禅が教える、人らしく生きるために欠かせないこと

https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17337988  【禅が教える、人らしく生きるために欠かせないこと 生活が豊かになっても高まらない幸福度】 より

山口

人生の普遍的な真理が見失われてきた背景には、やはり、終戦を境にそれまでの価値観が否定されたことが遠因となっているのでしょうか。

平井

それはあるかもしれません。学校教育でも、生き方や人としてのあり方といった心の部分よりも、国語・算数・理科・社会などの生きるための技や手段に重きが置かれてきた結果、根っこがなくて枝葉だけが茂っているようなアンバランスな状態になってしまいました。確かに今は物質的には豊かになりましたが、精神的には貧しく、脆くなってしまい、そのひずみがさまざまな問題となって表出しているように感じています。

山口

高度経済成長期からバブル景気の時代までは経済がすべてで、テクノロジーとエコノミーでユートピアができると信じられていたわけですが、それによって本当に豊かになったのか、幸せになったのか。ある有名な調査によると、日本国民の幸福度は昭和40年代からほとんど高まっていないようです。経済的に豊かになったのに幸せにはなっていない。そう考えると、そろそろ「めざす社会像」のアップデートが必要なのかもしれません。これからの社会や暮らしのあり方を経済以外のものさしで考えるときが来ているのではないかと思います。

平井

本当にそうですね。新しい価値判断の軸や拠り所のようなものが見えないことが、何か閉塞感につながっているのかもしれません。

個の力がより問われる時代に

画像: 個の力がより問われる時代に

山口

かつては血縁や地縁による自然発生的な共同体と、そこに祀られている氏神様や地域のお寺が心の拠り所として機能していました。戦後の経済成長の中で、それらに代わって終身雇用制の会社が、ある種の共同体としての機能を果たすようになった。ところがバブル崩壊後、会社もまた一生頼れる存在ではなくなり、本当に拠り所がなくなってしまいました。

こうした時代だからこそ、おっしゃるような普遍的な真理、根っこの部分の大切さが増していると思います。欧米ではやはりキリスト教がその役割を担っていて、日曜日に教会へ行き、黙想している人の姿も多く見かけますが、今日、お寺の存在や坐禅というものが持つ可能性についてはどのようにお考えでしょうか。

平井

おっしゃるとおり、拠り所としての共同体が消えつつあるのは確かですね。しかしだからこそ、集団というものが個の集まりであることを再確認すべきではないでしょうか。これまでは何となく最後に頼れるものがあったけれど、これからは一人ひとりが精神的に自立・独立しなければならないという覚悟、個の力というものが、より問われる時代になったと言えるのかもしれません。

東日本大震災のあと、「絆」という言葉が盛んに言われましたが、「絆」とは一方がもう一方にもたれかかるような関係ではなく、一人ひとりがしっかりと自分の足で立ちながら、互いに手をつなぐことで初めて生まれるものです。災害時などの支援は別として、個々人が精神的に自立しない限り、真の意味で支え合うことはできないはずです。

その精神的な自立において、坐禅が助けになるかもしれません。坐禅は、自分は何者であるのかを知る方法、自分の心と向き合う方法を教えてくれるものです。自分の内面と向き合うことは、外界からの刺激がある状態では難しいでしょう。スマートフォンなどで絶え間なく外からの情報にさらされている現代人には特に、静かに坐って自分自身の意識を内側に向ける時間が必要なのではないかと思います。

山口

だから坐禅会に力を入れておられるのですね。

平井

はい。当寺では月~土曜日は午前5~7時、日曜日は午後6~8時とほぼ毎日行っています。正直、坐禅会というのはお寺の運営という視点から見れば忙しさが増すだけなので、このようなお寺は少ないでしょう。でも、早くに亡くなった先代からこの寺を引き継ぐとき、私は「坐禅のことは断らない」と覚悟を決めてしまったのです。今では大学やビジネススクール、また企業にも伺って坐禅会を行っています。


https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17337993  【禅が教える、人らしく生きるために欠かせないこと その3 自分は何者であるか、わかるために坐る】 より

