宇都宮・菊花紋官軍旗

https://mainichi.jp/articles/20160510/ddl/k09/040/280000c  【戊辰戦争】より

新政府軍が使用、菊花紋官軍旗見つかる 「全国初」含め計2点 県立博物館で来月まで展示 /栃木 会員限定有料記事 毎日新聞2016年5月10日 地方版 栃木県 

1868年の戊辰戦争で新政府軍が使用した菊の紋章の旗「菊花紋官軍旗」が宇都宮二荒山神社で見つかり、県立博物館(宇都宮市睦町)の企画展で展示されている。保存状態が良く全国で初めて発見された旗もあり、調査した県立博物館の飯塚真史主任研究員(39)は「非常に貴重な資料で、よく残っていた」と評価している。【野田樹】

 旗は2点あり、「白生絹(しろすずし)御紋之旗」(縦332・4センチ、横58・9センチ)は全国で初めて見つかった。絹に墨で菊紋が描かれ、上部には金具の輪が二つある。収められていた木箱には「招魂社宝器」「宇都宮及ヒ諸所ノ戦争ニ用ル」と記されていた。書き付けには「宇都宮藩奉納」とあり、下賜された宇都宮藩が戊辰戦争後に招魂社(現県護国神社)に奉納したとみられる。

https://www.sankei.com/region/news/160527/rgn1605270025-n1.html 【「戊辰」駆けた菊花紋官軍旗 栃木県立博物館が発見、12日まで公開】 より

戊辰戦争で下野の新政府軍が使用した官軍の標章、菊花紋官軍旗2本が、県立博物館の調査で発見され、同館で開催中の企画展「宇都宮藩主 戸田氏-その歴史と文芸-」(6月12日まで)で公開されている。全国でも確認された例がきわめてまれという貴重なものだ。

 発見されたのはいずれも戊辰戦争後、招魂社(今の県護国神社)に奉納され、県護国神社が現在の宇都宮市陽西町に移る前、宇都宮二荒山神社の麓にあった縁で、二荒山神社が所蔵していた白生絹(しろすずし)御紋之旗と菊御紋紅(くれない)大四半(だいしはん)の2本。

 白生絹の菊花紋官軍旗の現存が確認されたのは全国で初めて。菊御紋紅大四半も、確認されているのは佐賀藩に下賜され佐賀県武雄市が所蔵する1本だけで、2本目という。

 県立博物館によると、白生絹御紋之旗は縦332・4センチ、横58・9センチ。白生絹に墨で菊紋が描かれ、上部にある金具の輪2つでつるようになっている。

 箱書きには「招魂社宝器」とあり、箱裏には「宇都宮及び諸所の戦争に用いた」と記されている。付属の書き付けには「宇都宮藩奉納」とあるため、戊辰戦争後、宇都宮藩が招魂社に奉納したとみられる。

 菊御紋紅大四半は縦164・8センチ、横154・9センチ。紅色の絹の中心に墨で菊紋が描かれ、旗の片側は棒を通したとみられる部分に紫色の皮が補強されている。箱書きには「会津征討で用いた」、付属の書き付けには「野津参謀奉納」とある。

 薩摩藩士の野津鎮雄(しずお)・道貫(みちつら)兄弟は宇都宮城をめぐる戦闘などに従軍していることから、戊辰戦争後、薩摩藩が招魂社に旗を奉納したとみられる。

 企画展は宇都宮市制120周年を記念し、江戸時代の宇都宮藩で長期にわたり藩主を務め、最後の藩主ともなった戸田氏に焦点を当てた。戸田氏の歴史や、寛政10(1798)年に家督を継いだ忠翰(ただなか)の南蘋(なんぴん)派の画人としての画業を紹介。初公開作品が数多い。(高橋健治)


もしかして 二荒山神社の社紋(左三つ巴)に菊花紋が付加されることになった?所以でしょうか


https://tokyox.sakura.ne.jp/wordpress/%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ae%e7%a5%9e%e7%b4%8b/  【神社の神紋】  より

三つ巴

三つ巴を神紋とする神社としては、石清水八幡宮・ 大神神社・ 二荒山神社・ 鹿島神宮・ 香取神宮・ 宇佐神宮などがあります

伊勢神宮には古来神紋がありませんでした。

明治になって皇室の紋章である十六菊を神紋としました

上賀茂、下賀茂神社

 上下賀茂神社は、葵の葉を飾って葵祭を行った由緒から葵を神紋としました。三河の賀茂郡から発祥した松平氏は葵を家紋とし、後裔にあたる徳川家康は三つ葉葵を家紋としたのは、賀茂神社との因縁によるものです。

