宇都宮城

http://taki.or.tl/castle/Tochigi/Utsunomiya/index.html  【宇都宮城】 より

【宇都宮城】

平安時代後期に築かれたと言われ、鎌倉時代以降は約500年にわたり関東の名門、 宇都宮氏の居城として栄え、関東七名城の一つとも言われた。宇都宮氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、 江戸時代には譜代大名の居城となった。中でも本多正純の時代に城と城下町が大きくつくりかえられ、 現在の宇都宮中心部の骨格が出来たと言われている。 将軍が日光に参詣に行く際の宿泊地として有名で、絵図によると当時は二階櫓が本丸に5基、 二ノ丸に3基設けた南北900m,東西850mに及ぶ壮大な城だったが、戊辰戦争での焼失や、 その後の戦災などにより現在は跡形も無く、現在はハリボテの土塁など、 痛々しく復元された公園になっている。

【本丸】

かつての本丸の西側半分が公園として整備されている。かつてはここに本丸御殿が建てられており、 将軍が日光参詣の際に宿泊していた。ちなみに、宇都宮城は釣り天井伝説で有名だが、作り話。

【清明台】

本丸の北西部にあった櫓で、他の部分より高い土塁が築かれていた事から、 天守の役割をしていたと考えられている。建物は江戸時代の絵図の通り、二階建て瓦葺きので 復元されているが、石垣は無かった。

【富士見櫓】

本丸の南西部に建てられていた櫓で、絵図の通り二階建ての瓦葺きの櫓が再建されているが、 清明台と同様にこちらも当時石垣は無かったと思われる。現地解説版によると、 高い建物が無かった当時はここから富士山が見れた事からこの名が付けられたとの事だが、 絵図によると藤見櫓と記されている。

【復元土塁】

本丸の西側半分の土塁が復元されているが、これはコンクリートにジオファイバーと呼ばれる 繊維を混ぜた土を吹き付けたもの。この土塁の内部は倉庫や資料館となっており、 エレベーターも完備している。土塁の真ん中に大きく開いた門と言い・・・  噂には聞いていたが、思った以上にすごい・・・

【土塁内部】

 復元された土塁内部の一部は資料館となっており、ジオラマなどが展示してある。

【本丸水堀】

現在復元されている本丸の西半分の堀は17世紀前半に掘られたものと考えられており、 文献には幅12間(21.8m)と記されている。発掘調査の結果、幅は最大27m、深さは最大7m あった事が確認されている。

【清水門跡】

本丸北側の大手門にあたる清水門があった場所。ここから西側の土塁や堀が現在復元されているが、 門の跡は何も残っていない。

【南側土塁】

 本丸の南側に残るちょっとした土盛り。この辺りだけは色々といじられる前からある 本当の土塁の跡っぽいが、ここまでやられたら、もう何が遺構かなど分からない。

【清明館】

 本丸の一角にある清明館。周囲はそれっぽく石垣などが作られているが、勿論つくりもの。 中は宇都宮の空襲などについての展示が多い。

【二ノ丸】

本丸の西側一帯は二ノ丸があった場所。現在は何の遺構も無く、駐車場などになっている。

【大手】

城の北側が当時の大手にあたり、現在もまっすぐに大手道が延びている。

【三日月堀】

城域の北側の路地に名残をとどめる三日月堀の跡。元和6年(1620)、宇都宮城主の本多正純により 宇都宮城が大改修された際に掘られたもので、大手門から太鼓門に入る敵を防いでいた。 当時は堀の幅約22m、東西約144m、深さ8mある規模の大きな堀だった。

【大いちょう】

城域の北西に位置するの大いちょう。この木は宇都宮の戦後復興のシンボルともなっているが、 この木が植わっている場所が唯一残る三の丸と百件堀の境の土塁の残欠部分。


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【宇都宮市の地名はどこから出たのか?】 より

私たちの居住している「宇都宮」はどんなところから、この地名がついたのでしょう?

普通「宇都宮」は「宇都宮」であって、そんなことを考える必要は無い・・と簡単に言われてしまうところですが、ちょっと調べて見ると誠に面白い面があると思われるので、今回は地名の由来について書いていきます。

 宇都宮の地名を語るには、現二荒山神社に祭られている「豊城入彦命」を語らなければならないと思う。

 豊城入彦命は「日本書紀」(古代の歴史書)によると、時の天皇である崇神天皇の第一王子であると記されていて、この方が東国における「エゾ」平定のために東国に下向された。

その後、上毛(かみつけ)の地(群馬県)下毛(栃木県)において、「エゾ」の原住民を鎮撫し、荒尾崎(現パルコの跡地付近)下宮に「田中大明神」を安置され、次いで、現城跡公園付近に仮居された。

前記した荒居崎の西北一帯に池があるので、この付近を「池の辺」と名付けられた。(宇都宮志料)

その後、約三年間この地に住まわれたと言われている。

古書「吾妻鏡」(鎌倉幕府の日記)には、宇津宮という地名が使われている。

この「津」というのは、海辺とか大きな湖、あるいは川を指すために使われたもので、例えば、会津という都市、特に会津盆地は会津の山から流れる水が溜まり、一帯湖のような姿・・・その水が消えた時に出来たのが会津盆地と言われ、今でも、船津、水門などを町名に取り入れられた会津若松市などもある。

現在の日本地図を見ても「津」という文字を使っている所は、必ず前記したような所にある。

 話しを元に戻すと、宇津宮の津も、池が多くあり、そのことから「津」を使ったのではないだろうか?もちろん、宇津宮は地名ではなく、臼ヶ峯における「二荒山神社」を指して使われたという学者もいる。

それでは、臼ヶ峯に祀られている「二荒山神社」は、いつ頃、いかなる御方を御神体にして出来たものなのだろうか?宇都宮を語る場合は「二荒山神社」を知らなければなるまい。

 宇都宮における古文書などによると、当神社の起源は大和朝廷 仁徳天皇の時代、つまり五世紀の初めに、時の国造(くにのみやっこ=現在の知事クラスかと思われる)が、豊城入彦命及び大物主命(大国主命)の二柱を祀り、相殿(あいどの)に事代主命(大国主命の御子)と三穂津姫(大国主命の妻)を祀られ、国社(くにやしろ)としたところから始まると言われており、その後、荒尾崎から現在の臼ヶ峯に移されたとある。

 このような所から下野の地の一番の社と言われ「下野一の宮」となり、これが変じて「一の宮」が「宇都宮」となった。つまり「宇」とは大きなものをさし、「津」は先に述べた池の辺郷をさし、宮は一の宮を指しているという説である。

しかし、かつて私は雀地区の古老に別の由来話しを聞かされたことがある。

下野上野及び東北の一部を平定するために、京都より来られた豊城入彦命が、各地の豪族を味方に部隊として行動中、現在の雀地区で病を得て薨(こう)ぜられたので、地区の豪族がその徳を偲んで、地内に「しづめ」たと言われている。しかし、今日の雀の宮地区と異なって、奥州街道の一部ではあるが、山林と田園が多く淋しいところであった。

当時「池の辺郷」には、大きな池があり、東北へ行く人、また、帰る人、お山(山岳信仰)へ参拝する人が体を洗い清める集落であったので、ここに命の霊を移そうとなり、「移しの宮(うつしのみや)」つまり宮様を移したのが「宇都宮」の起源と話してくれた方もおり、地区のプライドから宮様を「しづめた」”しづめ”の地名が「雀の宮」になったということを聞いたことがある。

以上、「宇都宮」にまつわる代表的な二つの起名説を書きましたが、皆様のご判断はいかがでしょうか?