文化として定着し始めている禅

画像: 文化として定着し始めている禅

山口

ビジネスの世界ではよく日本とアメリカの企業を比較しますが、日本企業のほうが遅れている領域は、今はもうほとんどないと言えます。ただ例外は「人と組織」の領域です。

例えば、西海岸の代表的なIT企業は禅をベースにしたマインドフルネスを、集中力や思考力、決断力、創造力などの向上に生かしています。坐禅とマインドフルネスは厳密には異なるものだと思いますが、ビジネスリーダーを育成する上でメンタルトレーニングが欠かせないと考えられているのです。

一方、日本企業の人材育成はこれまで業務に直接的に関わることが中心で、マインドフルネスを勧めても、「何の効果があるのか」、「すぐに役立つものなのか」などと言われてなかなか理解されませんでした。ですが、ご住職が企業で坐禅会をされていると伺って、禅やマインドフルネスに関する見方が変わりつつあるのではないかと感じました。

平井

実はこれから伺う会社も、社長さんご自身が10年以上前から当寺で参禅していて、禅の精神をよく理解されているのです。そのため、「何の役に立つのかは、続けていくうちに気づいてくれればいい」と、会社での坐禅会も強制ではなく、参加したい人が集まって行います。ただその彼も「10年前だったら会社でも反対されただろう」と言っています。おっしゃるようにGoogle社がマインドフルネスを取り入れていたり、スティーブ・ジョブズが禅に傾倒していたりといった情報があり、近年は逆輸入のような形で禅への関心が高まっています。ある大手銀行で私が行っている坐禅会でも、毎回30名の定員に対して10倍以上の申し込みがあります。宗教というよりも東洋思想的なものとして捉えられているため、参加のハードルが低くなっているのでしょう。いずれにせよ、文化の一つとして定着しつつあるのは、私たちにとっても嬉しいことです。

「坐ればわかる」と言われ続け

画像: 「坐ればわかる」と言われ続け

山口

ご住職自身は小さい頃から坐禅をされていたのですよね。お寺を継ぐ立場とはいえ、子ども心にはきっと辛かったでしょう。お父様から坐禅をする意味などについてお話はあったのでしょうか。

平井

ありませんでした。「何で坐禅するの?」と聞いても「坐ればわかる」の繰り返しで。臨済宗の修行道場でも、「坐ればわかる」としか言われません。もっとも、今は私が「坐ればわかる」と言っているわけですが(笑)。

山口

これは曹洞宗の言葉ですが、「只管打坐(※)」ということでしょうか。

平井

もちろん実際、坐らなければわかりません。やはり言葉にしないほうがいいのです。また「坐ればわかる」と言われて自分で見つけるほうがある意味おもしろいですよね。

ただそうは言っても、やはり今の時代それだけでは通じないので、導入として「自分のことがわかるようになるよ」と言っています。「自分のことはわかっています」と皆さん言いますが、ほとんどは「自分ってこういう性格」とか、「私ってこういう人間」という自分の思い込みです。仮に知り合い10人に「私はどんな人間か」と聞いてみたら、全員が違うことを言うでしょう。そのとき、どの自分が本物なのか。あの人の言う自分、自分の思う自分、どれがほんとうの自分なのか。「自分が思う自分が本物に決まっている」と言うかもしれませんが、それならば、他人から評価されたり叱られたりしたときに、嬉しかったり落ち込んだりするのはなぜですか。「もし自分というものがほんとうにわかっているなら、他人の評価に一喜一憂する必要がないはずですよね」と言うと、皆さん腑に落ちるようです。「だから坐るのです。自分は何者であるか、わかるために坐るのです」というふうに言っています。


https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17337995 【禅が教える、人らしく生きるために欠かせないこと その4 「ほとけ」とは「ほどける」こと】 より

思い込みを捨て、自分の心の内なる仏に気づく

画像: 思い込みを捨て、自分の心の内なる仏に気づく

山口

自分を知ること、セルフアウェアネスはビジネスの世界でも注目されていますが、その中で「能力の低い人ほど自己評価が高く自信があり、実力のある人ほど自分の能力に疑いを抱いている」という心理学の研究があります。

