聖徳太子とイエスキリストそして仏教

http://mujaki666.seesaa.net/index-21.html 【聖徳太子とイエスキリストの謎】 より

イエスは馬小屋で生まれたが、聖徳太子も馬小屋で生まれている。

イエスは大工の息子として生まれて家業を手伝っていたが、聖徳太子は日本の建築の祖といわれている。

つまり、イエス・キリスト(絶対神ヤハウェ)がフリーメーソンの始祖であるのに対して、聖徳太子は日本のフリーメーソンの始祖なのだ。

イエスは様々な奇跡を行なった預言者だったが、聖徳太子も様々な超能力を発揮し、壮大な預言書を遺している。

イエスはダビデの血を引くユダヤの王だが、聖徳太子は摂政として天皇代理を務めた。

イエスは槍で処刑されたが、聖徳太子も暗殺されたという伝説があり、共に他殺で死んでいる。

イエスを「聖」という漢字で表現するが、聖徳太子の名はイエスを意味する「聖」を冠している。

聖徳太子は謎に包まれた人物で、「聖徳太子は実在しなかった」という説や、「イエス・キリスト伝説が聖徳太子という架空の人物を生み出した」という説があるが、どうせ言うなら、聖徳太子の正体は、古代日本に再臨した「イエス・キリスト」だった可能性すらある。

裏の日本(アルザル)を統治する天皇(イエス)が、表の日本(我々の住む日本)の天皇制を確立する為に、表の天皇の代理人として一時的に再臨し、再びアルザルに帰って姿を消したことが、暗殺伝説となったとも言える。

