http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/water.html 【水(Water)〔Gr. u{dwr〕】より
古代ミーレートスの哲学者たちによれば、水は四大のうちの最初のもの、すなわちギリシア語でアルケーArchê (「万物の母」)と呼ばれるものであった[1]。水は「霊」を生んだが、霊は一般に男性原理と信じられていた。こういうわけでキリスト教徒が異教徒から取り入れた、洗礼による再生という観念は、水(女性)と霊(男性)の両方を必要としたのであった。洗礼盤は「子宮」、とくに「マリアの子宮」と呼ばれたが、マリアという名は古代のすべての「海の女神」の名であった[2]。たいていの神話は、創造の衝動が最初に生じた場所を、混沌として「無定形」な、子宮(生命の源)である海としているが、これは太母(ティアマート、カーリー、マ・ヌ、テミスなど)を表していた。こういう太母のイメージは実際には、胎児が経験し、生涯にわたって元型的なイメージとして意識下に記憶され続ける自他の区別(すなわち自己と母親との区別)の欠如に由来するものであった。母親Motherを表す文字M (Ma)は波を表す表意文字であった。
「神話学者たちが認めるところによれば、女性原理は、中世にキリスト教当局から受けたように、執拗な攻撃を受けると、静かに潜行することが多い。生命が生まれた水の中で、女性原理は男性支配の社会の潜在意識を泳ぎまわり、時折表面にぴょこんと顔を出しては、いまだに男性原理とは相容れないことを見てとる」[3]。
「水」と「母親」との間の照応関係は、母性原理が理論上抑圧されていた中世にあっても普遍的であって、錬金術師や他の「哲学者たち」は、霊魂を創造したのは神ではなく、母なる大地と母なる海であったと主張している[4]。女神を祀る神殿は例外なくと言っていいほど、井戸、泉、湖、海と関連をもっていた[5]。「湖上の貴婦人」とは、中世ドイツの吟遊詩人(ミンネジンガーMinnesinger)たちが崇拝した愛の女神ミンネMinne-アプロディーテーのことで、人魚として姿を現し、「水の性質」をもつと考えられていた。しばしば愛そのものの隠喩として水が用いられた。水と同じく愛は、茶碗状にくぼめた掌の中に入れるように、ゆったりと育む男のもとに留まった。しかし、固く握りしめようとする男からは、愛は流れ去って掌の中には何も残らなかった。そして水は愛と同じく、豊穣性や創造性という生命力には不可欠のものであった。水なくしては、物質界同様、精神界も不毛の砂漠、荒地Waste Landとなってしまうであろう。
water.jpg〔象徴・テーマ〕 水の持つ象徴的表意作用は、(1)生命の源、(2)浄化の手段、(3)再生の中心という、3つの主要なテーマに還元できる。これら3つのテーマは、最古の各伝承中に見出され、最も多様で、かつ、最も首尾一貫した、さまざまなイメージの組み合わせを形づくっている。
未分化な塊である水は、〈無数の可能性〉を表し、あらゆる潜在的なもの、非定形なもの、芽の中の芽、あらゆる発展の期待を含むとともに、あらゆる解消の徴候をも含んでいる。象徴的な死による場合は別として、水に完全には溶解せず、そこから、また出るために水の中に沈むことは、根源への回帰であり、潜在力の巨大なタンクである「源にかえって」、新たな力を汲み取ることである。この退行と崩壊の一時的位相は、次なる復帰と再生の漸進的位相の条件をなすものなのである(⇒入浴、洗礼、通過儀礼)。
『リグ・ヴェーダ』は、身体的な面でも、精神的な面でも、生命と力と純粋性をもたらす《水》を賛美する。
「活力を回復してくれる、汝、水よ、我らに力と、偉大さと、喜びと、幻視を得さしめよ!
