https://ameblo.jp/ritchie-i/entry-12585331609.html【空海のタントラ仏教とチベット】より
この記事は、安岡明夫さんのYahooブログ『空海のタントラ仏教とチベット』の一部を自分用に編集して保存しておいたものですが、2019年12月15日をもってYahooブログのサービスが終了したことに伴い、「空海のタントラ」の記事が見れなくなってしまいました。
そこで、この資料を誰でも見れるようにと思い、アップすることにしました。
RAPTブログでは元記事の一部が転載されていますので、興味のある方は御覧ください。
「チベット仏教」なる悪魔教を国教とするブータンが世界一幸福な国であるという大嘘
(1)空海
空海は、小野岑守(みねもり)が陸奥守に任ぜられた時、『遍照発揮性霊集』の第一巻
『野陸州に贈る歌』で、「蝦夷は人間ではなく、鬼、虎や豹、オオカミの類いであり、天皇の言うことを聞かない。だから大いに殺しなさい」と言っている。
(2)真言宗
タントラ(後期密教聖典の通称)の一つの面として、社会福祉事業のボランティア活動を大いに行うことがあった。空海もボランティア活動に力を入れた。
これによって密教の信用性が確立すると、多くの人がお布施をするようになり、急速に寺の財産が増えた。
この財産を狙い、貴族が自分の子供を寺に入門させるようになった。
彼らが厳しい修業に耐えた理由は、兄弟の中で上の者が家の跡を継ぎ、自分たちは寺の中で立身・出世する以外なかったからだ。そして貴族は親が寺に寄付するため出世も速かった。
そして彼らが最後に到達したところには、最高指導者だけが読んで良いとされる密教の教義があった。
こうして真言宗は上から腐っていった。
常に権力者に取り入り、悪事に誘い込む真言僧が後を絶たなかったのである。
日本史上に輝く悪僧列伝の多くが真言宗の僧なのだ。
↑
安倍首相の指南役である「池口恵観」も真言宗の僧侶。
綱吉の「生類憐みの令」により、多くの人々が死罪となり、犬を大量に飼うための重税に泣かされたが、この「憐みの令」を仕組んだ人物が、真言宗の僧「隆光(りゅうこう)」である。
綱吉は「憐みの令」の5年前に男子を亡くし、以来、子が出来なかった。
そこで、(母の桂昌院が尊崇し、綱吉も帰依していた)隆光は、世継が生まれないのは前世で
殺生を行った報いだと言い、綱吉が戌(いぬ)年生まれのため、特に犬を全力で大切にし、人々にもそう命じるよう勧めた。また、犬への供養のため、自分に多くの布施をすることも勧めた。こうして「憐みの令」は24年間続いた。
※真言密教は空海によって完成された密教であり、大乗仏教の到達点に立つ秘密仏教。
その特徴は、「即身成仏(生きたまま仏になれる)」思想。これはインドや中国にもない教理。
現代の日本が腐敗する原因を作った犯人は、「密教」を広めた「空海」です
(3)小乗、大乗、真言密教(Siteを参照) ※(3)は「空海とタントラ」の記事ではありません
【小乗仏教(上座部仏教)】
成仏を目指しながらも仏になれないため、せめて煩悩だけでもなくして「阿羅漢(最高の悟りを得た聖者)」を目指した。初期仏教(釈迦の教え)を純粋な形で保存してきたとされる。
世俗を捨てて修行しないといけないので、それなりに身分や財産のある者でないと無理。
虫一匹も殺してはいけないので農作業は無理、自給自足も無理。
事実、釈迦は王族の出身だったし、弟子の大半はバラモン(カースト制度の頂点)だった。
在家者は出家者にお布施をすることで功徳を積むことができる(Wiki)。
「小乗」とは、「劣った乗り物」という意味であり、大乗側からの蔑称。
【大乗仏教】
全ての人が成仏できる可能性(大乗)を示したが、それを実際に可能とする実践方法を示す
ことができなかった(三劫成仏⇔即身成仏。1劫=43億2千万年)。
ただし浄土教では阿弥陀仏の本願で、日蓮宗では法華経を唱えることで成仏できるとされる。
龍樹は、人間が自力で悟りの境地に達するのは不可能だと判断し、阿弥陀仏の名を呼べば
