「苦難のしもべの詩」・イザヤ書

https://sites.google.com/site/hikifunechurch/sekkyou/sekkyou_past/sekkyou_20170326【「苦難のしもべの詩」(イザヤ53・1~10;ペトロ第一、2・22~25)】 上田光正

より

 人間にもしも救いがあるとするならば、それはどんな救いなのだろう。わたしどもはただ今、主のご受難を覚える「受難節」を送っております。救い主イエス・キリストのご受難と復活。まさにこれは、キリスト教のメッセージの中心です。本日はその受難節の第4主日です。一年の中で、受難節の40日間というのは、そういうことを、しみじみと思う時ではないか、と考えています。その意味で、本日のわたしどもの礼拝にはこのイザヤ書53章の御言葉が与えられました。

 このイザヤ書53章は、「苦難のしもべの歌」と呼ばれます。ここで歌われている神の僕、名前はわかりませんが、「この人」とか「彼」と呼ばれています。求道者の方に、この「彼」という人は、だれのことだと思いますか、と尋ねますと、もう受洗間近の方はたいてい、恐る恐る「これはイエスさまのことではないのですか」、とお答えになります。その通りです。もちろん、旧約聖書ですから、書かれたのは主がお生まれになるよりも500年以上も昔のことです。でも、預言者はまるで自分の目で見てきたかのように正確に語っています。例えば、5節の「彼が刺し貫かれた」は、主が十字架上でわき腹を槍で刺されたことのようですし、7節の、「彼は口を開かなかった」は、裁判を受けておられる間中沈黙しておられたことを預言しているようです。しかも、この人は自分には何の罪もないのに、人々の罪を背負って死ぬことによって、多くの人の罪が贖われる、と書かれています。「その受けし傷によりて、われらは癒されたり」です(5節)。ですので、ここにはあまりにも不思議なことが書かれているのです。

 もちろん、主イエスが現れるより500年も前から、こんなに主の十字架の奥義を正確に謳い上げることが人間にできるはずはありません。ですので、やはりわたしどもは、現代の多くの学者たちがそう認めておりますように、預言者は神の特別の霊感を受けて主の十字架のことを予言しているのだ、と思わざるを得ません。そして、そういう風にここを読みますと、神の救いの確かさとその奥深い意味に改めて深く胸を打たれる思いがするのです。

 預言者は、彼よりもはるか遠くの、500年もあとにお生まれになる「この人」をじっと見つめるような気持で、静かに語りだします。「わたしたちの聞いたことを、だれが信じ得ようか」、と。これから預言者が語ることは、誰も信じられないほど不思議なことだ、でも、これは真実なのだ、と言うのです。そして、主なる神によって選ばれたある一人の人のことを語りだします。その「この人」とは、どのような人なのでしょうか。2節で示されます。

  「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。

 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない」 預言者が語る「メシア」とは、どうやら、当時の人々が期待したメシアとは全く違うようなのです。彼らが期待したメシアは、「ダビデの若枝」と呼ばれ、ダビデ王朝の末裔としてユダヤ人を諸外国の圧政から解放する王であり、バビロニア帝国を一気に滅ぼす、風格も容姿も立派な人のはずです。ところが、預言者が幻の中に示された人は、そういう人ではないのです。そのお顔は深い悲しみに満ち、まなざしは慈しみの中にも深い憂いをたたえています。同じ若枝でも、「ダビデの若枝」ではなく、「乾いた地に埋もれた根から生え出た」、つまり、痩せこけて乾燥した土に埋もれた根っこから、かろうじて生え出た若枝として神の前に育ちます。主イエスは、貧しい大工の子でした。

 それだけでなく、3節には、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている」と謳われています。「彼は侮られて人に捨てられ、/悲しみの人で、病を知っていた」と口語訳では訳されています。こんな風に言われますと、わたしどもは何か、とても悲しくなります。わたしどもは、主イエスの面影の気高さ、神の御独り子としてのご栄光のことをよく知っております。ですから、イスラエルの人々が長い間待ちわびていた救い主が、「風格も容姿も劣り、侮られて人に捨てられ、悲しみの人である」と聞かされますと、いや、主イエスはもっと尊いお方のはずだ、と思うのです。

 しかし、「悲しみの人で、病を知っていた」というのは、人々の病や苦しみや心の痛みをよくご存じで、それ故に、ご自身も「悲しみの人で、病を知っていた」という意味のようです。主イエスは、多くの病める人、悲しんでいる人、苦しみの中にある人を訪ね、その痛みを背負われました。

しかし、その御姿は、人々からはさげすまれ、ののしられ、捨てられる、と書いてあるのは、どうでしょうか。十字架の主が人々から軽蔑され、鞭打たれ、罪びととして十字架にかけられたことは、事実です。ですから、やはりこの予言の言葉を読むと、非常な悲しみを覚えます。

