『水と夢』序 想像力と物質&「質量的想像力とナルシズム」北村知之

https://ameblo.jp/satosatokomugi/entry-12429408846.html 【『水と夢』序 想像力と物質&「質量的想像力とナルシズム」北村知之】より

序 想像力と物質

 Ⅰ

想像する能力は異なった二本の軸に沿って展開する。

一方の能力群は新しさから飛翔力をとりだす。絵画的なもの、多様な変化、思いがけない出来事から楽しみをとりだす。この想像力はいつでもひとつの春を描きだす。自然の中で、この能力はわれわれから遠く離れて、しかもすでに活発になっており、さまざまな花を生みだす。

他方の想像する能力群は、存在の根底を掘り進む。それは存在の中に原始的なるものと永遠なるものを同時に見いだそうとする。それは自然の中に、われわれの中でも、またわれわれの外でも、さまざまな萌芽を作りでしている。その萌芽の形体はひとつの実体の中に埋め込まれており、その形体は内在的である。

これを哲学的にいうと、ひとつは形相因を活気づかせる想像力であり、他のひとつは質量質料因を活発化する想像力である。もっと手短にいえば、形体的想像力と物質的(質量質料的)想像力である。

さてここで、「質量質料的想像力」ってなんじゃ? と思い、念のため、検索してみたら、その件についての論文がすぐにでてきました。

質料的想像力とナルシシスム ― バシュラールの質料的想像力研究 ―北村知之 (福井県立大学論集 第39号 2012.8)美学の教授だそうです。

内容をメモさせていたたぎます。

1.問題設定 水の質料的イメージ

バシュラールの『水と夢』は、彼がその質料的想像力(l’imagination matérielle)という概念 を世に訴えた著作である。

しかしこのことは、同書において質料的想像力の何たるかが明快に示されてい るということを意味するものではない。

2.表面的イメージ

水の表面的イ メージとは、うまく質料化できないイメージなのである。それは水という元素の表面で戯れる イメージであり、変化に富んだものであり、そのために質料的想像力が働く余地がないとみな されるのである。そしてそのような表面的イメージとは、より具体的には、明るい水や輝く水 のことである。明るい水や輝く水というのは、水という元素の表面で戯れるイメージのことな のである。

表面的イメージの下にそれとは別種の深く粘り気をもったイメージが存在するこ とが語られているが、それと同時に、その二種のイメージがそれぞれ「形相の想像力(l’imagination des formes)」と「実体の想像力(l’imagination des substances)」とに対応する

「水は、観照が深まってゆくにつれてだんだんと、物質化する想像力の元素(un élément de l’imagination matérialisante)となってゆくのだ。換言すれば、楽しむ詩人た ちは、一年生の水のように生きている。すなわちそれは春から冬へ移りゆく水であり、 あらゆる季節をたやすく受動的に軽やかに反映する水である。しかしもっと深い詩人 が見つけるのは、生命力のある多年生の水であり、自分の中から再生する水であり、 変化しない水であり・・・」

きわめて文学的でレトリカルな表現ではあるが、明るい水や輝く水の表面で戯れるイメージ が、「あらゆる季節をたやすく受動的に軽やかに反映する水のこと」だと言われている。ここ で注目しておくべきは、反映する(refléter)という言葉が用いられていることである。それは 水の表面に映った映像を想起すべき言葉であり、水の表面的イメージの何たるかを端的に示す ものなのである。

3.質料的イメージの基本的性質

水の質料的イメージとは、既に指摘したように、何よりもまず実体と言い換えられるもので ある。そしてその第一の特徴は、それが水の深層的イメージであるということから、深さとい う性質を伴うということである。それは容易に変化しないという性質を備えており、その性質 がレトリカルな言い回しで「粘性」と言われ「多年生」と言われ「自分の中から再生する」と 言われるのである。要するに、水のイメージは、表面においては様々に変化することがあって も、深いところで変化することなく同一性を保ち続けるという特質を備えており、それが水の 質料的イメージを成すものとされているのである。