救われるという、誰でも実践可能な道(=易行道、いぎょうどう)を示した。
龍樹によれば、真理は二つ(勝義諦と世俗諦)に分けられる。
勝義諦(しょうぎたい)は、言葉を超えた究極の真理であり、世俗諦は、釈迦の言葉を集めた経典など、言葉で表現された真理である。
世俗諦を悟れただけではダメで、勝義諦を悟れなければ「涅槃」に達することは出来ない。
浄土真宗と日蓮宗は、「末法の世では細かい戒律は必要ない」という末法無戒思想を持つ。
僧侶の肉食は、(浄土真宗と日蓮宗を除いて)大乗仏教でも禁止されていたが、明治政府の命令以来、各宗派の自由となった(Wiki)。
【真言密教(金剛乗)】
この世で生きている間に仏になれる実践方法「三密加持」が、空海によって示された。
三密とは、①手に印を結び、②口に真言を称え、③瞑想すること(阿字観、五相成身)。
加持とは「入我我入」、すなわち仏菩薩が我の中に入り、我が仏菩薩の中に入ること。
つまり即身成仏とは、三密加持によって仏と一体化すること。
仏教では創造主を完全否定しており、宇宙も地球も「偶然」に誕生したことを前提にしている。
であるなら、なぜ仏の力を借りなければ悟れないような究極の真理が存在し、しかもその真理を悟れなければ心の安らぎを得られないのか。
究極の真理も「偶然」存在し、人間も「偶然」そのように進化(あるいは突然変異)したのか。
人間は、悟りを得れば仏になるように、「偶然」進化したのか。
全てが「偶然」に誕生し、「偶然」に進化したのであれば、なぜ輪廻転生するのか。
輪廻転生も「偶然」そうなるようになったのか(輪廻転生は元々ドルイド教の教義)。
人口が増えた場合、人の霊魂や念はどこから転生してくるのか(霊魂を否定する仏教徒は、その人の念や意識が輪廻転生すると言っている。だったら、なぜ前世の念や意識が残っていないのか)。
人口が減った場合、また地球がなくなってしまった場合、人の霊魂や念はどうなるのか。
新たな転生先が「偶然」に生じるまで、霊魂や念はどこかの場所に留まるのか。
そうだとすると、霊魂や念だけが存在することになり、「全てのものには実体がない」とする大乗仏教の「空」に反することになる。
もしやこれらの辻褄を合わせるために、三千大千世界なるものを考え出したのだろうか。
そうではなく、比喩でもないなら、「偶然」に生じた世界が無数に存在することになる。
「浄土真宗」と「真言密教」と「イエズス会」の関係→RAPTブログ
なぜかイエズス会の神父が「仏教の瞑想法」を実践している(Site)。
前世も輪廻転生もない(RAPTブログ)。
進化論も誤り(Site)。進化論では、生物は自然環境に適合するように進化したとされるが
(あくまで仮説)、そうであるなら、なぜこれほど多種多様な生物が存在するのか。
阿弥陀仏は「無量光仏」ともいわれる。
チベット仏教のゲルク派では、ダライ・ラマに次ぐパンチェン・ラマが無量光仏の化身(生まれ変わり)とされており、チベット死者の書によれば、無量光仏は人の死後四日目に魂の救済に現れるとされる(Wiki)。
創価学会の崇める上行菩薩は「サナト・クマーラ」という悪魔(RAPTブログ)
このサナト・クマーラを生んだのが「ブラフマー」。
ブラフマーはヒンドゥー教(バラモン教)の神であり、仏教名が「梵天」。
釈迦が悟りを開いた後、その悟りを広めるように勧めたのが梵天(Site)。
釈迦は『三明経』で、「存命中に梵天に至れない者は、死後に梵天に至ることもない」と言っている。つまり釈迦は、梵天(サタン)と一体化するようにと弟子に言っている。
創価学会がどれほどの悪なる組織かは、以下を参照。
創価学会「広宣部」は個人情報盗難のプロフェッショナル。盗聴・盗撮・尾行・情報収集・攻撃の請負人たち
(4)日本密教とチベット密教
ダライ・ラマ14世によると、日本密教とチベット密教(チベット仏教)の共通点として、
『所作タントラ』、『行タントラ』、『ヨーガ・タントラ』があり、違いは『無上ヨーガ・タントラ』が日本に伝わらなかった点だ、だからチベットの方が高度なのだという。
