http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/water.html 【水(Water)〔Gr. u{dwr〕】より
〔象徴〕 世界の、他のあらゆる伝承においても、水は、同様に本源的役割を果たしているが、その役割は、すでに明確にした3つのテーマの周辺に有機的に関連づけられながらも、殊のほか万物の起源に執着を見せている。宇宙発生論の観点に立つと、水は混同してはならない正反対の2つの象徴的観念複合体を包含している。すなわち「降下する」天の水である《雨》は、大地を受胎させるためにやってくる天界の精液である。したがってこれは、男性の、天の火と結びつく水であり、ロルカが《イェルマ》において求める水である。他方、〈最初の〉水、大地と白い黎明から〈生まれたばかりの〉水は、女性的である。大地は、ここにおいて、月と結びつくが、この月は申し分のない受胎能力、妊娠した大地のシンボルであり、この大地から水が出てくるのは、受胎から発芽への成育が行われるためである。
いずれの場合にも、水のシンボルは、血のシンボルを含んでいる。しかし血についても、同一の血が問題なのではない。というのは、血もまた、二重のシンボルを包含するからである。すなわち太陽と火に結びつく天の血と、大地と月に結びつく月経の血とである。この両者の対比を通して、光と闇の基本的二元性が認められる。
〔アステカ〕 アステカ族においては、太陽の定期的再生に欠くことのできぬ人間の血は、〈チャルチワトル〉(「宝の水」)と呼ばれるが、これはすなわち緑の翡翠のことで(SOUM)、間違いなく「赤」と「緑」の相補性を示すものである。水は緑の内的力である、赤い血の象徴的等価物であるが、それは水がその内部に、赤に対応する命の芽を持っていて、これが冬の死の後に緑の大地を周期的によみがえらせるからである。
〔ドゴン族・バンパラ族〕 これまた、緑色の、神の精液たる水は、ドゴン族の宇宙発生論において、大地を受胎させて《二双子の英雄》をもうける(GRIE)。この双子は、腰から上が人間、腰から下がヘビの形で生まれる。彼らは緑色をしている(GRIE)。
しかし、豊餞をもたらす生命力である、水のシンボルは、ドゴン族とその隣人バンパラ族の思想において、はるかに先まで進む。というのも、水は神の精液だが、また〈光〉であり〈言葉〉だからである。この再生の御言葉の、主要な神話的アヴァターラ(権化、化身)は、純銅の螺旋である。しかしながら、水と言葉が現実態となって現れ、世界創造をもたらすのは、もっぱら湿った言葉の形をとってである。この湿った言葉に対立するものとして、顕在的生命のサイクル外にとどまる双子の片割れがいて、こちらをドゴンとバンパラは「乾いた水」と「乾いた言葉」と呼ぶ。乾いた水と乾いた吉言葉は、思想、すなわち人間と神の両面における潜在性を表す。世界の創成の基礎である、湿気の原質を、その内部で誕生させた宇宙の卵が、形成される以前は、すべての水が乾いていたのである。しかし天界の至高神《アンマ》は、その分身《ノンモ》(湿った水の神で、顕在的生命の指針であり、原理である)を造ったとき、彼が宇宙に与えた境界の外にある、天上界の自分の手もとに、この最初の水の半分をとっておいたので、「乾いた水」が残ったのである。同様にして、表現されない言葉、思想は「乾いた言葉」といわれる。それは潜在的価値しか持たず、子をもうけることはできない。人間の小宇宙にあって、それは本源的思想のレプリカであり、現在の人間の出現以前に、アンマから精霊《ユルグ》によって盗まれた「最初の言葉」である。D・ザーアンにとって(ZAHD)、「自意識なき未分化の言葉」であるこの最初の言葉は、無意識に対応する。それは、夢想の言葉であり、人間の自由にできない言葉である。ユルグの化身であるジャッカルまたは青いキツネは、最初の言葉を盗んだので、無意識の、不可視なものの、したがって未来の(未来は不可視の時間的構成要素にすぎない)鍵を持っている。ドゴン族の、最も重要な占いの体系が、この動物への問いかけに立脚するのは、このためなのである。
