本丸御殿のあったところです。宇都宮頼綱、豊臣秀吉、徳川将軍家、明治天皇などにゆかりの地です。
親臨の碑を盾とせり西日の矢 高資
https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/kurashi/shogaigakushu/kagayaki/kouza/1023130/1025106.html 【天皇家と栃木県民と自然 栃木県の自然を愛される歴代天皇のお姿】 より
栃木県の自然を愛される歴代天皇と栃木県民との関係は、明治時代から百数十年の歴史を感じることができます。歴史を顧みると、幕末から明治に時代が移り、政治体制が大きく変わった時、国民の不安が広がって旧武士階級の反乱が続きました。その中で、新しい国の形を作るため、明治天皇の全国御巡幸(ごじゅんこう)が始まりました。それから、天皇家と栃木県の歴史が始まります。
本講座では、明治天皇の東北御巡幸、大正天皇と塩原御用邸、歴史ある日光田母沢(たもざわ)御用邸や那須御用邸、昭和44年に作られた高根沢町にある御料牧場、平成23年に開園した日光国立公園那須平成の森と、歴代天皇家の結びつきについて学びます。
「平成」から「令和」へ、新元号を迎えた今、歴代天皇と栃木県との繋がりを学んでみませんか。
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2017-04-05 【栃木市の石碑を巡る「親臨賜宴之處」 [石碑]】 より
毎日のように栃木の市内を、西に東にウォーキングしていると、思わぬところに発見が有ります。
今回は、日ノ出町から小金井街道、現在の県道44号(栃木二宮線)の東武日光線の踏切を渡って直ぐ左に折れ、線路沿いの細い道に歩を進めました。この道を歩くのは初めてです。道路は線路からしだいに離れ住宅街の中へ。すると間もなく左手に広場が現れました。道路沿いに建つお洒落な街灯の下に「今泉二丁目公民館」の表示板が付いています。公民館前広場の南塀際に、大きな石碑が1基建っています。
思わぬところで出くわした石碑、どんな石碑なのか近くに寄って確認します。
(碑陽:「親臨賜宴之處」と大きく刻されています)(碑陰:石碑を建てた由来が刻されています)
石碑の表面中央部には縦に「親臨賜宴之處」と大きく刻されています。その左横には小さく「元帥陸軍大将正二位勲一等功一級子爵川村景明謹書」と有ります。
石碑の裏側には碑文が刻されています。内容は
「大正七年十一月、天王統監陸軍大演習練武于栃木茨城兩縣下既畢同月十八日親臨栃木町外大宮村今泉之地賜酺文武官僚及士民無慮數千人寔可謂盛典矣今茲大宮村民胥議欲建碑於黼座之跡以傳 聖恩於無窮請余文乃謹記其由云爾」と有ります。
文末に「大正八年二月 第十四師團長陸軍中将正四位勲二等功三級栗田直八郎撰文并書」と刻されています。
(今泉二丁目公民館の広場に建つ石碑「親臨賜宴之處」の碑文)
碑文に有る「天皇統監陸軍大演習」とは、天皇の統監の元に原則として毎年一回行われる大規模な演習のこと。栃木市史資料編近現代Ⅰの中に、「陸軍特別大演習 (-栃木町に大本営-)」と題して記載されています。
又、その時撮影された写真が記念絵葉書「佐藤写真館謹写」として発売されています。その写真が、2012年12月17日発行の写真集「片岡寫眞館」片岡惟光編の巻末に(参考図版)として掲載されています。
石碑が建立された場所は、碑文に有る様に陸軍大演習の終了後、その労をねぎらう為に行われた賜宴の場所でした。この「賜饌場(しせんじょう)」について、前記の栃木市史に詳しく記されていました。一部抜粋をさせて貰うと、