『所作タントラ』とは、蘇悉地経(そしつちきょう)。
『行タントラ』とは、大日経。
『ヨーガ・タントラ』とは、金剛頂経(「理趣経」は金剛頂経の一部)。
『無上ヨーガ・タントラ』の主なものは、時輪タントラ、勝楽タントラ、秘密集会(え)タントラ。
↑
大日経を基に描かれている「胎蔵界曼荼羅」は、(真言密教の最高仏である)大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に表現したもの。
「胎蔵界=マトリックス=子宮」らしい(Blog)。
そして、「胎蔵界曼荼羅の思考法」=「量子論の思考法」とのこと。
それもそのはず、密教も量子論も「カタカムナ」を基にして作られたもの(RAPTブログ)。
中沢新一によれば、理想の曼荼羅は「無数の渦巻」らしい(Site)。渦巻といえばカタカムナ。
ちなみに、大日如来=奈良の大仏=天照大神=アフラ・マズダー(RAPTブログ)。
後期密教の代表的なタントラのいくつかが、11世紀になって漢訳されることになった。
しかし中国社会においては、仏教タントラの思想はそのままの形では受け入れられず、また
翻訳者の力量不足からか、誤訳や曲解が目立ち、本来の精神は全く生かされずに終わった。
日本密教は8世紀までの中国密教を受け継いだため、空海の伝えた密教経典には『無上ヨーガ・タントラ』は含まれなかった。
チベット密教の各派の中で、ダライ・ラマの属する『ゲルク派』はまともな方だと言われている。
ゲルク派は密教修業の前に顕教の修行をみっちりと行い、相当な人格が出来てから性的ヨーガを行うので、性欲は既に克服した僧が多いと言われている。
↑
密教ではあらゆる欲望を肯定しているのだから、性欲を克服する意味があるのか。
密教では顕教で禁止されている行いをことごとく実践するのに、なぜ顕教の修行をするのか。顕教の修行は、人々から信用を得るための単なるカモフラージュではないのか。
(5)真言宗立川流
チベット密教張りの性的ヨーガを行い、性行為と殺人を大々的に行った「立川流」は、正統的なものとしては既に消滅している。
時々、「オウム真理教」のような派が発生するが、それはあくまでも傍流である。
↑
オウム真理教を裏で操っていたのが、大本教から派生した「生長の家」(Blog)。
オウム真理教の聖典『虹の階梯』の著者が、大本教と関係のある中沢新一(Site)。
立川流は、現在の東京都立川市と関係がある。
1113年に無実の罪を着せられて伊豆に流された「仁寛(にんかん)」が、そこで立川市出身の陰陽師「見蓮」と出会い、立川流を創始したと言われている。
この立川流を大成したのが、後醍醐天皇(南朝)の側近中の側近であった文観である。
文観は立川流の奥義を後醍醐天皇にも伝えたとされる。
↑
小室直樹は著書『宗教原論』で、「魔術を私利私欲のために使うことは許されないが、大衆を救済するために使うことは許される。これは、仏教の歴史を見ても明らかだ」と言っている(P.18~19)。
一方、聖書には、「魔術を行う者に対する報いは、日と硫黄の燃える池だ」とある(黙示録21章8節)。
立川流が滅びたのは、後醍醐天皇と文観が室町幕府に敗北したからである。
立川流が滅びたため、その後、真言宗の主流は、常に自分達と立川流の違いを際立たせなければならなかった。サバイバルの道がそれしかなかった。
一方、チベットでは『無上ヨーガ・タントラ』勢力が武力抗争を勝ち抜いたため、その後の歴史の進行がストップしてしまい、何の進歩もない、凍りついたような中世社会が数百年にも渡って続くことになった。
(6)チベットと中国
殷(いん)王朝においては、チベット人を神へ生贄として捧げていた。
羌(きょう)は、中国の西北辺に居住したチベット系遊牧民であるが、殷の甲骨文に人身御供(ひとみごくう)として登場する。
チベット人を生贄にすることは、王が死んだ時だけでなく、何らかのお祭りの際にしょっちゅうやっていたことである。