 ですけれども、そのわたしどもは、一体どこに立っているのでしょうか。この苦難のしもべに対して、彼に同情する数少ない人々の側に、立っているのでしょうか。それとも、彼をさげすむこの世の人々の側に、立っているのでしょうか。

 実に驚くべきことに、このわたしどもの立ち位置につきましては、3節の後半に、「わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」、と預言者は語るのです。この聖句ですね。「われらも彼を、とうとまざりき」。つまり預言者は、《預言者自身をも含め、すべての人が、彼を少しも理解せず、尊ばず無視していた》、と謳っているのです。この苦難のしもべの詩を読むとき、この聖句が、わたしどもを一番、悲しませる御言葉なのではないでしょうか。「我らも彼をとうとまざりき」、です。わたしは、受難節で、わたしどもが最も深く心に留めて思いめぐらし、深く瞑想したい聖句の一つは、この御言葉ではないか、と思うのです。「《我らも》彼をとうとまざりき」。

 実際、主イエスはいばらの冠をかぶせられ、紫の衣を着せられて辱められ、顔にツバキを吐きかけられました。そして、どの福音書にも書いてありますように、十字架にはりつけにされた主を人々はさんざんにののしり、侮蔑とあざけりの言葉を浴びせかけました。その際、われわれは違う、とわたしどもは言えるのでしょうか。この苦難のしもべの詩を読むとき、わたしどもはあまりにも早くいい子ぶって、自分を彼に同情する人々の側においてしまうと、この御言葉の全体が、まるでよくわからないままに終わってしまいます。実際、ペトロをはじめとして、12弟子たちはみな、主が捕らえられて十字架にかけられると、雲の子を散らすように逃げてしまったのです。その中に自分もいたかも知れない、と思わないと、この預言の言葉を理解することができません。ですから、わたしどもはそう簡単に、自分だけはそうではない、とは言えないのです。

 さらに4節には、「彼が担ったのはわたしたちの病

 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

 わたしたちは思っていた

 神の手にかかり、打たれたから

 彼は苦しんでいるのだ、と」

 《われわれもまた》、彼は自分の罪のゆえに神に打たれ、病にかかり、苦しんでいるのだ、と思っていた。あにはからんや、彼はわれわれの罪のために、神に砕かれたのだ。かくしてわれわれは、彼の苦しみのゆえに救われた。それどころか、神の御国、永遠の救いの中に、招き入れられたのだ。それが、この「苦難のしもべの詩」の主旨であり、そしてそれが、聖書全体が語る救いの真理であることは、全くその通りなのです。そのことは、固く信じてよいですし、どんなことがあっても、そのように信じるべきなのです。しかしわたしどもは、あまりにも早く、自分を敬虔な人々の側に置いてしまわずに、本当はもっと深く、この預言者イザヤと共に、自分たちもまた彼を尊ばなかった、「我らも彼をとうとまざりき」というみ言葉に、深く心を留めるべきなのではないでしょうか。 

 *

 預言者イザヤは、そのために、わたしどもの手を引いて、導いてくれます。例えば、6節をご覧ください。ここには、すべての人が、一人の例外もなく、神を捨てて迷いの中にいる、と語られています。

「わたしたちは羊の群れ

 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

 そのわたしたちの罪をすべて

 主は彼に負わせられた」

 人間の根本的な過ちと病の原因を、またそれ故に、死と滅びにさらされている不安や恐れの原因を、聖書は必ずしも、一人一人の邪悪な本性や、ただ己の欲望のみを満たしたいと願う悪しき思いの中にではなく、一人一人の深い「迷い」の中に見ています。これは、預言者イザヤの心の優しさの故ではないのです。むしろ、十字架の主のまなざしの中に、わたしどもの姿がそのように映っているからなのです。われわれは皆羊の群れ。それぞれ訳も分からず、自分勝手な方向に向かって歩んでいった。主なる神は、そのすべての罪を彼に背負わせられた、と言うのです。

 第2次大戦中、ヒトラーはユダヤ人を6百万人も殺しました。その時に人々をガス室に送り込む指揮を執った最高責任者は、アイヒマンという人です。よほど冷酷な、極悪非道な人物かと誰もが思ったのですが、裁判で分かったことは、アイヒマンは驚くほどの俗物で、全く平凡な、仕事熱心な家庭人であった、単に上からの命令に忠実に従っただけだと知って、人々は開いた口がしばらくふさがらないほど驚いたそうです。また、1900年代の初め頃、シカゴでギャングの王様として泣く子も黙るその残忍さで知れわたっていたアル・カポネという人物も、家庭の中では実に家族一人一人を愛する優しいパパだったそうです。

