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【与謝蕪村とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や俳句、作品についても紹介】】より
与謝蕪村(よさぶそん)は、江戸時代中期、1716年~1784年に活躍した俳人・画家です。摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪府都島区)に生まれ、江戸で俳諧を学びました。
松尾芭蕉(1644年~1694年)亡き後、蕉風俳諧は衰退してしまうのですが、そこに現れ、写実的で抒情性のある絵画的な作風で当時の俳壇をリードしたことから「江戸俳諧の中興の祖」とも呼ばれています。
与謝蕪村
蕪村は、単に俳諧で有名になっただけではなく、画家としても名を馳せています。松尾芭蕉や小林一茶など、江戸時代の有名俳人の中では異色の存在です。俳諧発句と、独学で習得した絵画を融合し、「俳画」という独自の芸術を確立させたことでも知られています。
与謝蕪村ってどんな人?
名前 与謝蕪村(谷村信章)
誕生日 1716年(享保元年)
生地 摂津国東成郡毛馬村
没日 1784年12月25日(天明3年)
享年68歳
没地 自宅(現在の京都府京都市下京区仏光寺通烏丸西入ル)
配偶者 とも
埋葬場所 金福寺(京都市左京区一乗寺)
旅に生き、俳句に人生を捧げた与謝蕪村の生涯をハイライト
1716年、摂津国毛馬村(現在の大阪市都島区)に生まれた蕪村は、20歳(17歳とする説もあり)で故郷を離れ、早野巴人(はやの はじん)という俳諧師に弟子入りしました。この早野巴人は、松尾芭蕉の孫弟子にあたる人で、自然と蕪村も芭蕉を尊敬するようになりました。また、同時並行で絵の修行も始めています。
1742年に巴人が亡くなると、蕪村は放浪の旅に出ます。東北を旅して芭蕉の足跡を辿ったり、巴人の故郷・宇都宮に立ち寄ったり、放浪期間はおよそ10年にも及びました。1754年に母の故郷である丹後の与謝に着き、3年後にここに家を構えました。
1760年には45歳にして結婚し、京での活動に本腰を入れ始めます。画業でも名を知られるようになり、「山水図屏風」「蘇鉄図」など有名な作品を残しています。また、1770年には俳諧の師匠であった巴人の流派「夜半亭」を継ぎました。
池大雅との共作「十便十宜図」などの画業や、連作詩『春風馬堤曲』の発表など蕪村は最後まで精力的に活動しました。1783年12月25日に68歳で亡くなっています。亡くなってから100年以上忘れられた存在だったのですが、明治時代に再評価されました。
放浪の日々を送った蕪村の前半生
蕪村の幼少時代は、謎に包まれています。蕪村の生家は、富農ないし庄屋階級と伝えられており、そうした暮らしの中で書画や漢詩、俳諧といった文化的素養を得る機会があったとも言われています。
江戸に出た蕪村は、夜半亭を主宰する早野巴人に師事します。巴人が亡くなると、蕪村は同門の兄弟子であった砂岡雁宕を頼り、下総国結城へ移ります。その後、約10年にわたり、松島・象潟を中心に奥羽一円におよぶ放浪生活を送りました。
その過程で、1744年に宇都宮において、はじめて俳号として「蕪村」を名乗り、歳旦帳を著すなど俳諧宗匠へむけた歩みをはじめました。芭蕉の「おくのほそ道」が半年余りであったことと比べても、おそるべき長期の放浪生活ですが、この時期に画俳両道の基礎を固めたとみることができます。
蕪村の肩書き「文人」とは?
