幕末の日本を翻弄した死の商人

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【幕末の日本を翻弄した死の商人】 より

 幕末、開国したばかりの日本には多くの外国人商人が押し寄せてきた。当時の日本の主要な輸出品は、銀や生糸。特に、銀は為替相場が西洋諸国に有利に設定されていたものだから、当時日本各地で採掘されていた銀は、瞬く間に海外へ流出していた。さらに、開国によって西洋諸国の力の強大さを見せつけられた幕府や諸藩は、あわてて軍制を整えるため小銃を中心に武器を買い揃え始めた。

なにしろ、太平の世が長く続いた日本では、幕末まで銃といえば火縄銃が一般的。そこへ、たとえ大雨でも消えることのない撃鉄を用いた銃を手にした西洋人たちがやってきたのだから、驚きは相当のものだったろう。外国人たちが、どんなに手入れの悪い(西洋では)旧式の銃を持ってきても、それは飛ぶように売れたという。
明治時代に三菱財閥の社長となった男爵・益田孝男は、当時の外国商人たちの商売を次のように語っている。

「其頃日本に来ていた外国商人は、皆な大したものではなかった。本国に立派な根拠を持った商人はいなかった。オリエンタル・バンク、ホンコン・シャンハイ・バンク、ジャーデン・マジソン、ネイズルランド・トレーディング・カンパニー。この四つの外は皆食い詰め者ばかりのやうであった。諸藩に武器や船などを売込むのが商売で、茶や生糸の商売を大きくやるやうになったのは、余程後のことである」

益田が語っているように、日本へやってきた外国商人は、どれもこれも一山当てることを目当てに来たような者ばかり。まじめに、末永く商売をやっていこうという気概を持つ者はほとんどいなかった。いわば商人というよりは、投機屋である。

そして長州征伐から戊辰戦争へと、動乱の始まりは、さらに商売を活発にさせた。これらの戦いは、けっして日本人の中だけで完結していたものではなく。有象無象の「死の商人」たちがうごめく、極めて国際的な戦争だったのである。国際化の要因は、これだけではない。1865年、アメリカで南北戦争が終結するとアメリカ国内はもとより、南北両政府に武器を売りつけていた商人たちは、大量の在庫を抱えるようになる。それが、日本に大量に流れ込んできたのだ。流れ込んできたのは、小銃や大砲だけではない。幕末に、新政府軍の購入した軍艦「甲鉄」は、戦争がもたらす利益に翻弄されたことで知られる軍艦だ。そもそも、この軍艦は南北戦争中に南部側がフランスに発注し建造していたものだった。ところが、完成直後に南北戦争が終結し発注元が消滅してしまった。仕方なくアメリカ政府(いわゆる北部)が引き取ることになったが、アメリカ海軍も整理縮小中。そこで、ちょうど江戸幕府からの軍艦発注を、この船で充当することにするのだが、日本に到着した頃には既に戊辰戦争が開戦。そこで、新政府側が入手することになったのである。

このように時には政府も絡んだ「死の商人」をめぐる顛末。そうした商人の中でも、よく名前を知られているのは、長崎のグラバー園で知られるトーマス・グラバーだ。名だたる「死の商人」の中で来日当初は、茶や生糸など「まともな」商品を扱っていたグラバーは、比較的まともな方かもしれない。ただ、なによりも利益を優先していた彼は、八月十八日の政変を見て、早くもその後の動乱を予見。さっそく倒幕派を支援することを決め薩摩・長州・土佐らに武器を販売して大もうけした。
そんな、名だたる「死の商人」の中でもっとも、怪しげな存在なのが、スネル兄弟である。兄はジョン、弟はエドワルド。国籍は不明。ある時はオランダ人、またある時はプロシア人、またある時はスイス人を名乗っていたというから、怪しさ抜群だ。彼らが歴史上に登場する最初は、1861年。横浜居留地で乳牛を飼育して外国人相手に牛乳を販売している、オランダ人兄弟としてである。これは、日本で始めて牛乳が販売された事例として記録されているものだ。この、スネル兄弟もグラバーと同じく最初から武器を生業にしていたわけではない。やはりグラバーと同じ時期から、武器販売に手を広げたようだ。牛乳の販売といい兄弟が機を見るに敏だったのは確かだったようだ。兄弟が販売した武器の中で、よく知られるのが長岡藩の家老河井継之助に売りつけたガトリング砲である。これは1門5000両。長岡藩はこれを二門と、さらに小銃を2000挺あまり購入している。近年の資料によれば、もともとガトリング砲を輸入したのはスイス人の商人ファーブル・ブラントで、スネル兄弟は長岡藩からの依頼で、買い付け双方から手数料を取っていたらしい。
兄弟の活動がもっとも熱心になるのは、戊辰戦争に突入してからである。鳥羽・伏見の戦いの直後には会津藩へ小銃800挺と弾薬類を販売している。これをきっかけに戊辰戦争中、兄弟は東北諸藩の武器の多くを取り扱うようになる。兄弟は、新潟に事務所を置き武器を売りに売りまくった。その総額は、当時の金額で15万ドルといわれている。この功績を認められたのか、兄弟の兄・ヘンリーは会津藩に軍事顧問のような形で招かれ平松武兵衛の名を与えられて武士となったのである。当時の会津藩士が残した日記には、「そもそも平松年頃三十歳前後、眉目清秀」とあり、さらに、「大抵の事訳を待たずして相弁ず」と日本語が堪能だったことも伝わる。

こうして戊辰戦争のバブルに酔った兄弟も東北諸藩が敗戦すると没落。そんな中、兄・ヘンリーは1869年に会津藩の元藩士らとカリフォルニア州に渡り、開拓事業を始めたと伝わる。商売にひた走る中で自らも尊皇攘夷思想に影響されてしまった結果なのだろうか。その後、1871年、ヘンリーは日本へ金策へ行くと姿を消したまま、帰ってくることはなかった。