そして、久能山・日光その他の東照宮は、いずれも三つ葉葵が神紋です

尾張の織田氏は木瓜を家紋としていましたが、これは越前の織田剣神社の神職の後裔とも言い、同神社は木瓜紋です。また木瓜紋は祇園社に用いられ、京都の 八坂神社、尾張の 津島神社、筑前の櫛田神社などが用いています。  

 狐を神使とする稲荷神社は、 伏見稲荷をはじめとして稲を神紋としています。

 藤原氏と縁故の深い神社は、いずれも藤丸を神紋としています。奈良の 春日神社・談山神社、京都の大原野神社・ 吉田神社、河内の枚岡神社など

有名な神社の神紋としては、信州の 諏訪神社の梶の葉、 出雲大社の亀甲、肥後の 阿蘇神社の鷹の羽などがあります。 『蒙古襲来絵巻』を見ると、阿蘇大宮司の旗に鷹の羽の神紋が描かれています

鷹羽紋は、英彦山、阿蘇、香春と菊池の家紋

木瓜と三階松 (マツボックリ紋)は、高良大社、宮地嶽の紋、伊勢の伊佐和神社

三つ巴は、八幡、住吉、宇佐の紋

見沼の神

「梶」は木綿(ゆふ)の原料である楮

 「梶の葉」は、信州の一宮である諏訪大社の神紋として有名なものである。諏訪氏は諏訪大社上社の大祝から武士化したもので、その家紋は「梶の葉」であった。

梶葉紋の起り

 『諏訪大明神絵詞』によれば、神功皇后が新羅征伐のとき、諏訪・住吉の二神が、梶葉松枝の旗を掲げて先陣に進んだとあり、また、安倍高丸が謀叛したとき、坂上田村麿が伊那郡と諏訪郡との境、大田切という所で梶葉の藍摺りの水干を着て、鷹羽の矢を負い、葦毛の馬に乗った諏訪大明神に行き遭ったことが記されてある。しかし、絵詞は室町時代はじめの作であり、坂上田村麿の時代に神紋があったとは思われないが、梶葉紋が諏訪大社の神紋として周知のことであったことが分かる。

 このように、梶の葉紋は諏訪大社の神紋として、平安時代から始まった。

 現在、七夕では竹や笹に飾りを付ける。ところが昔は、梶の葉や枝が用いられたのだ。梶の木が、神社の境内などに多く生え、主として神事に用いられたり、供え物の敷物に使われたりした。さらに和紙の原料にも用いられたともいうが、最近では山村でもないかぎり見られなくなった。しかし、現在も神木として尊ばれている。信州の諏訪神社では、いまも神紋に梶を使用している。梶紋は最初神社関係のひとが使ったようだ。神官、社家、氏子の人々などだ。紋の形は、「抱き梶」「一葉梶」が多い。(丸に梶)

木瓜紋とは?

木瓜、モッコとは、マツボックリの ボッコである。松の紋であり、三階松もその仲間である。

木瓜紋は、例に三瓜から五瓜のものを挙げたが、『日本家紋総鑑』には八瓜の木瓜紋まである。植物学の事典を見ると、松かさは「球果」と呼ばれている。そして、赤松や黒松など、種類の違う松の球果もそれぞれ大きさや形状が少しずつ違うのである。それらを輪切りにした形を較べれば、そしてそのうちのどの範囲までを図案化したかを考えたら、三瓜から八瓜までの木瓜紋があるわけがわかる

木瓜紋

高良大社、或いは、大善寺玉垂宮

高良下宮社の三階松

壱岐神社は三階松

鍋島は、抱き茗荷

三つ巴を神紋とする神社は、宇佐神宮をはじめとする八幡宮、住吉神社系、志賀海神社などの綿津見系神社、大神神社、籠神社、豊受大神社、西宮えびす神社、鹿島神宮、香取神宮系など全国的にひろがる。