……不思議の国の王にして吾ら民衆の支配者たる、水よ!……汝、水よ、薬には
なる効能を与えたまえ、薬が わが肉体を守る鎧となり、かくして我に永遠に太陽を拝ませたまえ!……汝、水よ、我のおかせしすべての罪、我の働きしすべての科、 我の立てし偽りの誓い、 これらは流し去りたまえ」(ジャン・ヴアレンヌ仏訳より、VEDV、137)
これらの本質的テーマをめぐる種々の文化によるヴァリエーションは、我々が、ほとんど同一の基盤に立って、水の象徴体系の持つ広がりとニュアンスの違いをよりよく理解し、究明するのを助けてくれるであろう。
〔アジア〕 アジアでは、水は、発現の「実体的」形相であり、生命の源で身体的・精神的再生の基本要素であり、肥沃のシンボルで純粋性、知恵、恩寵、徳性のシンボルでもある。流動的なるがゆえに、水は「溶解」を目指すが、また均質的なるがゆえに、凝集、「凝固」をも目指す。かくして水は〈サットヴァ〉(純質、慈悲と善の特性)に呼応することも可能であるが、また下方、「深淵」へと流れるがゆえに、その性向は〈タマス〉(膠質、暗黒の特性)ともなり、さらには水平に広がるがゆえに、その性向は〈ラジャス〉(激質、情熱の特性)ともなりうる。
水は、〈第一質料〉であり、〈プラクリテイ〉(根本原理)である。ヒンズー教のテキストが「一切は水であった」と語れば、道教のテキストも「広大な水には辺際がなかった」という。《世界の卵》である〈ブラフマーンダ〉(ブラフマーの卵)は、《水》の表面で孵化される。同様に、『創世記』においても、「神の霊である創造の息吹は水のおもてを覆っている」。中国人は、水は〈無極〉だというが、これは〈極限の無い〉ことで混沌、最初の不分明である。《水》は、発現の可能性の全体性を表すが、「非定形の」可能性に対応する「天の水」と、「定形的」可能性に対応する《地の水》とに分けられる。この二元性を、『エノク』は性的対比として表現することになるし、イコノグラフィーはしばしば二重の螺旋によって表す。地の水は〈ナーガ〉(ヘビの意で半人半蛇の水と雨の精)の王に捧げられたラサの寺院内に閉じ込められているという。非定形の可能性は、インドでは、アプサラ(天界の水の精)によって表される。原初の水、始原の大洋といった観念は、ほとんど普遍的である。それはポリネシアにまで見出される。オーストロアジア(アジア南東部)の大部分の民族は、水の中に宇宙の原動力を位置づける。そこには、水に潜る動物の神話が付け加わることがしばしばで、たとえば、ヒンズー教のイノシシは、わずかの土を水面に持ち帰り、これが定形的発現の「胚」の誕生となる。
水は、全生命の源で、また運搬手段でもある。というのも、樹液は水だからである。タントラ教の若干のアレゴリーでは、水は、生の息吹である〈プラーナ〉(呼気)を象徴する。「身体的な」面では、水が天の恵みでもあるので、それは豊餞と肥沃の普遍的シンボルである。「天の水が籾米を作る」と南ヴェトナムの山岳民族はいう。それに彼らは、水の再生機能にも大変敏感で、彼らにとって、水は薬であり、不死の飲み物でもある。
同様に水は、一般的に、祭式の清めの手段となる。イスラムから日本にいたるまで、(「神に供えた水を司る」)道士の〈符水〉という古来の祭式や、キリスト教徒の聖水撒布も含めて、洗浄が本質的な役割を果たしている。インドと東南アジアでは、聖像(と信者)の(とくに正月の)洗浄は、清めと、再生の儀式である。「水の本性が自然を清浄にいたらしむ」と文子は書いている。水は「至高の徳」の表象である、と老子は教えている(『道徳経』8章)。水は、また、道教的知恵のシンボルであるが、それは「水が決してあらがわない」からである。水は、自在で執着せず、地勢の傾きに応じて流れて行く。水は中庸である。というのも、強過ぎる酒は(たとえ知をもたらす洒であろうとも)水で割らなければならないからである。