書や水墨画など「風雅」を重んじた人々
与謝蕪村について説明するとき、「文人」という言葉が使われることがあります。「文人」とは中国から伝わってきた概念で、「風雅なことを大切にして、アマチュアとして複数の分野の芸術を極めている人」を指します。「風雅」とは、高尚でみやびなことという意味のほか、詩や書画、茶道などに通じていることという意味もあります。
蕪村は俳諧と書画の世界でトップクラスの功績を残しました。その意味では「アマチュア」とは呼べないかもしれないのですが、2つの領域にまたがって活躍したということで一般的に「文人」とされています。
さらに、その文人が書いた水墨画や淡彩画のことを「文人画」と呼びます。日本で「文人画」というと「南画」と同じものを指します。中国から伝わってきた「南宗画」に日本的解釈を施した美術様式で、蕪村が流派確立の立役者となりました。
松尾芭蕉を尊敬してやまなかった蕪村
江戸時代中期の俳諧は、どうなっていたのでしょうか。芭蕉の亡くなった後、芭蕉の名とともに蕉風俳句は全国的に広がりました。けれども、時が経つにつれ廃れてゆきます。
芭蕉を尊敬してやまない蕪村にとって、このことは決して他人事ではなかったはでしょう。それは芭蕉を慕って奥羽を歩いたり、たくさんの芭蕉像を描いたことからも明らかです。
1766年、蕪村は、俳諧復興の志を同じくする太祇や召波らとともに三菓社を結んで句会を開催し、次々と名句を詠んでいきます。それは紛れもなく「蕉風回帰」という、蕪村のライフワークでした。
蕪村らのこうした取り組みは、当時の俳句界の時流となり、多くの俳人が立ち上がりました。この動きは「中興俳諧」とも呼ばれています。ただ結果的には、蕉風そのものというよりも、「天明調」と呼ばれる新しい境地が開かれました。
岩くらの狂女恋せよほととぎす
蕪村の句は写実的であると言われます。代表的な句集として、蕪村七部集(「其雪影」「あけ烏」「一夜四歌仙」「桃李」「続明烏」「五車反古」「花鳥編」)を著しています。
よく知られている句を解説してみます。
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
意味:春の海には波がゆるやかに揺れ、1日中のたりのたりと寄せては返す。
菜の花や月は東に日は西に
意味:夕暮れ、見渡す限り一面の菜の花畑。ふと顔を上げると東の方から月が昇ってきた。西の海には陽が沈もうとしている。
このように、与謝蕪村の句は絵画としてイメージしやすいのが特徴です。そのほかの句も挙げておくので、ぜひ情景を想像してみてください。
秋かぜのうごかして行案山子哉 夏河を越すうれしさよ手に草履
月天心貧しき町を通りけり 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
易水(えきすい)に葱(ねぶか)流るる寒哉 埋火(うずめび)や我かくれ家も雪の中
日の光今朝や鰯のかしらより さみだれや大河を前に家二軒
逢ぬ恋おもひ切ル夜やふくと汁 花に来て花にいねぶるいとまかな
公達に狐化けたり宵の春
国宝や重要文化財にもなっている蕪村の文人画
蕪村の描いた絵は、ジャンルとしては文人画(南画)というものにあたります。文人画とは中国から伝わったもので、職業画家の絵ではなく、文人が描いた絵という意味です。画家としての蕪村には、どのような特色があるのでしょう。
1つは、芭蕉への尊敬を表した作品群です。芭蕉の句集に絵をつけ、図巻や屏風、画巻にしています。次の4つが有名です。
奥の細道図巻(京都国立博物館)
野ざらし紀行図(個人蔵)
奥の細道図屏風(山形美術館)
奥の細道画巻(逸翁美術館)
また、蕪村の画家としての名を揺るぎないものとした作品も多くあります。
十便十宜図(川端康成記念会蔵、国宝)
池大雅との競作(十便図を池大雅、十宜図を蕪村が描いています。)なお、十便十宜とは、清の劇作家である李漁が、田舎暮らしの不便さを問われ、反対に十便(10の便利なこと)と十宜(10の良いこと)を詩をもって答えた故事に由来しています。
十便十宜図「宜暁」
蘇鉄図(香川・妙法寺、重要文化財)
蕪村が讃岐国(現在の香川県)逗留中、世話になった縁で描いたものです。
蘇鉄図
山野行楽図(東京国立博物館、重要文化財)
月の浮かぶ山野を、のんびりと旅する人々を描いた屏風です。馬に乗る人は馬に任せて、童子に導かれる老人は、導かれるままに。
山野行楽図屏風
竹溪訪隠図(個人蔵、重要文化財)
下界の竹林と渓流を越えて、男が山中に住まう高士を訪ねようとしています。背後の峻険な山々からは、鳥の囀りが聞こえてきそうです。
竹渓訪隠図(部分)
峨嵋露頂図(法人蔵、重要文化財)
ごつごつとした岩肌は、その温度感まで伝わるようです。墨の塗り残しによって表現される月と、うっすらとした墨により描かれる空はその空気を匂わせているかのようです。
峨嵋露頂図(部分)
鳶烏図(京都北村美術館、重要文化財)
いままさに飛びたたんとする鳶、寒さに身を寄せ合いながら枝にしがみつくつがいの鴉が描かれています。
鳶烏図
夜色楼台図(個人蔵、国宝)
雪降る夜の都会の風景を描いたもので、空に舞う雪の一片やうかぶ雪雲の濃淡まで繊細に描かれています。
夜色楼台図(部分)
富嶽列松図(愛知県美術館、重要文化財)