ユルグが、普遍的に無意識のシンボルである、冥界の火と月にも結びつけられることを記すのは興味深い(PAUC、ZAHD、GAND)。
あらゆる現象を2つの範疇(水と火とか、湿気と乾気といった、相対立するシンボルによって支配された2つの範疇)に分ける基本的区分の仕方は、アステカ族の葬儀にかかわる宗礼のうちに、顕著な例証を見出す。他方もろもろの事実の示すところによっても、《天地》は、本来1対なりという観念を伴った、この象徴的二元性のアナロジーは成り立つ。「溺れて死んだり、雷に撃たれて死んだ者、ハンセン病や痛風や水腫にかかって死んだ者のすべて、要するに水と雨の神がこの世から連れ去ることによって、いわば区別した者のすべて」は土葬にされた。それ以外の死者は、すべて火葬にされた(SOUA、231)。
〔ケルト〕 水と火のかかわりは、ケルト人の葬儀にも見出される。清めの水は、ドルイド憎が魔力を追い払うのに使ったもので、その水の中に、「供犠の火床から取り出した燃えさしの薪を入れて消した。ある家に死人が出ると、その家の戸口に、死人のまったくいない家から運んできた清めの水を一杯入れた大瓶を置いた。この家にお悔やみにきた者は、全員、家を出るときこの水を自分の体に振りかけた」(COLD、226)。
アイルランドのあらゆる原典で、水は、ドルイド僧に属する自然の基本要素とされ、彼らは、水を「縛(いまし)める」権利と、その縛めを「解く」権利を持っている。コーマク王の、悪いドルイド僧たちは、こうしてマンスターの水を縛め、そこの住人たちを、渇きによって服従させたし、またその水の縛めを解いたのもモグ・ルースというドルイド僧である。溺死刑は、不義を働いた詩人に適用される刑罰である。しかし水は、また、清めとしての価値により、〈受動的純粋性のシンボル〉である。水は、これに呪いを唱えて、預言を引き出す詩人たちにとっては、〈啓示の手段で場所〉である。ストラボンによれば、ドルイド僧たちは、世界の終末に(本源的要素である)水と火だけが支配するだろう、と確言した(LERD、74?76)。
〔ゲルマン〕 ゲルマン人の場合、全生命の祖となるのは、永遠なる氷の表面に、春最初に流れ出る水である。それというのは、この水が、《南》の風により生気を与えられ、集まって、生ける肉体、最初の巨人ユミルの肉体を形づくり、そこから他の巨人や人間、場合によっては神々までが生まれ出たからである。
〔ギリシア・創世神話〕 女性の、血祭としての水、淡水、湖水、淀んだ水と、海の、泡立った、豊餞化する、雄性の水といった具合に、へーシオドスの『神統記』では、入念に区別がなされている。大地(ガイア)は、初めに、「快楽を味わうことなく」、ボントスという「不毛の海」を産む。ついで、大地は、その息子ウラノスと交わって、「大きな深淵を持った大洋」をもうける。「大地は、情愛の助けを借りずに、波の荒れ狂う不毛の海を産んだ。だが次には、天との抱擁により、大地は、深い渦巻を持った大洋を産んだ」(へーシオドス『神統記』130-135)。不毛の水と豊饅な水の区別は、へシオドスの場合、愛の介在に関連づけて考えられている。
〔トルコ・バビロニア〕 生命を誕生させた大地の血祭としての淀んだ水も、多くの創造神話中に見られる。中央アジアのトルコのいくつかの伝承によると、水はウマの母である。バビロニアの宇宙発生論では、まだ天も地もなかった一切の始まりにおいて、「未分化の物質である原初の水だけが、ずっと昔から広がっていた。その塊から、アプスーとティアマートという2つの基本的原質が現れた……。アプスーは、男神とされ、大地を浮かべている淡水の塊を表す。……ティアマートの方は、海、塩水の淵に外ならず、そこから全被造物が出てきた」(SOUN、119)。
〔エジプト〕 同様に、水の中から顔を出した泥土の頂き、これがエジプト神話中に最も頻繁に見かける天地創造のイメージである。「原初の水から現れた大きなハス、これが最初の朝の太陽の揺りかごであった」(POSD、67、154)。