水は、火の逆で、〈陰〉である。水は北と、寒気と、冬至と、腰と、黒色と、八卦の1つ〈吹(だ)〉(「深み」のこと)に対応する。しかし、また一方で、水は雷にも結びつくが、これは火である。ところで中国の錬金術師たちのいう「水への還元」を、本源、胚の状態への回帰と考えることが許されるならば、「水」は火だということができ、錬金術上の「洗浄」とは、火による清めと理解すべきだということもできる。中国人の内的な錬金術では、「沐浴」と「洗准」も、「火の」本性に属する活動といえるかもしれない。錬金術の水銀は「水」であるが、これもときに「火の水」と呼ばれることがある。
チベット人が、通過儀礼の祭式に用いる水は、志願者の祈願と誓約のシンボルであることも記しておこう。
外見上の魅力に触れるだけなら、ヴイクトール・セガランの美しい詩句を引用しよう。「ぼくの恋人は、水の美点をいくつも持っている。朗らかな微笑み、なめらかな身ごなし、一滴一滴、清水をふり注ぐような、澄んだ歌声……」(『ステラ』)(BENA、CORT、DAMS、DAVL、PHIL、GOVM、GRIE、GRIF、HUMU、JILH、LIOT、MUTT、SAIR、SCHG、SOUN)。
《水》へのヴェーダの祈りも、さまざまなシンボルの形で表現されるが、この祈りは、《水》が生気を与えることのできる、存在の物心両面にわたる、あらゆるレベルにかかわるものと理解しなければならない。
「おお、豊かなる水よ、汝は豪奢を支配し、恵み深い意志と 不死とを保持し、
すぐれた繁栄をもたらす 富の王、 歌人に あの若い力を お授け下さる富の王ゆえに、
サラスヴァティー川よ」(『アシュヴァラヤナ・ストランタスートラ』4、13;VEDV、270)
〔キリスト教・ユダヤ教〕 ユダヤ教とキリスト教の伝承では、水は、まず創造の起源を象徴する。ヘブライ語の〈メム〉(M)の字は、感覚を持った水を象徴する。それは、母にして子宮である。万物の源である水は、超越的なるものを示し、このことから、水は、「神聖なる顕現」とみなさなければならない。
しかしながら、水も、他のすべてのシンボルと同様に、正反対の(しかも互いに還元し合えぬわけではない)2つの面において検討することができる。しかも、こうした両義性は、あらゆるレベルにおいて見られる。水は生命の源で死の源であり、創造的で破壊的なのである。
聖書において、砂漠の中の井戸、遊牧民の前に現れる泉は、ことごとく喜びと驚嘆の場所である。泉と井戸のほとりで、非常に重要な出会いがあり、神聖な場所として、水源は比類のない役割を果たしている。水源の傍らに、愛が生まれ、結婚が始まる。ヘブライ人たちの歩みも、現世で巡礼をする人々の足取りも、水との外的ないし内的な接触と固く結びついて、水は〈平安と光明の中心〉となり、〈オアシス〉となる。
パレスティナは、急流と泉の地であり、エルサレムはシロアム(池)の穏やかな水にうるおっている。川は、神に発する〈肥沃化〉の代行者であり、雨と露は、その豊餞さをもたらして、神の好意を示す。水がなければ、遊牧民は直ちに死を宣告され、パレスティナの太陽に焼き殺されてしまう。こうして、遊牧民が、旅の途上でめぐりあう水は、マナ(天上の飲物)にも比較しうる。水は、彼の渇きを癒して、彼に命の糧を与えるのである。だから、水は、祈りによって求められ、祈願の対象ともなる。神が、その僕の叫びを聞き入れれば、神は、にわか雨をおくり届け、井戸と泉に出会させる。来客の歓待には、冷たい水が客に供され、休息の平安が保証されるよう、客の足が洗われなければならない。旧約聖書の全篇が、水の壮麗さをたたえている。新約聖書は、この遺産を受け継ぎ、これを利用するすべを知ることになる。