それは空想だとしても、聖徳太子が実在した事は疑う余地がない。

少なくとも、モデルとなった人物がいた。

「秦河勝」である。

彼は秦氏の族長で、聖徳太子の影武者的な存在として活躍したと言われている。

この秦河勝こそが、聖徳太子の正体だと私は睨んでいる。

通説では、秦氏は景教徒だとされているが、飛鳥昭雄氏によると「原始キリスト教徒」の子孫だという。

私はその説を支持するが、聖徳太子が仏教を広めたのは何故だろう。

神社神道を成立したのは秦氏である。

「神社神道=原始キリスト教」をカモフラージュする為だったのだろうか。

だが、もし「聖徳太子=イエス」で、聖徳太子が仏教を広めたとしても不思議なことではない。

仏教とキリスト教は宗教としては別物だが、釈迦はイスラエルのガド族の末裔で、『旧約聖書』の預言者の系譜に属するからだ。

更に言えば、シャンバラ伝説では、シャンバラ王「カルキ」が釈迦の教えを聞いて感動し、シャンバラに持ち帰って広めたとされている。

カルキはシャンバラ王、即ち「アルザルの天皇陛下=イエス・キリストの預言者」である。

しかし、釈迦の時代にイエスは生まれていなかった。

という事は、カルキとは、釈迦の時代にアルザルを治めていた王(ヤハウェの預言者)ということになる。

従って、カルキも絶対神ヤハウェの受肉であり、カッバーラ的に「イエス・キリスト」と同一存在となる。

イエスは「私はアルファでありオメガである」と語っているが、それはイエスが絶対神ヤハウェの受肉だからである。

従って、ナザレのイエスを含めて、ヤハウェの受肉は全て「キリスト」であり、歴代のシャンバラ王は全てフリーメーソンのグランドマスター「キリスト」ということができる。

更に、『旧約聖書』の預言者たちも全て「キリスト」であり、釈迦も「キリスト」だと考えて良い。

その意味では、聖徳太子も「キリスト」となる。

であれば、聖徳太子が神道に仏教を導入したのも不思議ではない。

だが、真相は恐らくこうだ。

仏教にはユダヤ教の奥義が秘められていた。

何故なら、大陸経由の大乗仏教には、ユダヤ人が一枚絡んでいるからだ。

また、聖徳太子が賞賛した「法華経」には、イエスの使徒トマスの布教の影響が色濃く混入していると言われている。

しかも、当時、秦氏一族も「ヨハネの黙示録」の存在を知らなかったが、「法華経」は「ヨハネの黙示録」と一致する予言書となっている。

そして仏教には、ユダヤ教や原始キリスト教にはない哲学的・道徳的な要素が含まれている。

そう考えると、聖徳太子が仏教を盛んに激賞した理由も納得できる。

日本の最高紙幣である旧壱萬圓札には、長らく聖徳太子が描かれていた。

何故、聖徳太子なのか。

実際、聖徳太子は秦氏の実権を握っていた人物であり、イエスの末裔である。

その秦氏一族に、絶対神ヤハウェの受肉が起きて生まれたのが、聖徳太子であろう。

事実、聖徳太子も火星・木星・土星のトリプル・コンジャンクションの時期に生まれているのだ。

3次元的には別人だが、霊的に「聖徳太子=イエス・キリスト』であるなら、「聖徳太子=天照大神」ということになり、聖徳太子を皇祖神と同一視できる。

そもそも飛鳥説では、「天皇」自体が「イエス・キリスト」を表す文字だという。

「天」は古来より「工・人」と書くが、工人は大工を意味し、「天皇」は「大工の白い王」という意味になる。

イエスは自らを「世の光」だと語っており、白は光の色を表す。

つまり、「天皇=大工の白い王」とは「イエス・キリスト」を意味し、天皇陛下は「イエス・キリストの預言者」ということになる。

また、イエスが復活した時、「我は蘇り」と語ったが、聖徳太子と共に物部守屋を滅ぼした「蘇我馬子」も、「我は蘇った馬小屋の子=イエス・キリスト」という意味を持つ。

そして「守屋」は、イエスが磔刑にされた「ゴルゴタの丘」の旧名「モリヤ」と同じ名前なのだ。

更に、秦氏が根付いた京都の太秦(うずまさ)の語源は、イエス・キリストのアラム語「イシュ・メシャ」で、インド北部で「ユズ・マサ」に転訛し、日本で「ウズマサ」と呼ばれるようになったらしい。

つまり、秦氏は自ら「イエス・キリスト」を名乗っている事になる。

秦氏の中から「再臨のイエス・キリスト」が現れるのだろうか……。

それとも、秦氏は「イエス・キリスト」を名乗って人々を惑わす「反キリスト」なのだろうか……。

いずれにしても、「イエス・キリストの再臨」の鍵を握る重要な一族である事は間違いない。

余談だが、今の壱萬圓札のモデルが福沢諭吉なのは何故だろうか。

現在、日銀はユダヤ資本に牛耳られている。

つまり、何らかの意図の下に、福沢諭吉が選ばれたのだろう。

福沢諭吉が近代フリーメーソンの結社員だったことは有名だが、勝手な推理をすると……

福沢諭吉といえば『学問のススメ』である。

偏見的な見方をすれば、通常の学問は左脳教育であり、学問を奨めることで左脳偏重となり、崇高な日本精神を発動する右脳の働きがセーブされる。

諭吉は刀を捨て、ちょんまげを切り、慶応義塾を創設した。

武士は武士道という崇高な大和魂・日本神道に通じるが、シークレット・ガバメントが最も恐れているのが、日本人の大和魂である。

その為、特に戦後から、日本人の骨抜き政策が徹底的に行われてきた。

その政策の一環が「教育」であり、学歴社会のなれの果てが現在の日本である。

そして、諭吉は英語の重要性を知り、英語を教えた。

別に英語が悪いというのではないが、英語を広めることでアメリカ主導の風潮が生まれ、日本をアメリカの属国にしようという計画に合致する。

そして、「自由」「平等」の思想を、初めて日本に紹介したのも福沢諭吉である。

「自由」「平等」はフリーメーソンの素晴らしいスローガンだが、捉え方をはき違えた「自由」と「平等」の思想が、アメリカや日本を堕落させてきたのは事実である。

福沢諭吉が悪人や陰謀家というつもりは毛頭ないが、日本を支配しようとする勢力にとって、福沢諭吉は壱萬圓札のモデルに相応しかったのではないだろうか。

通説では、壱萬圓札のモデルが福沢諭吉に変わったのは保守勢力の巻き返しがあった為で、それ故、バブルが崩壊したとされている。

日銀もユダヤ資本の支配下にあり、『日銀券は悪魔の騙し絵(武田了円)第一企画出版』という本が面白い。

ちなみに、日本の通貨である1円、5円、10円、50円、100円、500円を合計すると『666円』となり、ユダヤ財閥が聖なるす数字として崇める『獣の数字』となっている。