深さや不変性という特徴と並んで質料的イメージの重要な性質として指摘されるのが内奥性 である。

「読者は、水の中に、水という実体の中に、一種の内奥性、すなわち火や石の「深 さ」が想起させる内奥性とはまったく異なる内奥性を認めることだろう。」

ここで内奥性と訳した原語は、intimité であり、内密性とも訳されたりする語である。この 概念は、バシュラールが質料的イメージを語る時に繰り返すものであり、質料的イメージにと ってきわめて基本的な性質である。それは内部を意味するものであるが、単なる空間的な位置 関係を表すものではなく、人間の精神が内部であるという時の意味も込められている。したが ってそこには、内部としての人間の精神(むしろ魂)と共通する生命的な性質も含意されてい るのである。そしてこの内奥性と深さとは一体のものである。実体の内部に入ってゆくこと、 それはまた実体の奥深く、深部に入ってゆくこともまた意味しているのである。

バシュラールによれば、そもそも水のイメージは質料化しにくいものである。そのことは、 水のイメージを火や大地という元素のイメージと比較することによって、指摘されている。

「水がきっかけとなったり、質料となったりしている「イメージ」には、大地や 水晶や金属や宝石によってもたらされるイメージにおける恒常性(constance)や 堅固さ(solidité)がない。それは、火のイメージに見られる活発な生命(la vievigoureuse)も持っていない。」

この引用においては、水のイ メージに欠けていて大地や火のイメージには容易に見出される特徴が挙げられているが、ここで土や火のイメージに帰属させられた特徴は、エレメントが持つ一般的性質つまり質料的イメ ージの一般的性質だと考えられる。

大地的イメージに当てられている「恒常性」や「堅固さ」 という特徴は、変化することのないある固有の性質を質料的イメージが持っているということ、 その不変性のことに他ならないし、また火のイメージにおける「活発な生命」も質料的イメー ジのアニミズム的性質を意味しており、内奥性に通じるものである。

ところで、引用文からは、 こうした質料的イメージの特徴が水のイメージには欠けているとバシュラールが考えているか のように思われるかもしれないが、しかしそのような解釈は一面的にすぎよう。この指摘は、 あくまでも多くの水のイメージについて、それももっぱら水の表面的イメージが念頭に置かれ ての発言だと解されなければならない。実際、バシュラールは、水のイメージが移ろいやすい ものであることを指摘するものの、質料化した水のイメージには独特の性質があるとして、次のように述べるのである。

「しかしながら、水から生まれたある種の形相には、もっと魅力的で、もっと強力で、もっと堅固なものがある。それは、もっと質料的でもっと深い夢想がそこに介入してきているということであり、われわれの内なる存在がさらに奥底で関 わるということであり、われわれの想像力が、ごく間近で、創造の作用を夢見る ということなのだ。そのとき、反映のポエジーにおいては感じられることのなか った詩的な力が突如として現れるのである。水が重くなり、暗くなり、深くなる。 水が質料化するのである。そしてこれこそが質料化する夢想なのであり、それは、 水の夢をもっと緩慢でもっと官能的な夢想と結びつけるのである・・・。」

●物質的想像力を分類する四大元素●

●●火、大気(空気)、水、土(大地)●●

4.ナルシシスムという問題

表面と深部とを対置するという枠組みを提示した上で、バシュラールは、 その深部の価値を理解するためには表面について研究が必要であるとし、ナルシシスムや白鳥コンプレックスについての問題提起を行うのである。

ナルシシスムや白鳥コンプレックスは、水における表面的なイメージの事例でありながらも質料的イメージとしての側面を持つもの、も しくは質料的イメージへと深化するものとして取り上げられているのである。

表面的な水のイメージを論じるに際してバシュラールが最初に取り上げるのがナルシシスム である。何故、ナルシシスムがここで問題とされるのだろうか。 例えば、及川は、「バシュラールのナルシス論は、水に反映するイマージュの実体化の試み として読むことができるであろう」と解釈し、さらに続けて、「自己のイマージュを所有したいというナルシスの欲求は、水の表面が反映するイマージュを一種の実体とみなすために生じ るのであろうし、その不可能な企ては、当然のことながら水の表面にのみとどまることはない からである」と述べている。つまり、水の表面に映ったイメージが、単なる表面でしかない反射像としてではなく、想像力を刺激して、その向こう側にそのイメージの本体が存在している と想像させるということに注目しているのである。