平井

なぜ能力が低いのに自己評価が高いのでしょう。

山口

能力の低い人は自分のレベルを正しく評価できないうえ、他人のことも正しく評価できないため、自分を過大評価してしまう。でも実際はできていないので、人事評価は当然低い。すると会社や上司を逆恨みしたりする。逆に優秀な人たちは、実際よりも少し自分の実力を低く評価する傾向にあるというのが、「ダニング=クルーガー効果」と呼ばれるこの理論のおもしろいところです。

これらの研究を踏まえ、状況に対して適切に対応できるリーダーを育成するためのカギがセルフアウェアネスであると言われています。坐禅の目的は自分を知ることにあるというお話と符合するので、興味深く感じました。

平井

それはおもしろいですね。

山口

前回おっしゃっていたように、自分が何者であるかを知るというのは、「自分はこういう人間だから」という思い込みをなくすということなのですね。

平井

そうですね。禅に限らず仏教ではよく「仏(ほとけ)」とは「ほどける」ことであると説かれます。例えば、ここに水の入ったコップが置いてあれば、ほとんどの人は水を飲むためのコップだと認識するでしょう。しかしそれに一輪の花を活けて花瓶にする人もいる。水があってちょうどいいと、灰皿にする人もいるかもしれません。ある人はコップ、別の人は花瓶、もう一人は灰皿だと言う。このように同じものを見ても人それぞれ「これはこうだ」と思い込むものです。世の中の争いのほとんどは、そうした思い込みに起因しているのではないでしょうか。そのような思い込み、固まった心のもつれがほどけて、「これはコップでも花瓶でも何にでもなるじゃないか」ということに気づけば、争いの種はなくなります。心が平らかで整った状態、つまり「ほとけ」というものになる。

マインドフルネスとは、そういう思い込みをいったんすべて流してしまうことをめざすものではないでしょうか。対して禅は、仏教ですから、取り除いたあとに自分の心の中にある「自在な仏なるもの」に気づくことをめざすのです。

お釈迦様は悟りを開いたとき、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」、生きとし生けるものはみんな生まれながらにして仏になりうるとおっしゃいました。しかし、いろいろな煩悩や固まった心が、内なる仏の存在に気づくことを妨げているのです。それらを修行によって取り除いていけば、いちばん底に仏が残るということに気づく。ここがやはり仏教である禅の精神の核です。

ころころ転がるから「心(こころ)」なのだとも言われますが、心は水のように形を変える自由自在なものです。それを好き嫌いや損得、是非や善悪で呪縛して、嬉しい、悲しい、苦しいといった状態で固めてしまうから不自由になる。その固まりをほどく方法を教えてくれるのが、仏教であり、禅であると考えています。

「無心」ではなく「一心」になる

画像: 「無心」ではなく「一心」になる

山口

ご住職は、坐禅をすれば無心になれるわけではないとも書かれていますね。「無心」とは「何も考えない」ということではないと。

平井

ええ。「何も考えない」というのは不可能ではないでしょうか。これも言葉の難しさですが、私は無心というより「一心(いっしん)」になると表現しています。一心とは、今、自分が行っていることに対して集中する、心と体が一つになっている状態です。

あるいは「初心に還る」と言ってもいいかもしれません。山岡鉄舟(※)先生は「剣術の妙處を知らんとせば、元の初心に還るべし。初心は何の心もなし」と書いておられます。仕事でも坐禅でも、最初に「さあやるぞ」と思った心には雑念がありません。「人から見られるからうまくやってやろう」とか、逆に「なぜこんなことをしなければいけないのか」といった雑念や疑いの念がない「素直な心」が初心です。

われわれは修行道場へ行くと、まず徹底的に叱られるのですが、修行とはまず「自分」というものを否定し、捨てることから始まるからです。「自分が」という心の固まりをほどくことで、多少揺れ動いても最後には元の場所へ還る、自在でぶれない心を養うことができるのです。