殷は、黄河中流域を支配圏とした漢民族の王朝である。
この殷が毎年チベット人を生贄にしていたことからも分かるように、昔、チベット人はヒマラヤの近くだけに住んでいたのではない。
当時は中国西北部の草原(=西域といわれる地方)に多く住んでいたと思われる。
(7)モンゴルとチベット仏教
チベット仏教を初めてモンゴルに国家的規模で導入した王は、「クビライ・カアン」である。
クビライは1260年、即位と同時にチベットの高僧「パクパ」を国師に任命し、チベットの支配を委ねた。クビライはパクパから『ヘーヴァジラ・タントラ』の灌頂を受けた。
(8)ダライ・ラマ5世
チベット密教指導者と蒙古王や清朝の関係は「お寺と檀家の関係」で、一方が領土を布施し、一方が教えを垂れる関係だった。
ところが、こうした関係を激変させる事件が発生した。
清朝は、1670年代半ばまで、モンゴリアの問題には積極的にダライ・ラマ5世の権威を活用して解決する方針をとっていた。
しかし「三藩の乱」に際し、ダライ・ラマは清朝に協力を約束したが、呉三桂側の使者を迎えて回を重ねるうちに清朝側が不利という情報に接すると、最初の約束を果たししぶり、ついには清朝側に呉三桂の助命を嘆願するにさえ至った。
これに加えて清朝側が、ダライ・ラマの配下に援軍を求めた呉三桂の書を差し押さえたことから、ダライ・ラマに対する不信感を持ち、1680年代以降、清朝は明確にダライ・ラマの権威を無視する態度を表明し始めた。
これを感じとったダライ・ラマは清朝を怖れ、1682年に後事を摂政「サンギェ・ギャツォ」に托して没した。この時から清朝とチベットの関係は変わり、「お寺と檀家の関係」ではなくなった。
(9)ダライ・ラマ14世
チベットでは、ダライ・ラマの大便と小便をこねて「薬」なるものを作り、それを一般民衆は有り難がっていた。
「年貢を完納しないと地獄に落ちるぞ」、「有り難い高僧の言うことを聞けば極楽に行けるぞ」と脅して民衆を支配していた。
1951年に中国がチベット全土を制圧して併合した後、中国政府は、チベットの運営をダライ・ラマ政権の自治に任せた。それは彼らが民衆の生活を徐々に向上させることを約束したからである。ところが、ダライ・ラマ政権は全く約束を守らなかった。
ダライ・ラマは、いよいよ中国政府が本気になってチベット住民の生活向上を実現させようとしていることを知った。これでは農・牧民から甘い汁を絞り続けてきた状態を多少は変えなければいけなくなる。中国政府は現状をいきなり変えるのではなく、徐々に変えていこうとしたのだが、それさえもダライ・ラマたちには我慢の出来ないことだった。
1958年、青海省・甘粛省内のチベット族地区では、自覚した農・牧民の間で、小作料と利息の引き下げ、ラマ寺院内の裁判所と牢獄の廃止、ラマ僧の還俗帰農の自由などの民主改革運動が広がった。
大衆は立ち上がってラマ寺を捜査した。
そして香日徳寺内から虐殺された農奴の頭蓋骨10個、農奴の切り取った手や足で作った笛、隠匿した多数の武器などを暴き出した。更に、「人骨の数珠」も発見された。寺院建設のために子供を箱詰めにした人柱も発見された。
当初中国政府は、チベット密教である『秘密金剛乗』が一般の宗教に比べて特に大きな問題はないと考えたので、ダライ・ラマ政権にチベットの自治を任せたのだと思われる。
しかし、その考えが間違いだと知ったのは、1959年に(ダライ・ラマがチベット住民を脅迫して起こさせた)「チベット蜂起」を鎮圧した後だった(ダライ・ラマたちは外国に逃亡)。
人民解放軍の援助を受けた「農・牧民協会」は、領主やラマ寺の牢獄を解き放ち、笞(しもと)や拷問道具を没収し、巨額な小作料や借金利子の証文、強制労働・奴隷労働の契約書を
焼いた。農奴や牧奴は凱歌を上げて、1000年の鎖を打ち壊した。
---------------------------
(1)宋王朝の宗教改革