また、坂本龍馬は長崎の貿易商のトーマス・グラバー(フリーメーソン)と提携し、福沢諭吉の勧めでフリーメーソンに入会したが、メーソンの日本侵略に気付き、大政奉還によって日本を救ったという。

そして、グラバーに離脱を表明して暗殺されたのだ。

日本のメシアであり、暗殺された坂本龍馬も「イエス・キリスト」的な人生を辿ったと言えるだろう。

少しこじつけだが、龍馬とは文字通り「龍」と「馬」だが、聖書で龍は年老いた「蛇」で、蛇は「イエス・キリスト」を象徴し、「馬」も馬小屋で生まれた「イエス・キリスト」を暗示している。


【聖徳太子と仏教の謎】

聖徳太子の母・間人皇女は、救世観音が胎内に入る夢を見て太子を身籠もったが、これは聖母マリアの夢に、天使ガブリエルが現れてイエスを受胎したことに似ている。

救世観音は「イエス・キリスト」の象徴であり、イエスと同じ星の下に生まれた太子は、キリスト精神(ヤハウェ)の受肉だということである。

国宝第一号に指定された広隆寺の仏像「弥勒菩薩半跏思惟像」は、再臨するイエス・キリストの象徴で、右手の親指と中指で三角形を作り、キリスト教の三位一体を表している。

中国で発見された景教(キリスト教)の牧師の壁画にも、太子の頭の冠に十字架が描かれ、指は弥勒菩薩像と同じように親指と中指で三角形を作っている。

「冠位十二階」はイエスの12使徒、「十七条憲法」はモーゼの十戒を彷彿させる。

原始キリスト教は、イエスの使徒によって日本に持ち込まれ、卑弥呼の鬼道(神道)を併合して神社神道の基が形成された。

さて、日本最古の建築家である聖徳太子は、紛れもない「イスラエルメーソン」である。

そこに、日本神話を解く鍵が隠されているが、それについては別の機会に詳述する。

「太子は仏教を導入したが、実は隠れキリシタンだった」という説があるが、神道自体が「隠れキリスト教」だと言える。

もっとも、キリスト教という表現は適切ではなく、「原始キリスト教」であるが……。

やはり太子は、何らかの理由で仏教を取り入れたものと思われる。

では、なぜ仏教を広めたのか・・・まず、聖徳太子は大予言者である。

やがて押し寄せてくる「西洋キリスト教文明」に対抗する為だったと考えられる。

現在のキリスト教は、白人社会によって築き上げられたものであり、「原始キリスト教」とは別物である。

また、ここでいう「キリスト教文明」とは、それを背後から動かす「ユダヤ勢力」を指す。

そして、仏教と日本も無縁ではない。

釈迦がイエスの予型として誕生したことは既に述べたが、釈迦族は「日種」と名乗り、それは「イエス・キリスト=天照大神」の象徴であり、日本の国旗にも象徴されている通り。

そして、封印された天皇のルーツであるイスラエル10支族のカド族は、釈迦族のルーツでもある。

『日月神示』に「悪抱き参らせよ」という言葉があるが、善と悪を二分化する西洋キリスト文明に対して、「慈悲を強調する仏教が日本と人類を救う」と太子は感じていたのではないだろうか。

