。

■己を捨てること。昭和俳句は己を出してきたからヘボ筋に入った、虚子の花鳥風月は己を捨てることから発している。写生も自分を捨てること。柔道の空気投げだな、結局それで自分が生きる。

以上


https://blog.goo.ne.jp/norihiko/e/4a196060649db633794898db7de555e6 【『三島由紀夫の俳句及び俳句観』】 より

 ここで唐突ですが、『三島由紀夫の俳句及び俳句観』というタイトルで、三島氏の俳句観を紹介します。なぜ今三島由紀夫かというと、1970年(昭和45)のあの衝撃的な事件から、今年2020年は没後50年(半世紀)であるということ。そして当時青春期を迎えていた我々の世代にとっては、1970年11月25日(三島氏自決の日)といえば、どこでなにをしていたかを如実に思い浮かべることができる、稀有な日であったからだ!

それはともかく『三島由紀夫の俳句及び俳句観』を紹介してみよう(太字は典比古)。

●三島由紀夫の俳句及び俳句観

 『三島由紀夫全集35』(新潮社・昭和51年)の「俳句 短歌」の章に、俳句四十一句、短歌二十首が掲載されている。

俳句に関しては、満六歳から十八歳までの句があるが、少し紹介してみる。

 アキノヨニスゞムシナクヨリンリンリ  (六歳)

 アキノカゼ木ノハガチルヨ山ノウヘ  (六歳)

 おとうとがお手手ひろげてもみぢかな (七歳)

 秋の山幾色あるかうつくしや     (八歳)

 枯草の土手もいつしか青くなる    (九歳)

 六星霜見る間に過ぎて御卒業    (十歳)

 我忘れ見とれる程のつゝじかな    (十一歳)  

 雪晴れて光あまねき朝哉      (十三歳)

 古き家の柱の色や秋の風      (十四歳)

 ふとレコード止みつ彫像の鋭き冷え  (十五歳)

 五月闇自転車のベル長く引き    (十五歳)

 チューリップかなしきまでに晴れし日を (十六歳)

 秋灯よのつねならむ枕邊に     (十八歳)

ここに『三島由紀夫全集30』(新潮社・昭和50年)の中に「俳句と孤絶」と題する氏の三十七歳(昭和37年)のときのエッセイがある。

「私も時折句会に誘われることがあるが、つひぞ行つたことがないのは、句会の、和気あいあいとした同好の士の集まりと謂つた空気が、どうしても私を尻込みさせるのである。・・・中略・・・永患ひの病者や囚人などの作つた短歌や俳句には、よく、感動的な作品が現はれるが、小説や戯曲の制作には自由な時間も精力も要るから、かういふ不幸な人たちの魂の叫びが、短章のうちに凝結する点では、日本伝来の短詩に如くものはないであらう。その病院や監獄の中でも、短歌会や句会はしばしば催されるが、さういふ場所の句会は、表は和気あいあいであっても、内実は、弱い人間が必死に心の安息を求めようとする真剣な気分が漂つてゐるだらうと思はれる。病院や監獄は、実存主義哲学のいはゆる限界状況であるが、俳句の如き五七五の短い形式的制約が、かういふ追ひつめられた限界状況とみごとに符号するときに、そこに魂の火花が飛び、孤絶の目のみが見得る世界がひらけるのであらうと思ふ。

問題は俳句の制作に当つて、いかにして、五七五の形式にむりやり押し込められたといふ緊迫感が得られるかといふことである。俳人すべてが病者であり囚人であるわけには行かないけれど、ただの手なぐさみの俳句ではいつまでたつても素人の遊びにすぎず、その俳人の心の中に、五七五といふ檻にふさはしい限界状況がひそんでゐなければならぬ筈である。孤絶の魂がひそんでゐなければならぬ筈である。何か、決して人に向かつては云へない秘密の、俳句のみが心の小さな窓であるやうな、さういふ状況を俳人の心に想像するのは、私のあまりにも小説家的想像力であらうか。そんな孤絶と、のどかな句会とが、どこで折れ合ひどこで調和するのか、そのへんが俳句といふ芸術の厄介なところだらう。孤独な不幸な告白型の芸術家といふイメーヂは、近代の浪漫主義によつて作られたイメーヂで、近々百年ばかりの間に出来たものである。しかるに句会は連歌以来の伝承で、これに数倍する歴史を持つてゐる。句会には従つて、近代以前の幸福な芸術像がまつわつてをり、これは本来、近代的芸術家のイメーヂとは相容れないものである。だが、よかれあしかれ、俳人が近代的な芸術家になればなるほど、内心、和気あいあいたる句会の雰囲気を嫌悪するやうになるだらうと想像される。その嫌悪をあらはに顔に出せないところに、現代の俳人の置かれた困難な姿があるのではなからうか。

 今、私の脳裡で、ささやかな幸福な句会をひらいてみて、その席に一等ふさはしい俳人はと考へると、高浜虚子を以つて最後とする。ある意味では、虚子は『最後の俳人』であり、『最後の幸福な芸術家』だつたのであらう。」(初出・青・昭和三七年)

                                以上

「ただの手なぐさみの俳句ではいつまでたつても素人の遊びにすぎず・・・」という箇所は、私には耳が痛い。が、ただの手なぐさみでも、素人の遊びでもいいのではないか、とも思っている。ただ気になるのは上記の三島氏の文章の中の「実存主義哲学のいはゆる限界状況」という言葉があるが、もしかして芭蕉さんが深川に隠棲したのも、自分の俳諧をもっと進化、深化させるために自ずから限界状況を作り出すための積極的行動だったのかもしれないと、ふと思った。

ところで、三島氏の『日本文学小史』(講談社・昭和47年)は第一章・方法論、二章・古事記、三章・万葉集、四章・懐風藻、五章・古今和歌集で絶筆となってしまったが、構想において第十章に「近代民衆文学の文化意志である元禄文学(近松・西鶴・芭蕉)」を書くつもりでいた。このことは、氏の全集の中に、ドナルド・キーン著『日本の文学』についての批評の中で、「しかし、何と云つても、第二章、いや、『日本の文学』全編の読みどころは、芭蕉の〃雲の峯いくつ崩れて月の山〃の分析や、水無瀬三吟の丁寧な解説や、芭蕉の〃古池〃の句の的確な分析などである。」と、キーン氏を褒め称えていることからも、三島氏の俳諧に対する読みの深さの一端を知ることができる。この氏の『日本文学小史』の第十章を読みたかったと、つくづく思う。

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