まず目を引くのは、真っ白な富士の姿です。その手前には、くっきりと浮かび上がる松林。また、左翼やや奥まった位置にある松林が、手前の松林とは対照的に、光の中でやわらかく配されています。
富嶽列松図
死後100年以上忘れ去られた蕪村
蕪村を評価した正岡子規
与謝蕪村は亡くなった後、百数十年間は忘れられた存在となっていました。忘れられていた彼にスポットライトを当てたのが明治時代の俳人・正岡子規です。
子規は、短歌や俳句の方法論として「写生説」を唱えていました。対象をありのままに写し取った短歌や俳句が素晴らしいとするこの説に引っ張り出されたのが蕪村の俳句です。客観的で絵画のような情景が思い起こされる蕪村の俳句を、子規は高く評価しました。
萩原朔太郎は蕪村の「郷愁」を評価した
もう1人、蕪村を評価したのは「日本近代詩の父」とも呼ばれる詩人・萩原朔太郎です。彼は「郷愁の詩人 与謝蕪村」という文章で、蕪村の俳句の根底にある「郷愁の情」を指摘しました。ノスタルジックで故郷が恋しくなるようなロマン性があるとして、高く評価しています。
与謝蕪村の功績
功績1「江戸時代3大俳人の1人」
松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ偉大な俳人
与謝蕪村は江戸時代初期の松尾芭蕉、後期の小林一茶と並ぶ3大俳人の1人といわれています。蕪村は江戸時代の中期に活躍した人物なので、芭蕉と一茶の中間にあたります。3人はそれぞれに特色ある俳句を詠んでいて、その違いを楽しむのも面白いです。
芭蕉は普段使われていたようなシンプルな言葉で、静かで儚い「幽玄」「閑寂」の境地を句にしたためました。蕪村は芭蕉に憧れ、芭蕉の流派である「蕉風」の復活を目指して活動していました。結果的に芭蕉の句とはまた違った、漢語や雅語など普段使われない言葉も使って絵としてイメージしやすい句を多く作っています。
小林一茶は俗語のほかに方言も使い、人間味にあふれた心を自由に詠みました。このようにそれぞれの流派の特徴を押さえておくと、現代の俳人の句を読んだときにも3大俳人のうち誰の影響を受けていそうか推測できるので、俳句を読むのが面白くなります。
功績2「文人画(南画)を確立」
南荘の画家・夏珪の作品
与謝蕪村は文人画(南画)を確立したことでも知られています。文人画は中国から伝わってきた美術様式ですが、蕪村の文人画は中国のそれとはまた違ったものです。日本の文人画は日本人の心情にマッチするように解釈されていて、だからこそ18世紀から19世紀にかけて花開いたのだと考えられます。
中国の文人画には、中国という土地がもつ壮大な自然の厳しさがよく表れています。日本の自然とはまた違った魅力がありますが、少し日本人には壮大すぎると感じられたのでしょう。蕪村の文人画には、彼が俳句でも大事にしていた日本的な「みやび」が表現されています。
功績3「新ジャンル『俳画』の開拓」
負けてこそ人にこそあれ相撲取(大江丸)
俳画とは、シンプルな線で描かれた絵に俳句を添えたものです。実際は与謝蕪村以前にも俳画を描いた人々はいましたし、彼が尊敬していた松尾芭蕉やその弟子たちも多く描いています。けれども、俳画を1つの芸術にまで高めたのは蕪村だと考えられています。
俳画は自分の句に絵をつける場合もあれば、他の俳人の句を題材にする場合もあります。上の画像「負けてこそ人にこそあれ相撲取」は、安井大江丸という俳人の詠んだ句に蕪村が絵をつけたものです。さらさらっと描いたような筆致が、力が抜けていてどこか可愛らしい絵になっています。
与謝蕪村にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「出生・故郷に関する謎」
京都府与謝野町
蕪村の最大の謎は、その出自です。蕪村幼少期の家庭環境や家族構成、なぜ故郷を捨て江戸に出たのか、なぜ一度も毛馬村に帰郷しなかったのかといった疑問が湧きます。
こうした点について、蕪村は誰にも語らなかったと見られています。まるで自ら幼少期を闇に葬ったかのようでもあります。
「与謝」は、母の故郷である丹後の地名から名乗ったといわれていて、母を慕っていたことは確かです。
夏川を越すうれしさよ手に草鞋
丹後で詠んだとされるこの句には、母への暮情が込められています。
蕪村の幼少期に、その母を喪う事件があったのではないでしょうか。そのショックが蕪村から語るべき言葉を奪ったのかもしれません…。蕪村の人生冒頭は、ミステリアスなベールに包まれています。
都市伝説・武勇伝2「妻子があるのに、禁断の恋」
禁断の恋をしていた蕪村
「英雄、色を好む」とはよく言われることですが、蕪村も例外ではなかったようです。60代も半ばを過ぎた蕪村には、小糸という愛人がありました。小糸は京の芸妓だったといわれています。
蕪村は、妻子ある身でありながら、その愛人にうつつを抜かし、嵐山で遊んだり、芝居見物に出かけたりと奔放な老いらくの恋を楽しんでいました。
ちなみに、蕪村45歳の年に娶ったの妻ともは、経歴不詳の人ながら、蕪村からみて娘ほどの年頃だったと言われています。蕪村60代半ばと言えば、愛娘くのも成人していた頃です。妻と娘は、蕪村のこうした行動をどう見ていたのでしょう。
見るに見かねた周囲の人々の忠告もあり、1783年には小糸との関係を断ち切りました。その際も未練たらたらだった蕪村は、俳諧の諧つまり諧謔を地でゆく人だったのです。
与謝蕪村の年表を簡単にまとめると?