 ですから、世の中には善人と悪人がいて、悪人は滅ぼされ、善人は救われる、自分はその善人の方だから、何もキリストの十字架によって罪が赦されなければ救われないような、そんな罪びとなどではない、といった宗教観が、いかに浅はかなものであるかがわかります。もしそれが事実であるなら罪のない神の子が十字架にお掛かりになる必要はなかったのです。

 また、今度アメリカの大統領になったトランプさんだって、クリスチャンで、毎週マーブル教会という有名な長老派の教会に通っている人です。ただ、その教会のヴィンセント・ピールさんという牧師さんは、いわゆる「自己啓発」を唱えて世界的に有名になった牧師さんで、トランプさんはその忠実な信者であるだけです。自己啓発というのは、神様を信じる人は必ず恵まれると確信すれば、人生で必ず成功して大金持ちになれる。そのように自分を自己暗示に掛ける方法です。逆に言えば、貧しい人は信仰が足りなく、努力もしないからダメなのだ、という考え方になります。だから悪さをする移民もだめだ、となります。世界中の心ある人々から袋叩きに遭いそうな考え方で、実際戦争を起こしかねない危険な考え方でもありますが、トランプさんは固くそう信じています。そして、信仰だから実行します。実行すれば失敗します。

 もちろん、これでは人間が神を利用し、キリストへの信仰が幸福になるための手段となっています。これでは本末転倒で、神と人間が逆さまになっていますが、自分では気が付いていません。しかし、わたしどもにとってもっと大事なことは、トランプさんのような信じ方はしていない、と言い切れるクリスチャンが、この世に一人でもいるのか、ということなのです。わたしどもはそのようにして、自分自身をあまりにも早く、自分はこの十字架のイエスを軽蔑などしない、ちゃんと同情もできる心を持っていると、あまりにも早く敬虔な人々の側に身を置いてしまう危険を警戒しなければなりません。パウロは「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく神を探し求める者もいない。・・・善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ロマ3・10~12)、と非常に強い口調で語っています。そして、本日のみ言葉には、「われらも彼をとうとまざりき」(3節)とあります。「わたしたちは羊の群れ/道を誤りそれぞれの方角に向かって行った」(6節)と預言者は言うのです。 これは、昔の一預言者の人生観や宗教観などではないのです。十字架の主のまなざしの中に、わたしどもの姿、全世界の人類の姿が、そのように映し出されている、ということなのです。そしてそれを最も深く悲しんでおられるのは、あの十字架の上で、わたしどもをじっと見つめておられる主イエスなのです。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」。

大部分の人は、自分は賢い、満たされている、人生の成功者だ、と思っているかもしれません。そう思うのは、その人の勝手です。しかしその場合は依然として、人間が幸福であればよい、必要な人は神を信じ、必要がなければ神など信じなくてもよい、ということで、相変わらず、神と人間は逆さまなのです。そして、それを聖書は、人間のもっとも深い病、「罪」、と呼んでいるのです。

 *

 この6節の御言葉から、改めて5節の御言葉を読みますと、その意味が分かってまいります。5節をお読みします。

「彼が刺し貫かれたのは

 わたしたちの背きのためであり

 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。

 彼の受けた懲らしめによって

 わたしたちに平和が与えられ

 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」

 ここで預言者が静かな口調で語っていることが、福音の中心であることは、わたしがいつも説教で申し上げてきた通りです。主イエス・キリストの身代わりの十字架のゆえに、「その打たれし傷によりて、われらは癒されたり」です。ただ、ここで大切なことは、わたしどもがあまりにも早く自分はイエスのような人を軽蔑しない、自分はちゃんとこういう言葉には感激できる心を持っている、だから自分は善人だ、と言って、善人の側に身を置いてしまわないことです。なぜなら、そうすることによって、わたしどもは自分が罪びとであることが完全に分からなくなり、再び、深い迷いの中に落ちてしまうからです。そうではなく、自分が神の子をさげすみ、ののしり、はりつけにした罪びとの側に属する、ということを認めることは、確かに、わたしどもの自尊心と誇りを深く傷つけます。しかし、神の子を傷つけず、再び悲しませなくて済みます。わたしどもは、すべての人を罪びととしてでも、神の御子は正しい、神は正しい、とすべきなのです。そうすることによって、初めてわたしどもは、人間としての正しい道を歩むことができるようになるからです。そして、その神の御子がこのわたしのことをも深く憐れみ、わたしが迷い、病のなかにあることを悲しんでくださり、わたしの罪のためにも十字架にお掛かりになってくださった、と深く心に悟ることが出来ます。そうすることによって、わたしどもの全く新しい人生が、そこから始まるのです。

先ほどご一緒に、ペトロの第1の手紙をもお読みしました。その24節以下をもう一度お読みします。(主は)「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ってきたのです」。

 わたしどもにも、人生をその真の目的に向かって、平安と慰めを得て歩めるよう、一人の慈しみ深い魂の牧者が与えられているのです。

 祈ります。