宇都宮城と二荒山神社

https://blog.goo.ne.jp/shkakizawa88/e/c5bc8c9e6fdc95372c44455960609189  【宇都宮城と二荒山神社】  より

宇都宮市内に入り、さすが栃木県最大の首都、日光奥州街道の交わる町。大型デパート、オフィスの集中した賑やかに繫栄していた。

宇都宮市の中央繁華街馬場通りに鎮座し、緑に囲まれた古社で、毛野国の祖といわれる「豊城入彦命」を産土神として祀る下野国一宮。

古くは宇都宮大明神や日光山大明神と呼ばれ尊ばれた。正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社との区別のために鎮座地名を冠して呼ばれる。

両社は祭神が異なり名称の由来も異とされるため、全く別の神社と謂われるが、日光社は下毛野氏の氏寺であり東大寺や観世音寺(筑紫国)と並ぶ戒壇であった下野薬師寺の修行僧であった勝道上人を開祖とする傍ら、ここは、宇都宮氏が座主となるまで、座主は下毛野氏の姻戚者であったと謂われており、両社とも古代関東地方の文化の中心地であった下野国の豪族であり国造である下毛野氏にゆかりの深い神社である。

文化財は、鉄製狛犬・三十八間星兜の2件で、国の重要美術品に認定。

明神の井 - 宇都宮は各所に湧水があり、明神の井の湧き水は江戸時代には宇都宮名水「七水」のひとつとして数えられた。

明治天皇の御行幸の折にはこの水を茶の湯としたと伝えられる。

宇都宮は、二荒社神社の門前町として発展してきた。一宮の訛りという説、遷座したことから「移しの宮」の転という説、「二荒山の神の現宮」という説、豊城入彦命が東国の総監として此処に住し国がよく治まったことから「宇津くしき宮」と呼ばれそれが「うつのみや」に転じたという説など諸説ある。

宇都宮城は戊辰戦争で焼失されたが土塁の一部が現存し本丸跡を公園としていた。

基を築いたのは、藤原秀郷、藤原宗円とも言われており、平安後期。中世に入り宇都宮氏で、鎌倉時代御家人として活躍している。

小倉百人一首の成立にかかわった「頼網」、元寇に出陣した「貞綱」などがいる。宇都宮氏は500年に渡り城主であったが、豊臣秀吉に滅ぼされ、家康の側近「本多正純」が城下町として大改造を行った。将軍の日光社参の宿城でもあった。将軍暗殺釣天井説は創作と思われる。

本多正純 1565-1637 宇都宮城主 本多正信の長男、家康側近、二代将軍秀忠グループ策略により改易処分になる。

講談は、三代将軍家光謀殺を計画し、客殿に吊り天井を仕掛け圧殺しようとしたが露顕し、自刃をしたという。

正純は謀反の意志はなく罠に掛けられた二世政治家と云われている。

宇都宮城の戦いは、戊辰戦争の戦闘の一つで、1868年、宇都宮藩兵をはじめ野州世直しを鎮圧するために板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を

中心とする新政府軍と、下総市川の国府台から次期戦闘地日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた戦役。

この戦いの結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失したという。


https://bushoojapan.com/bushoo/tokugawa/2019/09/09/87664 【亀姫(家康の娘)、激情の生涯~母は殺され兄は自害で本人も毒姫に?】より

徳川家康の正妻は築山殿つきやまどのです。

征夷大将軍の妻ですから、それはもうご立派で、さぞかし将軍の母として権勢を振る舞われたのでしょう……と考える方もおられるかもしれませんが、実は彼女、非常に不名誉な経歴を戦国史に残しております。

本来なら嫡男として徳川家(松平家)を継ぐハズだった息子・松平信康が自害へ追い込まれ、築山殿自身も1579年に殺害されているのです。

その原因は諸説ありまして。

織田信長の娘であり信康の妻でもあった徳姫が父の信長へ讒言したとか、武田に内通したとか、あるいは徳川家(松平家)の内紛だったとか(こちらの説が有力)、ともかく彼女の周囲はトラブルがちでありました。

今回の主役は、築山殿の娘・亀姫です。

築山殿や松平信康は割と注目されることがありますが、その娘・亀姫となると意外と盲点だったりします。

天下人・徳川家康の娘ですから、しかるべき相手に嫁ぎ、それなりの生涯を送っているはず――と思いますよね?

