イザヤ書とリンドウ

http://pistis.jp/textbox/todays/km-2013-a.html  【「苦しみに遭ったのは」】

苦しみにあったことは、私にとって良きことであった。

私はそれによってみ言葉を学ぶことができたゆえに。(詩編119の71)

It was good for me to be afflicted , for it taught me your decrees.

 私たちの人生において、何が本当に良いことであったのか、ずっとあとから分かってくることが多い。時間はその点でも、一時的に良いものや良いと思われたがじつはよくないものなどをふるい落としていく。書物でも同様で、一時的にベストセラーとなっても、時間というふるいにかけられていくと、ほとんどが消えていく。

聖書はその点いかなる時代にあっても、どのような迫害や世界戦争が生じても、ふるい落とされてしまうことはなかった。否、いっそうその永遠の輝きを増していく。

それと同様に、私たちが振り返って、本当に良かったと実感できること、それはその良きことが持続していくからである。苦しい病気や事故、あるいは人間関係であっても、それを通して私たちは本当に大切なものを知らされることがよくある。表面的なものが消え去り、魂にとって深く結びつくものが良きものだったと実感する。

主イエスも苦しみと深く結びついている、心の謙虚さ―心の貧しさ、そして悲しみに出会うことを、祝福されたことと言われた。

ああ、幸いだ、心の貧しき人たち! その人たちに最高の賜物である神の国が与えられるから。

ああ幸いだ、悲しむ人たち! その人たちは神からの慰め、はげましを受けるから。(マタイ福音書5章)

他者にも伝わっていくほどの良きこと―それは苦しみや深い悲しみを通って生まれる。

…(パウロは)弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。(使徒言行録14の22)

主を信じて歩むときに受ける苦しみは、神の深いご意志(み言葉)を学ぶことにつながり、苦しみの時には耐えがたいようなことであっても、神の国への確かな一歩なのである。

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野草と樹木たち リンドウ 山口県秋吉台 2013.11.11

リンドウ 山口県秋吉台 2013.11.11

(秋吉台)

リンドウは、秋の野山の代表的な野草の一つです。これは、山口県の鍾乳洞で有名な秋吉台での撮影で、九州から島根の集会へと移動の途中で、見いだしたものです。リンドウは、私にとって特別な思い出があります。

それは、大学2年の頃に、テントや燃料、雨具、食糧などの十分な装備をして、京都市北部の鞍馬山から歩きはじめ、ときには、地図上でも廃道とされている道なき道を5万分の1地図と磁石を頼りに、山なみを越えて、1週間近くかけて日本海側の小浜へと行ったことがありました。その時、由良川源流地帯で、このリンドウの深い青紫色に出会ったのでした。

長い単独の山行のゆえに緊張と疲れのたまった心身であったゆえに、そして一日歩いても誰一人と会わないような山奥であったので、私の心に生きた映像をそのまま焼き付けてくれるものとなりました。

青い色は、広大な大空や大海原など最も広く目にはいるものの色で、創造主はこの色に接することによって、いつもご自身の深い本性を見つめるようになされたのではないかと思われます。

天を映す青、それゆえにそのたたずまいとともにリンドウは多くの人の心に残ってきたと言えます。 私が最初にリンドウという花の名を知ったのは小学校のときによくラジオから流れていた島倉千代子の「りんどう峠」(1950年)という歌で、「りんりん りんどうはこむらさき…」という歌詞のはじめは今も耳に残っています。

宮沢賢治もリンドウの花が心に深く残っていたのは次の文からもうかがえます。

(リンドウと 秋吉台)

「あゝ、りんどうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だねえ。」

カムパネルラが、窓の外を指さして云ひました。

線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたやうな、すばらしい紫のりんどうの花が咲いてゐました。…次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。 と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、湧くやうに、雨のやうに、眼の前を通り、三角標の列は、けむるやうに燃えるやうに、いよいよ光って立ったのです。…(「銀河鉄道の夜」より)

水野源三の詩にも、次のように記されています。

来る年も来る年も 澄み渡る空には

りんどうの花が咲くように

神様の真実は変わらない

神様の真実は変わらない

天を映す青、それゆえにそのたたずまいとともにリンドウは多くの人の心に残ってきたと言えます。 (写真・文ともに T.YOSHIMURA)

今日のみ言葉 232

「よき知らせを伝えるために」

2013.10.09

主なる神の霊が私の上にある。 主は、苦しむ者(*)に良き知らせをもたらし、

心の壊れた者を慰めるために、私をつかわした。(イザヤ書61の1)

The Spirit of the Lord GOD is upon me .

He has sent me to bring the good news to the afflicted, to soothe the broken-hearted.

(*)ここで「苦しむ者」と訳した原語(ヘブル語)は、アナーウィームで、本来は圧迫された者を意味する。そこから、苦しむ者、悩む者、貧しい者などと訳される。英訳では、the oppressed (NRS)、the afflicted (NJB) など。 また「壊れた」と訳された原語はシャーバルで、戸を「壊す」(創世記19の9)のようにも用いられている言葉で、「心の傷ついた者」(新改訳)、「心のいためる者」(口語訳)などと訳され、英訳では、 the broken-hearted (NJB他) と多くが訳している。

この旧約聖書の言葉は、キリストが初めて自分が育ったユダヤ人の会堂にて語ったときに読まれた言葉である。そして、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と言われた。(ルカ4の16-21)