1716年
蕪村、毛馬村に生を受ける
1716(享保元)年、蕪村は摂津国東成郡毛馬村に誕生しました。生家は、庄屋や村長といった村の有力者と言われていますが、詳しくは分かっていません。
10代のうちに両親と土地屋敷まで失った蕪村は、20歳(※ )になると毛馬村を離れ、江戸に出ています。そこに至る経緯は、謎に包まれています。
※ 江戸に出た年については、17歳頃とする説もあります。
1737年
夜半亭・修行時代
江戸に出た蕪村は日本橋石町に住まいました。
22歳の頃、夜半亭を主宰していた早野巴人(宋阿)という俳諧師に師事して俳諧を学ぶようになります。巴人は、芭蕉の弟子であった其角・嵐雪に学んだ人で、芭蕉の孫弟子にあたります。
巴人の元で俳諧を詠む蕪村(当時は宰町という俳号を使っていました)の句は、巴人の著した「夜半亭歳旦帳」や「芭蕉句選」に収録されています。
1742年6月、夜半亭宋阿(早野巴人)が死去します(享年67歳)。夜半亭は解散となり、蕪村は師の死を悼みながら、兄弟子の砂岡雁宕を頼り下総国結城に移りました。以後10年に及ぶ放浪生活が始まったのです。
なお、1744年に宇都宮で著した「寛保四年歳旦帳」においてはじめて「蕪村」の俳号が用いられました。宇都宮は、師であった夜半亭宋阿の故郷でした。
1757年
1757年、蕪村はついに、長きにわたる放浪生活に終止符を打ち、京に屋敷を構え定住することになります。
それに先立つこと3年。1574年には、母の故郷である丹後国与謝を訪れ、見性寺というお寺に3年間寄寓しています。母の若かりし日に見上げたであろう空に格別の感慨があったことでしょう。
1760年には、蕪村45歳にして妻ともを娶ります。与謝の姓を名乗りはじめたのもこの頃とされます。毛馬ではなく、与謝。蕪村は己の素性を母のみに求めたことがわかります。
1766年
1766年、蕪村は太祇、召波とともに三菓社を立ち上げ、俳諧活動を本格化させます。また、讃岐を訪れ、絵画活動も盛んに行いました。
1770年には、師の夜半亭を引き継ぎ、夜半亭二世として俳諧宗匠に列することになりました(宗匠立机)。その後、弟子の几董により、蕪村七部集が編まれることとなります。1772年に句集「其雪影」、1773年句集「此のほとり」「あけ烏」、1776年に句集「続明烏」「花鳥篇」、1780年に句集「桃李」、1783年「五車反古」が著されました。
1783年
1783年初冬、持病の悪化など体調を崩した蕪村は、12月25日未明に死去しました。享年68歳でした。死因は重症下痢症といわれていましたが、近年では心筋梗塞だったとする説も唱えられています。
辞世の句
〈しら梅に明る夜ばかりとなりにけり〉
与謝蕪村の年表を具体的にまとめると?