大神神社 三輪神社

三輪山をご神体とする大和の三輪神社の杉は、『日本書記』や『万葉集』に神杉として記されており、 「わがいほは 三輪の山もと 恋しくば とぶらい来ませ 杉たてる門」という歌が『古今集』にのっている。三輪神社は大神(オオミワ)神社ともいい酒の神様として親しまれ、「三本杉」が神紋である。神酒(ミワ)神社から求めた杉葉で作った鞠状の飾り(杉玉・酒林)が、むかしから酒屋の看板となっている。緑の杉玉が飾られると新酒の季節で、徐々に茶色くなるにつれてお酒も熟成していくのである。三輪神社の神職は大神氏で、三輪の神を祖神とし「三本杉」を家紋としている

杉紋を用いる代表家は、大和の大神神社関係の家である。大神は大三輪とも書き、オオカミ・オオガとも呼称する。宗家はその祖神から出た大神氏で、その後裔に豊後の大族緒方氏がある。祖大太(惟基)は高知尾明神の神子とも、祖母嶽大明神の神子ともいわれるが、宇佐八幡宮の大宮司であった大神氏の一族のようだ。

 

  奈良県天理市の古社、大和(おおやまと)神社は橘紋

穴師神社も橘紋。穴師神社から大和神社へは車で5分程度、とても近い距離です。

 穴師神社の橘紋を見ると、実の部分には「大兵主神」という字が入っています。そのまま解釈すると、橘紋は兵主神(ひょうずしん)の紋ということになります。

大和神社の公式ホームページによると、祭神は日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)、八千戈大神(やちほこのおおかみ)、御年大神(みとしのおおかみ)の三柱となっていて、兵主神は見あたりません。

 

「大日靈貴(おおひるめむち)尊」の呼称は、東北地方に多いようです(秋田・宮城の大日靈神社等)。大日靈という字は、霊女(巫女)の意味で用いられた様で、宮崎県高千穂市の祖母嶽神社は「大日霊女貴命」、島根県の志々乃神社は「大日霊女命」と記されているそうです。一方で、正式な名は「撞賢木厳御魂天疎向津比売(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)命」と呼ぶそうです(鹿児島県財部町の日光神社、福島県保原町の神宮宮他、多数)

三つ麟 蛇の鱗と三本杉の統合紋

豊後大神氏は、宇佐八幡宮の大宮司であった 大神氏の一族で、祖大太(惟基)は高知尾明神の神子、あるいは祖母嶽大明神と堀河大納言伊周の女との間に生まれた 神子となっている。大神氏は大和大神神社とも関係があり、大神神社の神紋である三本杉を家紋としていた。 のちに三本杉がデフォルメされて「三つ鱗」紋が生まれたようで、その原型は三本杉に他ならない。もっとも、 大神神社の神使は蛇であり、豊後大神氏の祖は蛇神の子であることから、蛇の鱗をも意識していたものと思われる。 佐伯氏、藤林氏など緒方氏の一族の多くが「三つ鱗=三本杉」紋を用いている

三光の紋

 足羽神社の御神紋は「三光(さんこう)の紋」といい、これは非常に珍しい紋章で、「日(太陽)」と「月」と「星」を組み合わせ「○」で囲んで標されています。

・昼と夜に全ての物を照らし、命と力を与える太陽と月。

・夜でも方角の導きとなり、その不動の輝きから天皇を象徴する星(北極星)。

 宇宙全体・大きな力、つまり御威光の壮大無辺を表しています

 また、第14代仲哀天皇の皇后、神功皇后の三韓攻略の御旗に描かれた紋にちなんでいるともいわれています。継体天皇も朝鮮半島の任那(みまな)の援軍派遣に際し、同じ紋章を使っていたということでしょうか。

 五世紀後半ごろ、男大迹王(後の継体天皇)が越前でお過ごしの間に越前平野の大治水事業をされますが、まずその初めに朝廷に祀られている大宮地之霊(坐摩神)を足羽山に勧請し、諸事の安全を祈願したのが足羽神社の起源とされています。

 第26代天皇として即位をされ越前を発たれる時に、「末永くこの国の守り神とならん」と、自らの生御霊(いきみたま)を鎮めて旅立たれて行かれました。

 それから継体天皇が主祭神として本殿中央に祀られています。

金刀比羅宮の御神紋は、丸に金

開運はもちろん、仕事運と金運アップのご利益があると言われています。

物部神社の御神紋「ひおい鶴」

物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。



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