http://m-yamamoto.seesaa.net/article/136025838.html 【宇都宮市の地名はどこから出たのか?】 より
私たちの居住している「宇都宮」はどんなところから、この地名がついたのでしょう?
普通「宇都宮」は「宇都宮」であって、そんなことを考える必要は無い・・と簡単に言われてしまうところですが、ちょっと調べて見ると誠に面白い面があると思われるので、今回は地名の由来について書いていきます。
宇都宮の地名を語るには、現二荒山神社に祭られている「豊城入彦命」を語らなければならないと思う。
豊城入彦命は「日本書紀」(古代の歴史書)によると、時の天皇である崇神天皇の第一王子であると記されていて、この方が東国における「エゾ」平定のために東国に下向された。
その後、上毛(かみつけ)の地(群馬県)下毛(栃木県)において、「エゾ」の原住民を鎮撫し、荒尾崎(現パルコの跡地付近)下宮に「田中大明神」を安置され、次いで、現城跡公園付近に仮居された。
前記した荒居崎の西北一帯に池があるので、この付近を「池の辺」と名付けられた。(宇都宮志料)
その後、約三年間この地に住まわれたと言われている。
古書「吾妻鏡」(鎌倉幕府の日記)には、宇津宮という地名が使われている。
この「津」というのは、海辺とか大きな湖、あるいは川を指すために使われたもので、例えば、会津という都市、特に会津盆地は会津の山から流れる水が溜まり、一帯湖のような姿・・・その水が消えた時に出来たのが会津盆地と言われ、今でも、船津、水門などを町名に取り入れられた会津若松市などもある。
現在の日本地図を見ても「津」という文字を使っている所は、必ず前記したような所にある。
話しを元に戻すと、宇津宮の津も、池が多くあり、そのことから「津」を使ったのではないだろうか?もちろん、宇津宮は地名ではなく、臼ヶ峯における「二荒山神社」を指して使われたという学者もいる。
それでは、臼ヶ峯に祀られている「二荒山神社」は、いつ頃、いかなる御方を御神体にして出来たものなのだろうか?宇都宮を語る場合は「二荒山神社」を知らなければなるまい。
宇都宮における古文書などによると、当神社の起源は大和朝廷 仁徳天皇の時代、つまり五世紀の初めに、時の国造(くにのみやっこ=現在の知事クラスかと思われる)が、豊城入彦命及び大物主命(大国主命)の二柱を祀り、相殿(あいどの)に事代主命(大国主命の御子)と三穂津姫(大国主命の妻)を祀られ、国社(くにやしろ)としたところから始まると言われており、その後、荒尾崎から現在の臼ヶ峯に移されたとある。
このような所から下野の地の一番の社と言われ「下野一の宮」となり、これが変じて「一の宮」が「宇都宮」となった。つまり「宇」とは大きなものをさし、「津」は先に述べた池の辺郷をさし、宮は一の宮を指しているという説である。
しかし、かつて私は雀地区の古老に別の由来話しを聞かされたことがある。
下野上野及び東北の一部を平定するために、京都より来られた豊城入彦命が、各地の豪族を味方に部隊として行動中、現在の雀地区で病を得て薨(こう)ぜられたので、地区の豪族がその徳を偲んで、地内に「しづめ」たと言われている。しかし、今日の雀の宮地区と異なって、奥州街道の一部ではあるが、山林と田園が多く淋しいところであった。
当時「池の辺郷」には、大きな池があり、東北へ行く人、また、帰る人、お山(山岳信仰)へ参拝する人が体を洗い清める集落であったので、ここに命の霊を移そうとなり、「移しの宮(うつしのみや)」つまり宮様を移したのが「宇都宮」の起源と話してくれた方もおり、地区のプライドから宮様を「しづめた」”しづめ”の地名が「雀の宮」になったということを聞いたことがある。
以上、「宇都宮」にまつわる代表的な二つの起名説を書きましたが、皆様のご判断はいかがでしょうか?
宇都宮、宇津宮と記し、二荒山神社の内宮(ウチノミヤ)という意味があるようです。
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/10077876 【「宇都宮」の地名の由来】
https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/shisei/gaiyo/aramashi/1007463.html 【宇都宮の歩み(宇都宮市の歴史)】 より
宇都宮の歴史は古く、その昔、蝦夷平定のため、はじめてこの地に足を踏み入れた豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が開祖といわれており、これを祀った二荒山神社の門前町として栄え、池沼が多いことから「池辺郷」とも呼ばれていました。
「宇都宮」の地名は、藤原宗円が二荒山神社の社号「宇都宮」を氏とし、鎌倉幕府の中枢にあって、治政をあげたことに由来するといわれています。
江戸時代には城下町として栄え、参勤交代や日光東照宮の造営などにより往来も多く、「小江戸」と呼ばれるほど繁栄しました。
明治17年に栃木県庁が置かれ、同22年に町制、同29年に市制が施行されました。以後、県内の政治経済の中心となり、また、14師団が置かれて軍都としても有名となりました。昭和20年の空襲では市街地の大半を焼失しましたが、いち早く戦災復興土地区画整理を進め、全国でもまれにみる復興をとげました。
昭和29年から30年にかけて、隣接1町10か村を合併編入し、都市基盤の整備を進め、近代的な商業都市としての基礎を整えました。
昭和35年以降は、宇都宮工業団地(293ha)や内陸では最大規模の清原工業団地(388ha)等の造成をはじめ、積極的に工業振興策を推進し、また昭和59年には、「宇都宮テクノポリス」の地域指定を受け、生産基地から頭脳基地への脱皮、産・学・住が有機的に結ばれたまちづくりを進めてきました。
また、交通網は、昭和47年に東北自動車道が、昭和57年には東北新幹線が開通するなど急速に整備され、特に、平成3年6月の東北新幹線の東京駅乗り入れにより、宇都宮-東京間は53分と短縮され、東京圏との交通は一層便利になりました。更に、平成23年には北関東自動車道が全面開通し、南北・東西の動脈の結節点として、ますます人やものの交流が盛んになっています。
平成元年4月には、作新学院大学、帝京大学理工学部、宇都宮文星短期大学が同時に開学し、これまでの商・工業都市に加え、文教都市として大きな役割を担うことになりました。一方では、昭和57年にニュージーランドのマヌカウ市(現オークランド市)との姉妹都市提携を始め、中国のチチハル市、フランスのオルレアン市、アメリカのタルサ市、イタリアのピエトラサンタ市と、それぞれ姉妹都市、友好都市の絆を結び、国際理解と平和に向け市民レベルの交流を活発に繰り広げています。
この間、平成5年に全国高等学校総合体育大会、平成7年に第10回国民文化祭とちぎ95、平成8年に日本女性会議96が開催されたほか、平成12年に全国都市緑化フェア、平成19年にはもったいない全国大会の会場地となるなど、全国規模のイベントも数多く行われています。
平成8年、宇都宮市が市制を敷いてから100周年を迎え、同年、中核市に、平成19年には、上河内町及び河内町と合併し、50万都市となりました。
本市は、恵まれた立地条件や交通条件、各種都市機能の集積などにより、栃木県の政治・経済・文化の中心地であると同時に、これからも、首都圏の北の拠点都市として発展を続けていきます。
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