〔ドイツ・ロマン派〕 女性的、官能的、母性的なものとしてとらえた水を、みごとに歌ったのは、ドイツ・ロマン派の詩人たちである。その水は、夜の、月光にきらめく乳白色の湖水で、そこにリビドーが目覚める。「水という、空気の融解から生まれた、この最初の子供は、その享楽的な素姓を否認することができず、天の全能とともに、愛と結合の要素として、地上に現れる……。古代の賢者たちが、水のうちに万物の源を求めたのは誤りではない……。我々のあらゆる快感は、つまるところ、我々の内にあるこの本源の水の運動が、我々の内において、種々の流れ方を示す結果にすぎない。眠り自体、この見えざる宇宙の海の上げ潮に外ならず、目覚めはその引き潮の始まりにほかならない」(ノヴァーリス、NOVD、77)。そしてこの詩人は、「詩人たちだけが液体に関心を持つべきであろう」と結論を下す。
〔精神分析〕 大地とその住人に、豊饅をもたらす源という、水の古いシンボルから、魂に豊穣をもたらす源という、水の分析的シンボルへと、我々は立ち戻ることもできる。そこでは、川や海が、人間存在の歩みと、欲望や感情の変動を表すことになる。大地についてと同じく、水の象徴体系の場合も、表面と深部を区別してしかるべきである。航海ないし水面での主人公たちの彷捏が意味するところは、「彼らが人生の危険にさらされている」ことであり、「この危険を、神話は深みから現れる怪物によって象徴する。海中の領域は、こうして、潜在意識のシンボルとなる。退廃も、土の混じった水(地上的欲望)や、その浄化の特性をなくした淀んだ水(澱や泥土や泥沼)で象徴される。凍った水、氷は、最高度の淀みを、魂の熱気の欠如、愛という活力のある創造的な感情の不在を表す。つまり、凍結した水は、精神の完全な停滞、死んだ魂を象徴する」(DIES、38-39)。
水は、無意識のエネルギーと、魂の定かならざる原動力と、密かな未知の動機のシンボルである。夢の中で、かなりしばしば起こるのは、「釣りをしながら水辺に座って」いることである。「いまだ無意識な精神のシンボルである水が、魂の内容(釣人が水面に引き寄せようと努めており、やがて彼の心の糧となるはずの魂の内容)を閉じ込めているのである。魚は心的な動物である……」(AEPR、151;195)。
〔フランス・文学〕 ガストン・バシュラールは、明るい水、春の水、流れる水、恋情を起こさせる水、深い水、眠っている水、死んだ水、複合的水、淡水、荒々しい水、言葉を自由に使う水などに関して、精緻をきわめたヴァリエーションを描いたが、それらのことごとくが、この鏡のようにきらめくシンボルの持つさまざまな面を示している(BACE)。
「鏡というよりは微かな震……小休止にして愛撫、泡の合奏にかさなる、流れるような弓のパッセージ」(ポール・クローデル)。
〔現代・環境学〕 ジュール・グリティが、1976年に「情報・伝達研究センター」(CRIC)のために、水の浄化と再生のキャンペーンを準備する目的で行った調査は、都市と田園の住人のうちに、水の象徴体系が根強く生きていることを明らかにした。汚水は、腐臭や汚物や病気や死のように、嫌悪を催させる。「汚染は水のガンである」。全員が水を原初的な生命の基本要素と考えている。「命の泉であり……水がなければ、命もない……太陽と同じくらい不可欠な……生命の縮図」である。25歳以上の女性、とくに母親たちは、女性と水との間の、特殊な関係を感じている。調査書の著者は、次のように結論を下している。「基本的なンボルが……人間の心と想像力のうちに、集団の精神構造のうちに、根強く生きていることを、我々はもう1度確認する。技術化され、工業化された文明は、それがもたらす、欠乏と汚染によって、欲望と不安をかき立て、ものをいうさまざまなしるしへの欲求をも勢いづかせているのである」。
(『世界シンボル大事典』)
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