では本題へ参りましょう。]

そんなキャラの濃い家に生まれた亀姫(1560-1625年)は、三河北部を勢力下に置きたい徳川家の思惑によって、新城城しんしろじょう主の奥平信昌へと嫁ぎました。

この奥平信昌さん、元は長篠城主で、配下の鳥居強右衛門が援軍を呼びに行って壮絶な死を遂げ、長篠の戦いで勝利の遠因をもたらせた武将としても知られております。

織田家にとっても徳川家にとっても、かなりの功労者。

しかし、もらった妻・亀姫は「亀」というより「毒」でした。

・なんせ嫉妬深くて、夫には側室を置かせない!これはもう気の毒というほかありません。

相手が家康の長女ですから逆らうことは能わず、しかも亀姫は4男1女を産んで後継問題もクリアしているのです。側室を求める理由などありません。

しかも、です。この毒姫さん・熾烈な性格で侍女を12人も手打ちにする

夫に色目でも使った――と判断したのでしょうか。

どうやらキツい性格というのは母譲りだったもようで、築山殿自身にも

『自分の奥女中が家康の子を身ごもった際、裸にして木に縛り付けた』

なんて話があるほどです。

この話は後世の創作ですが、母にしてこのように言われる有様ですから、娘にも引き継がれた可能性は否めませんよね。

後釜にやってきたのは憎き正純だった!

さて夫の信昌ですが、中々有能な人物かつ家康の娘婿でしたので、関ヶ原後には美濃加納藩10万石の領主となります。

長男・家昌も武勇に優れた人物で、父とは別に下野宇都宮10万石を獲得。

妻の亀姫から見れば、夫も息子も出世して万々歳の場面ですよね。

しかし、不幸にして長男は1614年、夫は1615年に亡くなってしまいます。

夫亡き後の亀姫が、7歳で下野宇都宮藩を継いだ孫・忠昌の元に身を寄せると、まだ幼い忠昌には関東の要所・宇都宮が重荷であろうと下総古賀11万石へ転封の命が下ります。

ここで亀姫にとって大問題だったのが、代わりにやってきた人物でした。

後任の名は本多正純。

父・本多正信と共に家康に寵愛されていた人物です。

大河ドラマ『真田丸』でも相談役として側にいつも控えておりますので、ご存知の方も多いかもしれませんね。

しかしなぜ、亀姫にとって正純が大問題だったのか。

それは亀姫の娘の嫁ぎ先である大久保家を改易させた憎き相手だったからです。そんな経緯があったのに、なぜ幕府もこのような危険な配置を進めたのか……。

それも正純は宇都宮10万石から15万石への加増となったため、とにかく亀姫さんの心中はとても穏やかではいられません。

そこで引っ越しの際に・障子、襖、畳を剥がし、庭木まで掘り起こし一切合切持って行こうとした

なんだかせこい復讐ですが、このときのルールで私物以外は持ってはなりませんでした。

実際、本多家から文句を言われて、返す羽目にもなっております。

情けくてチョット可愛いかも。

「将軍暗殺」という、しょーもないチクリを……

ともかく正純憎しの思いは募るばかり――。

そんな彼女にチャンスが到来したのは1622年のことでした。

家康の七回忌に日光東照宮を参拝した秀忠が宇都宮城に1泊する予定があったのです。

そこで亀姫がとった行動は……。

・『正純が寝室につり天井を仕掛けて将軍暗殺を企んでますぜぃ』と事実無根のチクリ

いや、もうドコまで子供なんだ!

と呆れるばかりですが、その後、正純に移封命令がくだされたときにこれを拒んだため、なんと改易に……更には流罪でドン!

正純が失脚すると、彼女の孫・忠昌が見事、宇都宮城主に返り咲き、亀姫の念願は成就したのでありました。

亀姫のチカラがドコまで働いたかは不明であります。

兎にも角にも女の執念は怖いですね。