●及川 馥(おいかわ かおる、1932年10月10日 - )は日本のフランス文学者。茨城大学名誉教授。

『バシュラールの詩学』1989年

生いたち、同時代の詩・文学作品とのかかわり、フロイトやユングの影響、現象学への接近などを多角的に考察しつつバシュラールの詩学の源泉をさぐり、その基本原理をなすイマージュ=物質的想像力の構造を解き明かす。

『原初からの問い バシュラール論考』2006年

広大無辺の想像力の世界を四大元素をもとに分析したバシュラールの詩的想像力論を追跡・検討し、イマージュを“もの”と“人間”の出会う場として位置づけつつ、近代化=科学的思考によって失われた詩的想像力と自然・身体性の回復をめざす。科学的認識論をふまえた物質的想像力論により、詩学の根本概念を探る。前著『バシュラールの詩学』で展開した論考をさらに発展させた続編。

も、もしかして、『水と夢』を読むより、これらを読んだほうがいいのか!?

いや、まずは。。。

北村氏の論文に戻ります。

ナルシシスムは、表面的イメージの例とし て取り上げられるのであるが、しかしそれは単なる形相的イメージとしてではない。表面的イ メージがいかにして深くなり質料的となるかという事例として取り上げられるのである。

この問題に関連してバシュラールは感覚的価値(valeurs sensibles)と官能的価値(valeurs sensuelles)とを区別している。そして質料性は官能的なものの側に属するとみなすのである。

感覚的価値から官能的価値に移行する時、それは単なる移行ではなく深化なのであるが、その深化によって表面的ポエジーが深いポエジーへと変わる、すなわちイメージが質料化すると考え られているのである。この移行、すなわち感覚的なものから官能的なものへの深化をたどるために、バシュラールは「だから感覚の中でもっとも官能的でないもの、すなわち視覚から始め て、それがどのようにして官能的なものになるかを見よう」と言うのである。こうし た文脈において取り上げられるのが、ナルシシスムの問題なのである。

5.ナルシシスムと自然

バシュラールは、まずナルシシスムが鏡像経験であることに着目し、人工の鏡と水鏡とを 対比しながら水鏡の意義を論じている。

水面に映る像は鮮明さにおいて人工の鏡のそれに劣るものである。

「泉の鏡は、それゆえ、開かれた想像力の機会となるのである。幾分ぼんやりと して幾分色あせた反射像は、理想化をうながす。」

この時、想像力が発動し、夢想が深まるということになる。

人工の鏡と水鏡との違いは現象的には鏡像の鮮明さの違いであるが、さらにバシ ュラールは、それ以上のものを両者の違いに読みとっている。それが自然という要素である。 人間の自己愛をナルシシスムと呼ぶことについて、バシュラールは、それが単に神話にこと寄せるだけではなく、ナルシス神話が自然的なものであるということを含意するものであると解 して、その重要性を強調している。つまりナルシシスムにおいては、それが自然的経験であることに意味が見出されるのである。

「人間が自分のイメージや、静かな水に映る自分の顔に対していだく愛情に対し て、精神分析がナルシスという記号を当てたのは、単に解りやすい神話を必要と したということではなく、自然的経験(des expériences naturelles)の心理的役割 についての本当の洞察があったからこそである。」

水鏡は、われわれの姿 をわれわれに見せるだけでなく、そのイメージを自然化するとされるのである。

「水鏡の心理学的有用性を理解しなければならない。すなわち水は、われわれのイメージを自然化し(naturaliser)、われわれの内奥の瞑想が持つ傲りにいくぶんの無邪気さと自然さ(un peu d’innocence et de naturel)をもたらすために役立つの である。」

またルイ・ラヴェルの著作からの一節を引用するに際しては、次のように述べている。

「ルイ・ラヴェルが注目したのは、水の反映の自然な深さ(la naturelle profondeur du reflet aquatique)と、その反映がもたらす際限のない夢である。」

自然的なナルシシスムにおいてバシュラールが指摘するのは、それが「自然な夢の元素のひとつ」であり、「自然の中に自らを深く刻み込みたいという夢の欲求(le besoin de s’inscrire profondément dans la nature)」だということである。そして人は、自然の元素としての水と共に夢想 する時に、深く夢見ることができるとされるのである。