907年に唐が滅びると、五代十国時代が約60年続いたが、その半分の期間はトルコ族の王朝であった。だから、979年に宋が全国統一に成功し、トルコ族を打倒した時、漢民族の喜びは計り知れないものがあった。
このような中で、唐の時代に盛んであった外来宗教である仏教に厳しい目が向けられた。
唐の時代には、儒教・仏教・道教の三つの中で、知識人の思いは最も仏教に注がれていた。
というのは、中国古来の儒教・道教は、インド仏教の高邁さ、深く考え抜かれた巨大な理論体系に比較すると、浅薄だったからである。
こうして宗教改革が始まった。
儒教は大きくその性格を変え、「宋学」、「朱子学」と呼ばれるものに発展していった。
これは仏教化された儒教であった。現世利益中心、上下意識・身分意識の徹底は飽くまでも変えなかったが、それ以外は仏教の理論体系も、修行方法や座禅も全て取り入れた。
同じく道教も仏教化が進んだ。
一方、人々から厳しい目を向けられ始めた仏教側では、逆に道教化が図られた(これが中国禅宗)。この時、なぜ仏教の儒教化が目指されなかったのかは分からない。
(2)道教
中国では儒教を信じる人よりも道教を信じる人の方が圧倒的に多い。
その理由は、
①元々中国の民族宗教が道教だったから
②儒教は孔子によって新しく開かれた敬天の宗教(事実上の一神教)であり、主として支配層の知識人に信仰されてきたから
道教は神道と極めて良く似た多神教であり、あらゆるモノを神々として取り込んでいる。
天帝や釈迦から孫悟空、老子や荘子、三国時代の英雄まで神にしている。
文献『老子』『荘子』などを聖典とし、座禅などの修行や薬によって、仙人(神々の一人)になることが出来るとしている。
道教は先祖崇拝とも結びついている。
神道のような死ねば直ちに神に成れるという安直さはないが、結局、先祖は神と見做される。そして、福・禄・寿(幸福・出世・富・長命)という現世利益中心である。
長命の為には他の欲望を押さえる必要があるとか、仙人に成るには無欲でないといけないなどの主張もある。
『老子』や『荘子』では、現状を変えるのではなく、現状をそのまま認めてしまえと言っている。
老子は、「無為自然、すなわち何も為すこと無く、自ずからにして然(しか)るようになっていくのにまかせれば良い」と言っている。
荘子は、「科学技術を生産に応用すれば、社会が進歩して慌ただしくなり、落ち着いた心が
無くなるから、何もしないのが一番良い」と言っている。
「無為自然でゆっくりと生きていけば福・禄・寿にありつけるが、社会を良くしようなどと考えると、憎まれて殺されてしまうのが落ちだ」というのが道教の根本的考え方である。
↑
楽して利益を得ようとする考えは、まさにサタンの考え。
このような道教の思想が現代の世に広まるならば、人々は怠惰になり、逆に「誰がどれだけ
楽をして得をするか」という歪んだ競争社会が作り出されてしまう。
何もせずに福・禄・寿を得られる道など、この世にもあの世にも存在しない。
仮に何もせずに利益を得られても、それで楽になるのは肉体であって、心は楽にならない。
「老子」には、この他に「足るを知れば豊かに生きられる」という教えがある。
しかし、それは因果関係が逆である。
心が満たされていて既に幸せだから「足るを知る」ことができる。
心が満たされていない状態で「足るを知る」ように努めても、それはただ禁欲生活をしているだけなので、それによって「足るを知る」ことはできない。
そして、人は禁欲生活をするようになると、世の中の人たちのようにあくせく働かず、煩わしいことを極力避けるようになるから、その分、楽になるので、「人生が楽になった、自分は救われている」と勘違いすることになる。
しかし、それは自分(の心)が変わったわけではないので、またすぐに人生が苦しくなる。
仏教にもスピリチュアルにも「足るを知れ」という教えがある。しかし、どうすれば「足るを知る」ことができるのか、その具体的な方法が示されていない。
(3)中国禅宗
仏教改革という名の下に、仏教の中身を完全に入れ替えて道教化したものが中国禅宗。