ヤハウェは、春の雨にたとえられ(『ホセア』6、3)、花々に発育をもたらす露にたとえられ(『ホセア』14、6)、山から流れ下る冷水、大地をうるおす急流にもたとえられる。義人は、流れる水のほとりに植えられた木に似ている(『民数記』24、6)。したがって、水は、〈祝別〉のしるしのように見える。だが、その祝別が、まさしく神に発している点を認めるべきである。『エレミヤ』2、13によれば、無信仰のうちにあったイスラエルの民は、ヤハウェを軽蔑し、その約束を忘れ、ヤハウェを生ける水の源とみなすことを止めて、自分で水ためを掘ろうとした。だが、この水ためは、こわれた水ためで、水を入れておくことができなかった。エレミヤは、イスラエルの民の、生ける水の源である、神に対する態度を非難し、次のようにいって嘆く。「彼らは自分の地を荒野と化すであろう」(18、16)。他国との同盟は、ナイルとユーフラテスの水にたとえられる(2、18)。渇いたシカが、生ける水の在りかを求めるように、魂は、その神を求める(『詩篇』42、2-3)。こうして、魂は、水に向かう、乾燥して喉の渇いた大地のように見える。魂が神の示現を待望するのは、乾燥し切った大地が雨にうたれるのを切望するのと同様である(『申命記』32、2)。地中海世界最古の基層に由来する、このシンボリズムは、やがて詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカに、その悲劇『イェルマ』(1934)――イェルマは、砂漠が雨不足で不毛(イェルモ)のように、男日照りのため不妊の女――の中で、まったく同様の骨組みを提供することになる。
東洋人が、水をまず〈祝別〉のしるし、シンボルとみなしたのは、まったく当然である。というのも生命を可能にするのは水だからである。イザヤは、新しい時代の到来を預言するとき、「荒野に水がわきいで……かわいた地は水の源となろう」(『イザヤ』35、6?7)という。『黙示録』の預言者も、別のことを語りはしない。「小羊が……彼らを命の水の泉に導いて下さるであろう」(『黙示録』7、17)。
水は、ヤハウェによって大地に与えられるが、もっと神秘的な別の水もある。この水は〈知恵〉に属するが、その知恵とは、天地創造の際、水の形成を司った知恵である(『ヨブ』28、25-26;『簾言』3、20;8、22、24、28-29:『シラ』1、2-4)。賢者の心の中に、水は在る。その心は、井戸と泉に似ており(『箴言』20、5;『シラ』21、13)、その言葉は急流の力を持っている(『蔵言』18、4)。知恵のない者はといえば、こわれた瓶に似たその心が、知識をもらしてしまう(『シラ』21、14)。ベン・シラは、モーセ五書(《律法》)を《知恵》にたとえるが、それは、五書が《知恵》の水をまき散らすからである。教父たちは、聖霊を、渇いた心に注がれる知恵の贈り主と考えた。中世の神学も、このテーマに同一の意味を与えて表現した。こうして、サン・ヴィクトールのフーゴにとって、《知恵》はその水を有し、魂は《知恵》の水によって洗われることとなる。
水は〈霊的生活〉と《霊》(これらは神によって与えられ、人間によってしばしば拒否される)のシンボルとなる。
イエスは、サマリヤの女との会話の中で、このシンボリズムを踏襲する。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないであろう。……わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(『ヨハネ』4、14)。
旧約聖書において、何にもまして生命のシンボルであった水は、新約聖書において《霊》のシンボルとなった(『黙示録』21)。
イエス・キリストは、サマリヤ女に対して、生ける水の持ち主として現れる(『ヨハネ』4、10)。彼は泉である。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」(『ヨハネ』7、37-38)。水は、あたかもモーセの岩から出たように、イエスの胸から湧き出で、さらに十字架上では、槍が、彼の切り開かれた脇腹から水と血を流させるであろう。生ける水が流れ出るのは、父なる神からであるが、生ける水が伝わるのは、キリストの人性によってであり、言い換えれば聖霊(聖霊降臨祭の聖歌の原典によれば、〈生ける水の泉〉にして〈愛の火〉であり〈至高の神の賜〉である聖霊)の賜によってである。聖アタナシオスは、この教理の意味を、次のように明らかにしている。「御父は水源にして、御子は川と呼ばれ、我々は聖霊を飲むのだといえる」(『セラピオーンに』1、19)。したがって、水は、〈永遠性〉の意味をおび、この生ける水を飲む者は、すでに永遠の命を共有しているのである(『ヨハネ』4、13?14)。