6.ナルシシスムの形而上学

ナルシシスムとは人間が自らの美しさを意識する経験であるが、バシュラールはこのよう なナルシシスムを自我的ナルシシスム(le narcissisme égoïste)と呼び、ナルシシスムがそれに 限定されるものではないとして、より拡張されたスケールの中でナルシシスムを論じる。バシ ュラールは、まずジョアシャン・ガスケの次のような言葉を引用する。

「世界は、自分自身について考えている巨大なナルシスである。」

そこからさらにシェリーやキーツ、エリュアールといった詩人たちの詩句を引用しながら、 そこでのイメージが、自我的ナルシシスムを超えて宇宙的ナルシシスム(le narcissisme cosmique)に至っていることを指摘している。水鏡に映るのは、ナルシスの顔だけではない。ナ ルシスが覗き込む水の中には、森も大空も映っている。そして湖水に映った森や空は、それら もまたナルシスとみなされるのである。つまり人間存在のみならず、水に映るすべてのものが ナルシスと化するのである。

この宇宙的ナルシシスムにおいては、水に映った世界全体が関わっており、世界全体がその 美を意識するのである。水は世界の美しさを顕示するものとしての役割を担う元素なのである。 こうした主張は、散文的で常識的な観点からすれば、実に荒唐無稽なものではある。しかしこ れは質料的想像力がもたらす一つの形而上学なのである。

ナルシシスムの形而上学的特性はどのようなものか、もっと詳しく見ておこう。 ナルシシスムとは、見るものが見られるものであり、見られるものが見るものであるという 関係のことである。そこにバシュラールは意志の問題を介入させる。カントの美的観照における無関心性を想起するまでもなく、何かを観照するという行為は、世界に対する働きかけの中断であると解されるものである。バシュラールも、ショーペンハウアーを引きながら、美的観照が人間を意志のドラマから引き離すものであるという見方を一般論としている。しかし、そ のような、美的観照態度を行為の中断と見なしたり、そこに無関心性を認めたりする西洋美学の伝統的立場に対して、バシュラールは、「観照する意志(la volonté de contempler)」 を主張する。見るということを意志的行為としてバシュラールは捉えるのである。

ここからさらにバシュラールは、見ることへの意志が人間にのみ認められるものではなく自 然においても認められると論を進めるのである。つまり世界そのものが自らを見たいという欲求と意志を持っているのであり、そのための目の役割を果たすのが、世界の姿をその面に映す 水だと言うのである。

だが世界の目は水にとどまらない。これがナルシシスムとの関係において論じられているこ とからも解るように、美しいものには目が備わっているものなのである。美しいものは、自らの美を見るために目を持っているのであり、それゆえ美しいものはわれわれを見つめるもので もあるのだ。

美しいものを見ている人は、美しいものが意志をもってこちらを見ているという感覚に陥るものであることをバシュラールは指摘するのである。

「その時、見ている者は、自分が、美の直接的意志の前にいるという感じ、受動 的なままではいられない見せびらかそうとする力の前にいるという感じを持つの である。」

そうしてバシュラールは結論する。

「観照すること、それは意志に対立することではない。それは別の系統の意志に 従うことであり、それは一般意志の一要素たる美の意志を分有することなのであ る。」

そして、このようなイメージを理解するためには、「想像力は、形相の生と質料の生とを共 に分有することが必要」だとバシュラールは述べるのである。

またここで語られている美しいものとは、自然のことである。

水の表面的なイメージとしての始まったナルシシスムの話は、きわめて壮大な宇宙論となり、形而上学としての姿を現したが、その理論の中で質料的イメージとしての水はどこに 行ったのだろうか。これは水についての質料的イメージの話と言えるのだろうか。この点に関 してバシュラールは答えている。

「しかし事物の眼差しに、どこか優しいところ、いくぶんの重々しさ、なにか物 思うようなところがあるならば、それは水の眼差し(un regard de l’eau)である。 想像力の検討によって、われわれは次のような逆説に辿りつく。すなわち、一般 化された視覚(la vision généralisée)の想像力においては、水は予期せぬ役割を 演じるのである。大地の真の目、それは水である。われわれの目の中では、夢を 見るのは水なのだ。われわれの目とは、「神がわれわれ自身の奥底に設置した、 液体となった光が溜まった誰も知らない池」なのではないだろうか。自然の中で も、見るものはまたもや水なのであり、夢見るものもまた水なのだ。」