すなわち、「看板は仏教、中身は道教」というのが中国禅宗。
ところで、仏教の看板の下で中身を完全に入れ替えることがどうして可能だったのか。
それは「不立文字、ふりゅうもんじ」(文字を立てない)との標語の下に可能だったのである。
つまり「これまで中国へ伝わった経典を一切問題にしない、我が宗においても書物をあわらすことは一切やらない」と言ってしまえば矛盾点を発見されることがなくなる、という訳であった。
しかし後になると、インドから伝わった経典の中に、禅宗にとって極めて都合の良い経が発見された。それが『大般若波羅蜜多経』である(この経のダイジェスト版が『般若心経』)。
この経は釈迦の発言を収録したものではなく、その作者は不明。
百科事典2冊分くらいの膨大な経だが、お経を数秒間開き、呪文を唱えると、全て読んだこととされる(転読)。
これでもう「不立文字」の標語は必要無くなった。
禅宗において、お経を読み上げたり、書物を書きあらわすことが次第に盛んになった。
中国禅宗とは、
①これまでの仏教との伝統・繋がりを断ち切り、
②座禅によって仙人(神)に成ることを目指し、
③先祖を崇拝し、
④現状維持を何よりも重視し、
⑤無為自然によって福・禄・寿を目指す宗教
(4)日本禅宗
禅宗が「栄西」によって最初に日本に伝えられた時、既に『大般若波羅蜜多経』が発見されており、「不立文字」の必要性はなくなっていた(栄西は臨済宗の開祖であり、天台密教葉上流の流祖)。
なぜ禅僧である「栄西」がタントラ密教と関係し、ヒンズー教のシバ神供養の導師をやっているのか。それは、栄西の創建した臨済宗が密教と中国禅宗を混合したものだったからである。
天台宗は法華経を中心に、仏教のあらゆるお経を研究・信仰する。
そのため栄西は、いかなる宗派の法事にも参加でき、いかなるお経も読み上げることが自由自在であった。
しかし、これはおかしいとの内部からの批判が起こったため、現在の臨済宗は、禅宗と密教のみの宗派となっている。
臨済宗では『大般若波羅蜜多経』を重要経典とし、曹洞宗では『般若心経』(大般若波羅蜜多経のダイジェスト版)を重要経典とする。
更に、『大般若波羅蜜多経』の一部が『般若理趣分』であるが、これは『理趣経(りしゅきょう)』の異訳とみなされており(Wiki)、真言宗ではこの理趣経を重要経典としている。
すなわち、真言宗も臨済宗も曹洞宗も本質的に同じ。
大般若波羅蜜多経=般若心経=般若理趣分=理趣経=金剛頂経=ヨーガ・タントラ
日本禅宗は中国禅宗と異なり、ヒンズー教、道教、神道の性格を全て有する。
↑
「看板は仏教、中身は神道・密教・道教・ヒンズー教」というのが日本禅宗、ということか。
(5)大般若波羅蜜多経(般若心経)
この経は「タントラ・ヴァジラヤーナ」(秘密金剛乗)であり、仏教の仮面を着けた、ヒンズー教の最悪の形態の経。
(ア)真言(マントラ)
「般若波羅蜜多」という行は、唐・宋の時代に座禅をすることだと解釈されたが、経の全文を読めば、「般若波羅蜜多は大神呪(だいしんじゅ)である」と明記されている。
↑
大神呪の「神」は原語にはなく、漢訳したときに付け加えられたものらしい(Site)。
つまり般若波羅蜜多とは、マントラ(真言)を唱えることであり、具体的には経の最後にある
呪いの言葉を唱えることである。この部分は『般若心経』の最重要部分のマントラである。
だからこそ、玄奘(げんじょう)三蔵は漢訳するときに、サンスクリット語を中国語に訳すことなく、そのまま音だけ転写したのである。
↑
「真言は音が重要であり、唱えるべきもので解釈すべきものではない」という伝統がある。
また真言を解読するには様々な知識と複雑な作業を必要とするため、真言の研究は未だに成就していない(Wiki)。
真言部分はサンスクリットの正規の表現でない上、学者や宗派によって訳や解釈が違うため定説がない(Wiki)。
これはなぜなのか。真言の本当の意味を知られたくないからではないのか。