イザヤ書において、キリストよりはるかに数百年の昔、すでにキリストの本質を預言し、じっさいその通りに実現されたことは驚くべきことである。

ここで預言されたキリストは、確かに聖なる霊を受け、その霊によって試練、困難、誘惑にも勝利され、そして、現実の無数の苦しみ、悩む人に、ほかの人間や組織、あるいは学問、科学技術などが決して与えることのできない良き知らせを伝えて来た。

旧約聖書の詩の中に「話すことなく、語ることもなく、声も聞こえないのに、その響きは全地に、その言葉は世界の果てまに向う」(詩篇19)というのがある。

いかに時の権力者がこの良き知らせを信じるキリスト者たちを猛獣と戦わせたり、はりつけにしての処刑、さらには国外追放などしようとも、その良き知らせの響きは途絶えることがなかった。それは、すべてを支配されている神ご自身のご意志であるからだった。

私たちは、生涯のうちで、だれでも苦しみ、悩みあり、また心壊れた状態になる。現在いかに健康でそうした苦しみとは縁のないような人であっても、突然の事故や災害、あるいは重い病気などが生じることもあるし、家庭や職場での人間関係の崩壊…等々なにがおきるか分からないのがこの世である。そのようなとき、元気なときには想像もできなかった孤独や哀しみ、あるいは不安が押し寄せてくる。

キリストは、そうした状況から救いだすために来られたのであった。そのような苦しみの根源に、人間の自分中心という罪があるゆえに、その罪の赦しを告げ、死の力にも勝利する力が与えられる―これは良き知らせの中心に置かれている。

そして、私たちの受ける圧迫、苦しみや悩みに寄り添い、そこに慰めと励ましを与えてくださる。 神はこのように、あらゆる人間の苦しみや悲しみのときにも、そこから救いだされる道を備えられている。数千年ほども昔から 、そのような備えがあるのだと告げられていることは、この不安な定まることのないこの世にあって大いなる良き知らせである。

体の傷は、手術や薬によって多くは癒される。しかし、深い心の傷は、医者も薬も、あるいは学問や知識などもどうすることもできない。それはただ人間を超えた力によってのみ癒される。この苦しみや悲しみ、心の壊れた状態を真に癒すのは、死者をも復活させることのできる神そして、その神のいっさいの本質を受けていまも生きて働いておられるキリストだけである。

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野草と樹木たち ヤマユリ 鳥海山のふもとにて 2013.7.20

(秋田県と山形県の境にそびえる活火山。標高2236m)

ヤマユリ 鳥海山のふもとにて 2013.7.20

今年の夏、北海道 瀬棚地域での聖書集会からの帰途、各地の集会を訪問、聖書の言葉について語らせていただきましたが、その帰途に立ち寄ることができた山の一つに、この鳥海山があります。 この山には、歩いて登る時間も余裕もなかったけれど、車で中腹の宿舎にてよき休みの時が与えられた所です。

そしてその山腹に分布する植物に接することもできました。このヤマユリは今まで東北各地で見た中で最も大きく、美しいものでした。

このヤマユリとカノコユリ、そしてテッポウユリは世界のユリで最も美しいものとして高く評価されているもので、それらから多くの現代の園芸種のユリが作られています。 大型のユリとして知られているカサブランカは、このヤマユリやカノコユリなどを交配して作られたものです。

カノコユリの野生種は現在ではごく少なくなっていて、 私はかつて徳島県南部の海岸沿いの山肌に咲いているのを見たことが一度あります。 それに対してこのヤマユリは、東北各地の道路際の日当たりのよいところでよくみられますが、この写真のものは、山道の木蔭に、ある限られた場所に、群生していたものです。

その長い茎、ゆったりとした大型の美しい花、そしてその花びらの模様、さらに香りも強く、花の大きさは直径20cmほどもあり、このようなみごとな花が野生種としてみられることは喜ばしいことです。花の色は白色で花びらの内側の中心には黄色の筋、紅色の斑点があって美しさを添えています。

世界広しといえども、このようなユリはほかの国々にはみられないとのことで、明治時代の初期にウィーンの万博で紹介されて注目され、それからヨーロッパに知られるようになったものです。

ユリという言葉は、その長い茎が風に 揺られる→ユリ となったと言われ、また漢字の百合は、その球根が幾重に重なっていることから名付けられています。

白いユリは数ある花のなかで、キリスト教においてもとくに復活や純粋、清さのシンボルとして用いられていて、ヨーロッパの絵画にもしばしばユリが記されています。13世紀の画家ジオットや レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」、エルグレコ他の作品にも見られ、また、主イエスも「野の百合がどのようにして育つかよく見よ」(マタイ6-28)と言われました。

なお、このイエスの言葉にあらわれる「百合」の原語 クリノン(ギリシャ語)は、「花」とも訳されますが、現代の多くの英訳、日本の新改訳、文語訳なども百合と訳しています。 See how the lilies of the field grow .(NIV)

また、讃美歌にも、白百合が、キリストの復活を思い起こさせるというのがあります。

うるわしの白百合 ささやきぬ 昔を、

イエス君の墓より いでましし昔を (讃美歌496)

また、直接にキリストを明けの明星であり、百合にたとえている讃美歌もあります。

わがたましいの 慕いまつる

イエス君のうるわしさよ…

君は谷のゆり、あしたの星

うつし世にたぐいもなし (讃美歌512)

このように、ユリの姿とその白い色、さらにその美しさや香りは、古代から、神によって清められた美しい世界―神の国を思わせるものとして、またキリストの復活―さらに死にうち勝つという究極の力をも指し示す重要な意味を含んでいるものとして重んじられてきたのです。 (写真・文ともに T.YOSHIMURA)