バシュラールは、自然がわれわれを見る眼差しは水の眼差しだと言うのである。つまり宇宙 論的ナルシシスムにおいては、質料的イメージとしての水こそが眼差しの本体をなしているの であり、ナルシシスムはすべて水のイメージを分有していると解されるのである。

バシュラールにおいては、世界が世界を 見るというのがナルシシスムの形而上学的本質であって、人間が自分を見るということは、宇 宙的ナルシシスムに対して種的な一例として位置づけられるのである。そして水という物質= 質料は、そうした宇宙的ナルシシスムを可能にするエレメントとして想定されているのである。

8.水浴する女性と白鳥

バシュラールの理論において白鳥は、最終的には水の質料的イメージとみなされ、質料的想像力と繋がるものなのであるが、白鳥と水の表面的イメージとの間には両者を繋ぐリンクとな る一項がある。それが水浴する裸婦である。

「それでは、小川の性的機能とは何であろうか。それは女性の裸体を喚起すると いうことである。散歩している人が言う。これはとても澄んだ水だ。このような水ならば、最も美しいイメージをどれほど忠実に映し出すことであろうか、と。 その結果、そこで水浴する女性は、色白で若くなるであろう。その結果、彼女は 裸婦となるであろう。さらに、水が喚起する裸は、自然な裸(la nudité naturelle) である。それは純潔を守り続けられる裸なのである。想像力の領分において、真実に裸の存在、体毛のない曲線をもった裸の存在は、常に海から出てくるもので ある。水から出てくる存在とは、反映なのであり、その反映が少しずつ質料化したものなのである。それは、存在となる前はイメージであり、イメージとなる前は欲望なのである。つまりルネサンス以降の西洋絵画において描かれ続けてきた水浴する女性、これは清らかな 水が喚起するイメージなのである。美しいナルシスが水面の鏡に映し出されるように、澄んだ水の表面には、無意識の欲望に促された想像力が水浴する女性のイメージを描くというのであ る。そしてこのような前提の下で、水辺の白鳥は、水浴する女性の代役として意味づけられる のである。

白鳥は、したがって、無意識の欲望と結びついている。白鳥は、表面的イメージとしては、 きわめて視覚的なものであるが、それは欲望と深く結びついたものであるがゆえに、視覚対象 という意味での感覚的存在ではなく官能的な存在とみなすべきものなのである。このような論 理によって、白鳥においては、表面的イメージと質料的想像力との関係が想定されることにな るのである。

9.おわりに

『水と夢』における水の表面的イメージから深層的イメージへの移行の議論に注目するこ とによって、われわれはバシュラールの質料的想像力論における二つの論点を指摘することができる。

一つは、元素としての水の形而上学的性格である。ナルシシスムにおける質料的イメージは、 水の宇宙論的イメージを示すものであり、水は、自然そのものが自らを見るための目としてイ メージされていた。水はその表面に美しい自然を映すものであるが、その映像は、質料的想像力にとっては、単に表面的なものではなく、美しい自然が自らを見せまた見ようとする意志を表すものであり、水はそのための器官なのである。バシュラールの質料的想像力が生み出す水 のイメージは、そのような形而上学的存在なのであり、その意味においてこそ元素(エレメント) と呼ぶべきものなのである。そのような元素としての水の形而上学的性格こそがバシュラ ールの質料的イメージないし質料的想像力の根本をなしているのであり、それを考慮しないで は質料的想像力の意味するところは十全に理解することはできないと思われる。

またその一方で、バシュラールの質料的イメージがイメージにおける非視覚的側面に着目し たものであることも重要な論点である。質料的想像力によってもたらされるイメージは、視覚に限定された感覚的なものではなく、身体全体に影響を及ぼすイメージなのである。水の表面的イメージとして数えられる水の爽やかさも水のせせらぎもそうした文脈の中で理解されるべ きものである。ナルシシスム論や白鳥論においてバシュラールはそのイメージを官能的(sensuel)としているが、これらも非視覚的な身体全体の感性的経験として解釈すべきものであろ う。質料的イメージとは、この身体感覚的な経験に訴えるものであり、『水と夢』における質 料的想像力という主題の下での詩的イメージの議論とは、非視覚的イメージの詩的価値を評価する試みとして位置づけられるべきものである。

******質料的想像力とナルシシスム ― バシュラールの質料的想像力研究 ―北村知之


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