空海は、「真理は言葉では言い表せないが、両部曼荼羅を観想しながら真言を唱えれば宇宙の真理や隠された秘密を悟ることができる」と言っている。
なぜ真言(呪文)を唱えるだけで宇宙の真理や隠された秘密を悟ることができるのか。
それは、真言を唱えることによって、「何ものか」から「霊感」を受けるからではないのか。
空海は「明けの明星」が体中に入る体験をしたと言われているが、この「明けの明星」とは、サタンの頭「ルシファー」のことである(イザヤ14章12~15節、黙示録12章7~9節参照)。
また、「真言は仏を褒め称える詩だ」という者もいるが、そうであるなら、なぜ決まった文言をサンスクリット語で繰り返し唱える必要があるのか。
要するに、真言は仏(サタン)を召喚する呪文であり(RAPTブログ)、空海の三密加持とはサタンと疎通し、一体化するためのものである。
仏の数だけ真言が存在する理由は、サタン(仏)によって召喚する呪文(真言)が違うから。
浄土真宗の「南無阿弥陀仏」も、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」もマントラ。
(イ)空
『大般若波羅蜜多経』には、「色即是空、空即是色」とも書かれてある。
「空」については、二つの解釈が可能である。
・空=全く何も存在しない
この世の全ては夢であって、何も存在しない。
だから全ては平等であり、分別する意味がなく、善行を積んでも悪業を積んでも同じ。
・空=何かが存在する
私たちの見る現象世界の奥には、何かの等質的な「エーテル」が存在する。
それは原子ではない(原子と原子の間に空虚が存在する事になり、等質でないから)。
それは心であるかもしれないし、同質的な流動物体かもしれない。
元素は一つのみで、それは同質・平等・分別を超えたものである。
それゆえに全ては一つであり、錯覚(=戯論、けろん)を排除すれば、生死も善悪も全て同じ。
↑
「空」をどのように解釈しても、結局、善悪すべて同じ。
「色即是空」とは、「この世で起こる物質的現象(色)は、空にして不生不滅、不増不減」ということである。
このゆえに、色・受・想・行・識(=五蘊、ごうん)もなく、眼・耳・鼻・舌・身もなく、意識界もない。
老死も無く、知も得も無い。だから気がかりも無く、恐怖も無い。
そんなものが存在すると思っているのは転倒夢想であって、それが分かればサトリである。
すなわち、錯覚を排除すれば、人間も宇宙も全て存在するものではなく、全ては同質・平等な「空」である。だから当然、老死もない。そう分かるのがサトリである。
「色即是空」を具体的に解説している部分が、『大般若波羅蜜多経』の『般若理趣分』。
(6)般若の理趣(ポイント)の一部
【清浄の法門】
全ては清らかであり、ゆえに何をやっても良く、これを聞いて深く信ずるならば、いつか仏になれる。どんな悪業を重ねても簡単にチャラになる。
しかも、毎日「清浄の法門」を読み上げて良く理解するならば、生きているうちに仏になれる。
【現等覚門】
①全ては平等
②だから何をやっても義(正義度)は同じ
③宇宙のあらゆる物事は、大所・高所から見れば全て清浄
④一切の物事を分別・区別・分析しないのだから、何をやっても同じ
この四つの事を聞いて、信解受持し、読誦修習するならば、どんな悪事を働いても、そればかりか、全ての極重・悪業を行っても報いはなく、逆に直ちに仏になれる。
仏とは、「悟った人」、「悟りを開いた人」の意味であり、仏教では仏こそが宇宙で最高の存在と考えられている。日本では古くから人は死ねば神になるとされており、その後、仏教が入ってきたため、死ねば仏になるという考え方も発生した。
↑
仏とは、「決して老いることも死ぬこともなく、どんな悪事を働いても良い、宇宙で最高の存在」ということか(ルシファー以外に思い当たらないが)。
そして仏は人々を教え導くために、神通力(超能力)をもって娑婆世界を歩き回っているらしい(Site)。これってサタンでは(ヨブ1章7節、ペトロⅠ5章8節を参照)。
【普勝の法門】
