本多正純の改易(徳川将軍15代)

https://wheatbaku.exblog.jp/18056638/  【本多正純の改易(徳川将軍15代)】 より

秀忠のよる大名の改易は、外様大名はもちろん、一門でさえ許さない状況でした。

こうした状況ですから、譜代有力大名でも、安閑としていられませんでした。

 譜代有力大名の改易の代表が、本多正純の改易です。

 本多 正純は、家康側近の本多正信の長男で、正純自身も家康の側近でした。

 慶長10年(1605)、家康が将軍を秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣と本多正信が付き、駿府の家康には正純が側近としてつかえました。

 元和2年(1616)、家康と正信が相次いで没した後は、正純は江戸の年寄衆の一人として秀忠の側近となりました。

本多正純の改易(徳川将軍15代)_c0187004_11122118.jpg 家康と正信が死去した後、2万石を加増されて5万3,000国の大名となり、さらに下野国小山藩5万3,000石から宇都宮藩15万石に加増されました。

 しかし、後ろ盾である家康や父・正信が没しており、秀忠側近である土井利勝らが台頭してきたことで正純の影響力、政治力は弱まっていました。

 元和8年(1622)8月、出羽山形の最上氏が改易された際、正純は上使として山形城の受取りに派遣され、無事に城を受け取りが完了した時、江戸から派遣された伊丹康勝と高木正次から改易を告げられました。

 改易の公式の理由の一つは、福島正則の改易の際、正則に与する大名が10人は出るだろうと秀忠を「おどし申し候様」であったこと」、二つ目は宇都宮城を自分には不似合いな城だと秀忠に直訴したことは不行き届きだということでした。

 実際は秀忠との関係がうまくいってなかったことが大きな要因です。

 正信の代からの忠勤に免じ、出羽の内、由利郡に5万5,000石を与えるとの話を固辞したため、正純は改易され,1,000石の知行のみで出羽国由利郡にて佐竹氏預かりの身となりました。

この本多正純の改易に関して有名な話が「宇都宮城釣り天井事件」です。

元和8年4月、家康の7回忌に当たり、秀忠の日光社参が行われました。

この時、秀忠の止まる宇都宮城の殿舎の天井を釣り天井にして秀忠を暗殺しようとしたというものです。 

秀忠は、社参の帰りにも宇都宮城に宿泊する予定でしたが、急に予定を変更して宇都宮に宿泊せず壬生に宿泊して江戸に帰りました。この急な予定変更は、正純が秀忠を暗殺しようとしているとの情報が届いたためと言われています。

その情報を届けたのが加納御前と言われています。

加納御前とは、徳川家康と正室築山殿の間に生まれた長女亀姫のことです。

長篠の戦いの際に戦功著しかった三河新城城主奥平信昌に嫁し、信昌の国替により美濃加納に移り,加納御前と称されました。

長男家昌の代に宇都宮に移封されましたが、家昌がなくなり、幼い孫忠昌が跡を継ぎました、その忠昌が古河に移され、その跡に本多正純が入ることになりました。

加納御前は正純を快く思っていませんでした。娘が、大久保忠隣の嫡子大久保忠常に嫁いでいましたが、大久保忠臨が改易となったのは、正純とその父・本多正信のたくらみによるものと信じていました。

そう思っている本多正純が宇都宮に入封され、加納御前の孫忠昌が下総古河藩に転封となったため深くうらむようになったと言います。

そこで、異母弟の秀忠に、日光へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、釣天井を仕掛けて将軍を暗殺するという計画があると伝えたと言われています。

釣り天井事件が本当かどうかは別として、本多正純の改易は、家康の代から将軍家に親しく仕えた者でも、将軍家の意向に沿わない場合には排除されるようになり、将軍家の統制が強くなってきていることを表しています。

 また、この本多正純の改易は、家光への将軍代替わりの前に、過去の忠臣本多正純を排除しておこうという意図のもと行われたと言われています。

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