≪大正七年十一月十八日午前閲兵式終ハルヤ、天皇陛下ハ大演習中ノ労ヲ犒ラワセラルゝノ大御心ヲ以テ、同日午後二時三十分大本営御出門賜饌場ニ臨御アリ。(中略) 是ヨリ先キ宮内省御用地トシテ栃木町大宮村トノ接続地タル小字榎堂ト米附道トニ地ヲ相シ、面積六千三百九十坪ヲ撰定(内大宮村分五千九百九十三坪、栃木町分四百二坪)尨大ナル賜饌場ヲ造営シ、一大偉観ヲ呈ジタリ。≫
この資料を基に「賜饌場」の状況を推定してみようと試みました。まず分かっている情報について。
①石碑の建つ場所が含まれる。(建立当時から移動されていないならば)
②大正7年の栃木町と大宮村との接続地である。
③小字榎堂や米附道に有る。
④面積は6,390坪(約21,119㎡)、これは現在の栃木中央小学校のグランド3個分程の広さに相当します。
以上の情報を基に、まずその当時の「栃木」の地形図を確認すると、丁度その前年となる大正6年7月30日大日本帝国陸地測量部発行の「栃木」が有ります。その地形図から石碑が建つ周辺の部分を抜粋スケッチをして、現地図を描く事から始めました。
大正6年の地形図には、石碑が建っている地点付近に描かれている道路は、小金井街道(現在の県道44号)と今回踏切脇から入って行った、北北東方向に進む細い道路だけが確認出来る。他には栃木町と大宮村との境界線、そしてその西側に北から南に流れる細い川(現在の杢冷川)。この地形図に記された地図記号により情報の①と②が確認出来る。そして、再度現地を巡り、小字名「榎堂」「米附道」に関する情報を探していくと。現在の日ノ出町内に、「榎堂稲荷神社」の場所を確認出来ました。
榎堂稲荷神社1.jpg榎堂稲荷神社2.jpg
(榎堂稲荷神社) (社殿基礎部分に「榎堂稲荷神社改築記念」を刻した石板が有りました)
更に現地を歩くと「榎堂稲荷神社」前の道路を東に行くと、石碑の建つ今泉二丁目公民館の所へ通じていることも確認出来ました。
この道路については、大正6年の地形図には記されておりませんが、明治19年7月発行の迅速測図「栃木町」を調べてみると、なんと明治期の小金井街道は、この榎堂稲荷神社前を通る道路だった事が確認出来ました。恐らく大正時代もこの道路は存在していたものの、地形図には反映されていなかったと考えられます。
これらの情報を基に大正6年の地形図に追記をしていくと、「賜饌場」と成った場所の範囲が推定されてきました。
大正7年陸軍特別大演習賜饌場周辺地図1.jpg
(賜饌場の場所を推定の為に作図した現地図、大正6年発行の地形図「栃木」を参考とした)
以上より大正7年11月18日に行われた「親臨賜宴」の場所は、南側は小金井街道(現在の県道44号)、東側はその小金井街道と交差して北北東に進む道路、北側は「榎堂稲荷神社前を東西に通っている旧小金井街道とに面し、西側は大宮村と栃木町の境界を越え、杢冷川の手前までの畑だったところを「賜饌場」として、造営されたと推定いたします。
現在、賜饌場の推定地を縦貫する東武日光線は、昭和4年4月1日に杉戸(現在東武動物公園駅)と新鹿沼間が開通しており、大正期はまだ有りませんでした。
その大正6年の地形図には賜饌場の上空を送電線が引かれていました。現在も当時とは少し位置が変わっていますが、今泉二丁目公民館の西側に送電線用の鉄塔が建っています。
この送電線は現在も泉町の北東部に有る変電所から来ています。大正期の様子は分かりませんが、私が昭和40年代に撮影した、変電所と小金井街道の南側に建つ電柱がアルバムの中に残っていました。
東電変電所(昭和40年9月)1.jpg1968年小金井街道の送電線.jpg
(昭和40年撮影、泉町北東部の変電所)(昭和43年撮影、小金井街道脇水田に建つ電柱)
今回の石碑の事を調べる中で、これまで気にしていなかった史実を、幾つも知る事が出来ました。
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