生ける水、命の水は、宇宙発生論上のシンボルとして現れる。水が永遠なるものに通じるのは、それが浄め、癒し、若返らせるからである。ニュッサのグレゴリオスによれば、井戸は、淀んだ水を保っている。「しかし浄配(キリスト)の井戸は、生ける水の井戸である。それは井戸の深みと川の流動性を持っている」。このことは上で引用したロルカのテキストとも関係がなくはない。
テルトゥリアヌスによれば、神の《霊》は、種々の要素の中から水を選ぶが、とくに水が好まれるのは、水が初めから豊穣で単純な、まったく透明の、完全なる物質と思われるからである(『洗礼論』3)。水は、それ自体で浄化する効力を持ち、だからこそ、神聖視される。そこから、祭式における洗浄で、水が用いられることになる。その効力によって、水は、あらゆる違犯とけがれを拭い去る。罪を洗い落とすのは、洗礼の水だけで、この水は、1度しか授けられないが、それは、この水が、別の状態、つまり生まれ変わった新しい人間の状態に達せしめるからである。この古い人間の廃棄、というよりも歴史の一契機の死は、大洪水にたとえられるが、それは、大洪水が、消滅、消去を象徴するからである。つまり1つの時代が消失して、別の時代が現れるのである。
水は、浄化する効力を持つが、その上、救世論上の力をも行使するであろう。潜水は、再生力を持ち、水は、復活に作用を及ぼすが、それは、水が、死にして同時に生であるという意味においてである。水は、歴史を拭い去るが、それは水が存在を新たな状態に復元するからである。潜水がキリストの埋葬にたとえられるのは、キリストが地の底への降下の後に、よみがえるからである。水が再生のシンボルであるのは、洗礼の水が明らかに「新生」に通じ(『ヨハネ』3、3-7)、「先導する」ものだからである。ヘルマスの〈牧者〉は、「死の水の中へ降りた後、そこから生きて上がってきた」者たちについて語っている。これは「生ける水」のシンボリズムであり、「青春の泉」のシンボリズムである。カッリストゥスによればアンティオキアのイグナティオスは、私がおのれの内に持つのは、「作用を及ぼし、話す水である」といった。デルポイのカスタリアの泉が、ビュティアにインスピレーションを与えたことも、思い出されるであろう。命の水は、神の《恩寵》なのである。
礼拝は、とかく泉のまわりに集中される。すべての巡礼地には、水源と泉が含まれている。水は、その特効のゆえに、癒すことができる。何世紀もの間、教会は、水への崇拝に反対して幾度も立ち上がった。民間信仰は、いつも水を、神聖な、また神聖化する価値とみなしたのである。しかし異教的な逸脱と迷信への回帰の危険が、いつも迫ってきていた。魔術的なものが神聖なものの隙をうかがって、人間の想像力の中で、これを歪めようとするからである。
水が創造に先立つものなら、また再創造のために存在することも、きわめて明白である。新しい人間には、別の世界の出現が対応するのである。
ある場合に、我々が上ですでに述べた通り、水は、死をもたらすことがある。「大水」は、聖書の中で試練を告げている。水の猛威は、大災害のシンボルである。
「……的を外さぬ矢の如く、稲妻が走り、つよく引き絞った弓のように、大雲が標的をめがけて飛び、 弩砲は憤怒に充ちた 雹を投げつけるであろう。 海の波涛は彼らに向かって荒れ狂い、 川も彼らを情け容赦なく飲み込み、 全能の息吹は彼らに向かって 吹きつけ、ハリケーンのように 彼らを吹きとばすであろう……」(『知恵の書』5、21-23)
水は、激流となってすべてを飲み込み、災害をもたらし、疾風は、花ざかりのブドウ畑を破壊する。こうして、水は、災いをもたらすこともある。この場合、水は、罪びとを罰するが、義人に打撃を与えることはできないから、彼らは「大水」を恐れるには当たらない。「死の水」は、罪びとにしかかかわりを持たず、義人にとっては、「命の水」に変わるのである。火と同様、水も神明裁判の役を果たしうる。投げ捨てられた者は裁かれるが、水が裁くのではない。