貪欲に関し、戯論(けろん、錯覚)はそもそも成立し得ない。
ゆえに瞋恚(しんい、怒り)に関しても、驕慢(きょうまん)に関しても、諸悪行に関しても同じ。
逆に身を清浄にするのが良いとの戯論も成立しない。
般若波羅蜜多(禅宗では座禅、真言宗ではマントラ)が諸悪行よりも素晴らしいとの戯論も
成立しない。
もしこの法門を聞いて、信解受持し、読誦修習すれば、たとえ一切の生物を殺しても地獄に
落ちない。
【輪字門】
一切の法は空である。一切の法は不可思議である(人間の思考を超越している)。
一切の法は戯論なし。本性空寂(=空)にして言語を離れるが故に。
これは普勝門の説明である。普勝門においては、貪欲に関し戯論が成立しないことを出発点として、あらゆる戯論が成立しないと結論付けた。
なぜ戯論が成立しないのか。それは、宇宙の一切の物事(色)が「空」だからである。
以上から、「色即是空」とは悪業を合理化する思想であり、タントラそのものだと分かる。
↑
大乗仏教において、「空」は次のように説明されている。
「この世界は人々の妄想であり、外界の対象(事物)は存在しない。この世の全ての現象は縁によって生じている。それは、実体がないから空である。しかし、この空という原理さえもまた否定されねばならない。すなわち否定そのものが否定されねばならない。これが真実である。一切は真実であり、真実ではない。真実かつ不真実であり、真実でもなく不真実でもない。」
↑
仏教徒が「創造主も天国も存在しない、それらは人間の妄想だ」と考える根拠が、この「空」。
「空」が如何にインチキかは、このBlogを参照。
「空」を考え出したのは龍樹で、釈迦ではないらしい(Site)。
ちなみにイエスは、「『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出る」と言っている(マタイ5章37節)。
悪い者はサタンに洗脳されているから悪い者になっているのであり、サタンに洗脳されると、
その人の知能は低下していき、自分の言っている事のおかしさに気づかなくなる。
例えば、ある仏教徒(おそらく創価)は、「もの(現象)の真実相(本当の姿)は表現できない」、
「『リンゴ』というもの(現象)は実在しない。人間が勝手に言葉でそう表現しているだけ」と言っている(養老孟司も同じように、「人間が『肩こり』という言葉(概念)を作ったから肩がこるのだ。本来、肩がこるなどということはない」と言っている・・・)。
仮にこの理屈が正しいとすると、環境問題も人間が勝手にそう表現しているだけ、ということになり、目の前にあるゴミも、人間がそれをゴミと名付けたからゴミになっているのであって、
本来はゴミも何も実在しないことになる。
ところが、この仏教徒は、「環境問題で地球も人類も全て滅びる」と主張している。
また、「現象とは有・無ではなく関係性の問題」、「主体と客体を分けるな」とも言っている。
しかし、現象(目に見えているもの)が実在せず、主客一体なのであれば、関係も何もないと
思うが。
このように、仏教の教義に洗脳されると、目の前にあるリンゴが実在しない、しかし環境問題は実在するという妄想の中で生きることになる。
とにかく彼らは、意味不明な理屈をこねて、神とその被造物(言葉を含む)を否定しているだけであり、そこに真理があるわけではない。サタンに洗脳されて、間違った主観を持っているだけである。
人を煙に巻くために、わざと意味不明なことを言っている可能性もあるが、それもまたサタンの業である(環境問題については、そこに利権があるから実在することにしているのでは)。
---------------------------
神道とユダヤ教と悪魔教のつながり。悪魔教が日本に伝わった経緯
日本は昔も今も悪魔教の国
<閲覧注意>日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです
結論:
神道も仏教も密教も道教も儒教も全て、神に反逆したユダヤ人の作った「悪魔教」
0コメント