1716年 – 0歳「蕪村、誕生」
摂津国東成郡毛馬村に生まれる
大阪・都島区にある蕪村生誕地碑
蕪村は1716年に誕生しました。生家は富農、庄屋あるいは村長と言われています。父の名は不明、母の名は伝承によると谷口げんといったそうです。
蕪村の幼少期の暮らしぶりや家族構成は、ほとんどわかっていません。記録もなく、蕪村自身が語っていないことが原因です。一説には、母は蕪村13歳の頃に32歳の若さで亡くなったとされています。
1736年 – 20歳「 蕪村、毛馬村を出て長き修行へ」
茨城県結城市にある蕪村の句碑
蕪村の下積み時代〜江戸へ
1736年、江戸へ出た蕪村は、早野巴人(夜半亭宋阿)という俳諧師に師事して俳諧を学ぶことになります。並行して、画業の修練も積んでいます。
1738年に巴人の著した「夜半亭歳旦帳」や、同じく1739年の其角・嵐雪三十三回忌集「桃桜」に「宰町」の名で入集しています。
巴人のもと、頭角を現しはじめた蕪村でしたが、1742年に師の巴人が亡くなると、兄弟子の砂岡雁宕を頼って江戸を離れ、下総国・結城に移り住みます。
蕪村の下積み時代〜関東・東北を放浪
その後、蕪村は関東・東北をおよそ10年もの間旅をして暮らします。敬愛する芭蕉の「おくのほそ道」を辿ったり、師である巴人の故郷・宇都宮で歳旦帳を編み俳号を「蕪村」に改めたりしています。
いつ終わるともしれない蕪村の放浪でしたが、1754年に赴いた丹後与謝・宮津での3年間で心に定めることがあったのでしょう。丹後与謝は蕪村の母の故郷です。1757年に京に居を構え、その後は終生京を拠点として暮らしました。
1757年 – 42歳「 蕪村、京において本格始動」
山水図屏風(左隻)
45歳にして妻を娶る
1760年、蕪村は45歳にして結婚します。ともという女性が相手でしたが、娘ほど年が離れていたと言われるほか、詳しいことはわかっていません。
蕪村とともの間には、一人娘くのが誕生します。蕪村に、自身の少年時代のトラウマがあったかどうかはわかりませんが、子煩悩な父親であったことは確かなようです。
京の画壇で名を馳せる
野馬屏風(部分)
1763年、「山水図屏風」「野馬屏風」を発表し、蕪村の名前は京の画壇で高く評価されるようになりました。
1768年には「蘇鉄図」を讃岐国丸亀の妙法寺に遺しています。
三菓社を結成
1766年、太祇、召波とともに三菓社と呼ばれる俳句結社を作ります。この三菓社での句会が、蕪村の俳諧活動の拠点となりました。
夜半亭を継承
1770年、兄弟子であった高井几圭の子・几董を後継者とすることを条件に、師・巴人の夜半亭を継ぐことを決意します。これにより、蕪村は俳諧宗匠に列することになりました。
以後、「其雪影」(1772年)、「あけ烏」(1773年)、「続明鴉」(1776年)と蕉風復興運動を展開します。ただ、この時期の蕪村は画業への取り組みもあり、俳諧運動の実務では弟子の几董が大きな役割を担いました。
1771年 – 56歳「 『十便十宜図』成る、蕪村の円熟期」
十便十宜図(蕪村筆)
池大雅との競作「十便十宜図」
池大雅が十便図を、蕪村は十宜図をそれぞれ描きました。技巧では大雅、俳趣では蕪村と個性を感じる競作です。
春風馬堤曲
1777年、蕪村は連作詩「春風馬堤曲」のほか「殿河歌」「老鶯児」を発表します。とくに「春風馬堤曲」は、藪入りの少女に委ねて、帰郷する心持ちを表す作品です。蕪村にとっては、毛馬村のことが脳裏にあったのかもしれません。
1778年には、「野ざらし紀行図」「おくのほそ道図巻」を発表しています。
1783年 – 68歳「 蕪村、逝く」
与謝蕪村の墓
最期まで止まなかった芭蕉への憧憬
1783年、蕪村は義仲寺の襖絵を描いています。義仲寺は、芭蕉の墓があるお寺です。また、芭蕉百回忌取越興行を江戸の俳人・蓼太とともに後援しています。
晩秋、体調を崩した蕪村の病勢は次第に悪化し、妻ともと娘くのの献身的な看病にもかかわらず、12月25日未明に息を引き取りました。
最晩年の活動
「夜色桜台図」「紅白梅図屏風」「富嶽列松図」などがあります。中でも「紅白梅図屏風」は、辞世の句と重なるもので、蕪村最期の脳裏に浮かんだのは清楚な白梅の光景だったのではないかと考えられます。
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