宇都宮城釣天井事件

https://senjp.com/kamehime/  【亀姫の解説 徳川家康の長女【加納御前】】 より

亀姫(かめひめ)は、戦国時代の1560年6月4日、徳川家康の長女として、駿府にて誕生した。

母は築山御前(築山殿、瀬名姫)で、兄に松平信康がいるが、生まれた時から今川家の人質状態であった。

1562年、人質交換により母と共に岡崎城に移っている。

1573年、武田信玄が死去すると、その頃、武田勢に組していた長篠城主・奥平定能の嫡男・奥平信昌に、亀姫を与えるべしと言う織田信長の勧めもあり、徳川家康は奥平定能と奥平信昌を徳川陣営に帰参させる。

その後、1575年、長篠の戦いにて奥平信昌は劣勢ながらも長篠城を良く守り、徳川・織田の連合軍は武田勝頼に大損害を与える。

こうして、亀姫(17歳)の婚約が履行されて1575年12月22日、新城城主・奥平信昌(22歳)の正室になった。

なお、この時、徳川勢は途中で亀姫の輿が襲撃されるのを警戒して、既に亀姫は7月に藤尾某が背負って新城城に入城済であったとも伝わる。

ちなみに奥平貞能の娘は本多重純に入嫁しており、奥平家と徳川家の結びつきは強固なものとなった。

亀姫は新城城で約15年の年月を過ごし、4人の男子(奥平家昌・奥平家治・奥平忠政・奥平忠明)と1女(千姫/大久保忠常の正室)を儲ける。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで徳川家康が関東移封となったため、奥平家は上州の宮崎(群馬県富岡市)30000石となった。

その後、奥平信昌は初代の京都守護職も務めている。

加納城

1600年、関ヶ原の戦いのあと、1601年に奥平家は美濃加納藩10万石となり、三男・奥平忠政らと加納城にり、亀姫は加納御前・加納の方と呼ばれた。

この時、亀姫は化粧料として3000石を受けている。

なお、亀姫は嫉妬深いようで、亀姫に殺された侍女12名の霊を慰めていると伝わる十二相神が加納城近くにある。

奥平信昌に生涯側室をおいていない。

1602年に奥平信昌が隠居したのに伴い、亀姫も二の丸に移った。

その後、奥平忠政、宇都宮藩主の嫡男・奥平家昌、奥平信昌らの相次ぐ死去を受け、剃髪すると盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫らの後見役になって、亀姫は宇都宮城に移っている。

1622年、宇都宮城主になっていた孫・松平忠昌が古河に移されると、亀姫も移ったがこの時、新しく宇都宮城主となった本多正純との間に問題が生じ、亀姫は深く本多正純を恨んだと言われる。これが、のちの宇都宮釣天井事件の引き金となり、再び松平忠昌が宇都宮城主に返り咲いた。

事件後、亀姫は加納城に戻っており、1625年5月27日、加納城にて死去。66歳。

戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。墓所は光國寺。


https://sirotabi.com/13236/  【宇都宮城の解説 宇都宮城釣天井事件】

宇都宮城(うつのみやじょう)は、栃木県宇都宮市本丸町にある輪郭梯郭複合式平城で、別名は亀ヶ岡城とも言います。

平安後期から代々、宇都宮氏の居城となっており、関東七名城にも選出され、現在は宇都宮城址公園として整備されていて「宇都宮城さくら祭」「うつのみや城址まつり」なども開催されます。

最初の築城者としては、平安時代の1063年に下野国の守護職と、下野国一宮(宇都宮二荒山神社)の別当になった藤原宗円(ふじわら-の-そうえん)が、屋敷を構えたのが始まりとされます。

源頼義・源義家の奥州安倍氏討伐(前九年の役)で戦功があったようで、での功により宇都宮の領地を賜ったようです。

ただし、藤原宗円には藤原兼仲と言う兄がいたようですが、若くして亡くなったようで、未亡人となった益子正隆の娘を迎えて、その兄の子・八田宗綱を養子にしました。

このように周辺豪族を従えており、八田宗綱は常陸国大掾の平棟幹(大掾棟幹)の娘を正室としています。

その子・宇都宮朝綱(うつのみや-ともつな)のときから「宇都宮氏」を称するようになり、弟が八田知家と名乗っています。

そして、、宇都宮城は、鎌倉時代・室町時代・戦国時代と、約500年以上、宇都宮氏の居城となりました。

17代当主・宇都宮成綱のとき、最盛期となっていますが、重臣・芳賀高勝を謀殺するなどし、18代・宇都宮忠綱は家臣を束ねられず弱体化し、19代・宇都宮興綱、20代・宇都宮俊綱の頃には傀儡となりました。

21代・宇都宮広綱のときには、家老の壬生綱房・壬生綱雄に宇都宮城を乗っ取られるなどし、下野・多気山城を拠点にしています。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、22代・宇都宮国綱は、早くから豊臣氏と手を結んでおり、石田三成の忍城の戦いにも参陣したことから、下野18万石の所領を安堵され、宇都宮城に復帰しています。

このとき、豊臣秀吉は、下総・結城城を経由して宇都宮城に入ると11日間滞在して、関東・東北の領地を決める宇都宮仕置(うつのみやしおき)を行ったため、諸大名は宇都宮城を訪れています。

しかし、1597年、突然、改易(所領没収)となり、追放されて備前の宇喜多秀家に預けられました。

その後、宇都宮城には18万石で、蒲生秀行が会津若松城から移り、近江日野からやって来た商人が住む日野町や紺屋町など城下町や武家屋敷の整備を行いました。

関ヶ原の戦い後の、1601年には奥平家昌が10万石で宇都宮城に入りました。

興禅寺を再興するなど城下町を再整備しています。

大坂の陣を経て徳川家康と本多正信が死去したあと、1619年、15万5千石で本多正純が宇都宮藩主になり、城域を拡大して改修し、将軍宿泊所となる本丸御殿も建設しています。

そして、2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしています。

また、日光街道と奥州街道を改善して、日光・東照宮参拝の整備も進めました。

しかし、土井利勝、加納御前ら奥平家の反感を招き、この大規模な工事が、本多正純謀反の噂となりました。

1622年、宇都宮城釣天井事件にて、日光東照宮を参拝した徳川家康は、宇都宮城での宿泊を取りやめて壬生城に宿泊し、江戸城へ戻っています。

これは、2代将軍・徳川秀忠を、からくり仕掛けの天井で暗殺しようと企てた「宇都宮城釣天井事件」とされますが、実際には、徳川家康の死後の幕府の権力争いにて、本多正純が敗れたと言う事になります。

宇都宮城釣天井事件

山形城受取りのため東北に出向いた本多正純は、出羽・横手城に流罪となり、改易となっています。

この大改修工事の結果、宇都宮城下は城下町、門前町、宿場町の各機能を持つ都市に再編された。宇都宮城改修に際し、正純は幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしたが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622年)に正純は改易された(宇都宮城釣天井事件)。

その後は、徳川家のと譜代大名が宇都宮城主を務め幕末に至りました。

1868年5月、戊辰戦争の際には、大鳥圭介ら旧幕府軍が宇都宮城に入ったため、宇都宮戦争となり、河田佐久馬、伊地知正治、大山弥助、野津七次、有馬藤太ら新政府軍が攻撃し、宇都宮城の建物や町並は80%が焼失しました。

現在、宇都宮城本丸の一部が宇都宮城址公園として外観復元されており、公園の西側にある「宇都宮城ものしり館」には入館無料の歴史展示室もあります。

今後は、本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画もあるようですので、楽しみですね。