上下の二元性のシンボルとして、雨水と海水がある。雨水は真水で、海水は塩分を含む。生命のシンボルは、〈清い〉水の方で、こちらは創造的で浄化力を持つ(『エゼキエル』36、25)。〈苦い〉水は、呪いをもたらす(『民数記』5、18)。川は幸いをもたらす水流であることもあるが、また怪物に庇護を与えることもある。荒れ狂う水は災いと無秩序を意味する。
悪人は荒れ狂う海にたとえられる……(『イザヤ』57、20)。「神よ、わたしをお救いください。大水が流れ来て、わたしの魂にまで達しました。わたしは泥の中に沈みます……」(『詩篇』69、1-2)。
穏やかな水は、平安と秩序を意味する(『詩篇』23、2)。ユダヤの民間伝承では、神が天地創造の際に行った、天の水と地の水との分離は、安心と不安、男性と女性を象徴する、雄性の水と雌性の水との分割を示す。そしてこれは、我々がすでに述べたように、宇宙のシンボリズムと軌を一にするものである。
大洋の苦い水は心の苦痛を示す。サン・ヴィクトールのリカルドゥスは、次のようにいうであろう。人間は、自分自身の悲惨に気づくとき、苦い水を越えなければならない。この「聖なる苦さ」が、やがて喜びに変わるのである(『人間の内的状態について』1、10;V196、124)。
〔イスラム〕 イスラムの伝承でも、水はたくさんの実在を象徴する。
コーランは、天から降ってくる「聖水」を、神の〈しるし〉の1つとして示す。楽園の《庭》には、生ける水の流れる小川と泉がある(『コーラン』2、25;88、12など)。人間自体、「ふき出す水(精液)」から創られた(『コーラン』86、6)。
「神よ!天と地とを創られたのは 神なり また神は天より水を降らせ その恵みで神は果実を生えさせる 汝らの糧として」(『コーラン』14、32;2、164)
無信仰者の行いも、渇いた者の眼には水と映る。しかしそれは、蜃気楼にすぎない。その行いは、深海の暗闇の水に似て、絶えず大波が押し寄せてきて覆い隠す(『コーラン』24、39?40)。「現世の命」は、風に吹きとばされる水にたとえられる(『コーラン』18、45)。
イブン・アルアラビーの《(英知の)台座》についての注釈の中で、ルーミーは神の《玉座》をのせている水を(『コーラン』11、9)、《慈悲深き神の息吹》と同一視している。「永遠なる神の顕現」について語る際に、ルーミーは「海が泡で覆われ、泡の1粒1粒から、何かが形を成し、何かが具現した」という(《詩集》)。
ジーリーは、宇宙を氷で象徴するが、氷の実体は水である。水が、ここでは〈第一質料〉である。
より形而上的な意味において、ルーミーは宇宙の神的な《土台》を大洋によって象徴するが、その《水》は神的な《本質》である。水は全創造を全うし、波が被造物である。
その上、水は〈純粋性〉を象徴し、清めの手段としても用いられる。イスラムの祭式における祈り、〈サラート〉(礼拝)は、礼拝者が、その様式を細かく規律で決められた洗浄によって、宗儀的純粋性の状態に置かれて、初めて有効になしうるのである。
最後に水は〈命〉を象徴する。命の水は、闇の中に見出され、死んだものを再生させる。2つの海の出逢う所に投げ出されていた魚は、《洞窟のスーラ(章)》で(『コーラン』18、61;18、63)、水に浸けると生き返る。このシンボリズムは、不死の《泉》での沐浴という、通過儀礼上のテーマの一部もなしている。このテーマは、イスラム神秘主義の伝承、とくにイランにおいて、たえず繰り返される。アレクサンドロス大王に関する伝説の中で、大王は、アンドラスという料理人をつれて、《命の泉》を求めて旅に出るが、ある日のこと、その料理人が、塩漬けの魚をある泉で洗うと、魚が生き返ったのを見て、料理人は、自分でも不死を手に入れる。この泉は、〈闇の国〉にあるが、この国はおそらく雌性で〈陰〉である無意識のシンボリズムに対比すべきものであろう。
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