主の僕(しもべ)の歌・・・イザヤの預言

https://blog.goo.ne.jp/emptyheart1811/e/1c39d2d88ec766923a86471e53fe24f8 【主の僕(しもべ)の第一の歌・・・イザヤの預言】  より


2019-04-14 06:50:49 | 聖書の言葉はフランシスコ会訳聖書に従っています

 4月14日カトリック教会のこの日のごミサは受難の主日(枝の主日)です。この日から聖週間と呼ばれる一年の典礼の頂点とも言うべき大切な一週間を過ごします。主イエスにとって、ガリラヤから始まった宣教の旅はエルサレム入城でいよいよ最後のときを迎えます。イエスのご受難(十字架の死)によって、復活されたイエス・キリストは新しい永遠の命を得、私たちの中にお住まいになられます。そのクライマックスのときを私たちは主イエス・キリストとともに体験し、歩む日々を過ごします。

 この聖週間のごミサの中で、毎年、イザヤの預言のなかの「主の僕(しもべ)の歌」が詠まれます。イザヤの預言には「主の僕の歌」が四つあります。

 主の受難の主日にはこの中から第三の歌が詠まれます(イザヤ50・4-7)。

翌日の受難の月曜日には「主の僕の第一の歌(42・1-4)」、受難の火曜日には「第二の歌(49・1-7)」、受難の水曜日には「第三の歌(50・4-9)」、聖金曜日「主の受難」のことばの典礼の中で「第四の歌(52・13-53・12)」が詠まれます。

今日から、毎日一つづつ「主の僕の歌」味わい、イザヤを通して語られる神のみことばを、現代に生きる私たちの心の糧として心に刻んで参りましょう。

主の僕の第一の歌*(42・1-4)

見よ、わたしが支えるわたしの僕を。わたしの魂(たましい)が喜びとする、わたしが選んだ者を。わたしはわたしの霊を彼の上に置く。彼は諸国に正しい法を輝かせる**。彼は叫ばす、声をあげず、巷(ちまた)に自分の声を聞かせない。

折れた葦(あし)を彼は断ち切らず、くすぶる灯心(とうしん)を消さず、まことに、彼は正しい法を輝かせる***。彼は衰えることなく、くじけることなく、遂には地に正しい法を打ち立てる。島々は彼の教えを待ち望む。

フランシスコ会訳聖書の注釈

* この僕は、ヘブライ語のテキストでは誰のことか同定されていない。

**七十人訳は、本節の僕ヤコブ/イスラエルの名を加えてイスラエルの民と同定する。「正しい法」と訳したヘブライ語の「ミシュパット」は、僕の使命の実りを描くのに本箇所の4つの節で3回使用される。現代語訳に見られる他に訳語として、「正義」「公正」「正道」「裁定」「真理」「公儀」がある。

***「折れた葦」「くすぶる灯心」は、打ち砕かれ、死んだも同然のイスラエルを指すものと、通常解される。 

 5節以降のみことばにも耳を傾けてみましょう。現代に生きる私たちの姿が浮かんできます。ご復活のイエスさまをお迎えする、私たちの心に主は優しく、私たちの歩む道を教えてくださっています。どんな罪も、主にゆるしを願えは、必ず救ってくださる私たちの主が、いつもともにおられます。

主なる神、天を創造して、これを張り広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、その中を歩む者に霊を授ける方は、こう仰せになる。

「わたし、主は、正義をもってお前を呼び、お前の手を取り、お前を守り、お前を民の契約、諸国の光とした。

見えない目を開き、囚われ人を牢獄から、闇に住む人々を獄舎から連れ出すためである。

わたしは主、これがわたしの名、わたしの栄光を他のものに、わたしの栄誉を偶像に与えはしない。見よ、先のことは実現した。新しいことを、わたしは告げる。

芽生えてくる前に、わたしはそれを聞かせる」。

祈ります。

「全能の神よ、弱さのうちに倒れてしまうわたしたちを顧み、ひとり子の受難の力によって強め、立ち上がらせてください。神はわたしの光、わたしのすくい、わたしはだれも恐れない。神はわたしの命のとりで、わたしはだれをはばかろう」。(集会祈願、詩編27)


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【「主の僕の使命」・第二の僕の歌・・・イザヤの預言】  より

 聖書の言葉はフランシスコ会訳聖書に従っています

 4月16日受難の火曜日のごミサの第一朗読ではイザヤの預言49・1-7「僕(しもべ)の使命」が詠まれます。

 聖なる過ぎ越しの三日間を目前に、イザヤは私たちに何を語りかけているのでしょうか・・・?

フランシスコ会訳聖書によると、

この第二の「僕の歌」では僕が受ける「苦難」が僕自身によって表明されます。そして、この僕の苦難を通して、僕の果たすべき「使命」が語られ、それが普遍的であることが本章5節の「主の託宣(ことば)」に浮き彫りにされています。その使命とはヤコブをご自分のもとに立ち帰らせ、イスラエルの民をご自分のもとに集めるためのみならず、「諸国の光」、「地の果てに至るまでの、わたしの救い」(6節)となることである、と教えています。

僕とは「誰」のことでしょう・・・? 

主の僕の「使命」は何んでしょうか・・・?

私たちの歩む道、私たちの果たすべき役割は何んでしようか・・・?

「主の僕の使命」(イザヤ49・1-7)

島々よ、わたしに聞け、

遠くの諸国の民よ、耳を傾けよ。

主は、わたしが胎にいた時からわたしを呼び、母の胎にいた時からわたしの名を発せられた。

わたしの口を鋭い剣(つるぎ)とし、

その手の陰(かげ)にわたしを匿(かくま)われた。わたしを研いだ矢とし、ご自分の矢筒の中にわたしを匿われた。

わたしに仰せになった。

「お前はわたしの僕、イスラエル、わたしはお前のうちにわたしの誉(ほま)れを現す」。

わたしは言った、

「わたしは無駄に労苦し、むなしく、空虚に力を使い果たしました。だが、わたしの公正は主とともに、わたしの報酬はわたしの神とともにあります」。

今や、主は仰せになるーーー

主はヤコブをご自分のもとに立ち返らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎にいたわたしをご自分の僕として形づくられた。

わたしは主の目に重んじられ、わたしの神は、わたしの力となられたーーー

主は仰せになる、

「お前がわたしの僕として、ヤコブの諸民族を立ち上がらせること、イスラエルの生き残った者を帰らせることだけでは足りない。

わたしはお前を「諸国の光」とし、地の果てに至るまでの、わたしの救いとする」。

イスラエルを贖(あがな)う、その聖なる方、主は、人にさげすまれ、諸国に忌(い)み嫌われ、支配者たちの僕とされた者にこう仰せになる、

「王たは見て立ち上がり、高官たちは平伏する。忠実な主、お前を選んだイスラエルの聖なる方の故に」。

 現代に生きる私たちは、さまざまな悪の誘惑に惑わされて、本当に正しいこと、主の公正から引き離されています。富や地位が優先される闇の支配にあえぐ私たちを救う「光」が灯されました。

祈ります。

全能永遠の神よ、主キリストの受難の神秘を記念するわたしたちが、罪のゆるしを受けることができますように」。