フリーメーソン研究家の赤間剛氏も、仏教的なイデオロギーによる世界の経済革命を説いている。

しかし『日月神示』に「キリスト教は七重、仏教は八重、今の神道は九重であるぞ」と示されているように、日本神道にはキリスト教も仏教も包み込む器量があるはずだ。

なぜ太子が仏教に拘ったのか・・・この問題はかなり奥が深い。

渡部勇王氏は、『2001年世界大終末(廣済堂)』の中で、世界の文明を次のように大別している。

「アマテラス(日本)」

「ツキヨミ(インド)」

「スサノオ(欧米)」

「ツキヨミとスサノオにまたがるイスラム圏アラブ」

長くなるので要点のみまとめると、以下のようになる。

「太子は、諸外国から押し寄せる儒教や仏教を日本化することで、それぞれのマイナス面を克服した。

そして、日本民族のルーツを秘匿し、後、千数百年にわたる日本民族の理念の方途を定めた。

この政策は、スサノオとツキヨミを衝突させる施策と不可分の施策であった。

太子は優れた霊能者で、アマテラスの意図を深層意識で感じ取っていたが、日本の歴史と呼応して、アマテラスの足跡を消し去ったのが、日本民族の移動ルートだった地域に版図を広げた秦の始皇帝とマホメットだった。

秦の始皇帝の大規模な焚書抗儒は有名だが、秦の始皇帝の末裔の秦氏・聖徳太子も同じことをしたのだ。

一般的には、悪の権化のように言われているが、歴史のダイナミズムという観点から見ると、一般常識では考えられないような功績を上げている。

また、マホメットはローマ・カトリックの勢力に対抗して、聖戦によって領土を広げる過程で、その版図となった地域からアマテラスの足跡を消し去った。

マホメットはアマテラスを助けるという自覚はなかったが、結果としてアマテラスの意志を代行して動いていたのだ」

アマテラスを「イエス・キリスト」に当てはめると面白い。

そして、この説の正しさは『日月神示』 によって証明できる。

さて、「仏教」と一言でいっても、宗派によって内容は大きく異なる。

それは、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教も同じことで、天啓を受けた信徒から、新たな宗派が生まれて独自の発展を遂げていくからだ。

つまり、元々の教えと変わるだけでなく、趣旨や目的が大きく変わっていくことも往々にしてある。

太子が広めた仏教は、中国輸入の法華経である。

詳細は機を譲るが、法華経は、原始仏教に原始キリスト教の奥義が注入されたもので、当時の法華経はまだ、釈迦が説いた原始仏教に近かったと考えられる。

太子が法華経の中に、原始キリスト教との共通点を見い出したとすれば、全ては自然な流れで謎は氷解する。

原始仏教は、六道輪廻から解脱して涅槃(ニルバーナ)に入ることを目的とし、幽界と人間界を生まれ変わるサイクルから解脱して、天界に帰る方法を説く。

その方法は「タンハー(欲望)の滅却」である。

聖書の記述によれば、堕天使ルシファーは「欲望」による人類の堕落を狙っている。

ルシファーは、イブをそそのかして「禁断の木の実」を食べさせ、釈迦やイエスの修行中にも様々な誘惑をしてきた。

そのルシファーが支配する西洋キリスト教文明の政策によって、現代の日本は際限のない欲望のるつぼと化している。

太子が、やがて日本に押し寄せる西洋文明の正体が「欲望」だということを見通していたとすれば、それに対抗できる国造りの為に「仏教」を根付かせようとしたと考えられる。

何故なら、聖書には仏教のような「宗教的道徳」が少ないからだ。

だが、私も含めて、今の人類が欲望を捨てることはまず不可能である。

しかし、考え方の視点を変えれば、「欲望」は全く性質の異なるものになる。

欲望を超える「大欲」、釈迦の教えを超える「大欲」については、いずれ詳しく述べたい。

また、ルシファーの正体についても、徐々に明らかにしていきたい。

さて、聖徳太子が生まれた同時期(火星・木星・土星のトリプル・コンジャンクションの時)に、メッカに生まれた預言者がいた。

その男の名は、ムハンマド(マホメット)。

彼は釈迦・イエスに続く、絶対神ヤハウェの受肉で、聖徳太子と同時期に誕生した「キリスト精神」の双子だったといえる。