http://legodaisuki.ashita-sanuki.jp/search.php?csrf=82cafaabf01c5e687f5ba867661ef59256c78682&search=%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E 【栃木の宇都宮の7。東北不動尊。】 より
宇都宮城の本丸の西にある謎のスポット、「東北不動尊」。
掛け軸を立体化したような???。伊藤博文が関係しているらしい。
楠公と彫られた石碑。「楠」の文字が欠けているのは何故。
ちなみに「東北」とは「旧満州の東北」のことだそうです。
https://hotokami.jp/area/tochigi/Htgty/Htgtytr/Dmzkr/146413/ 【東北不動尊】
東北不動尊(栃木県烏山駅)
お堂の中には中国を思わせる岩の上に、不動明王様がおいでになりました。
https://www.kokutaibunka.com/archives/2940【【明治の英傑たち】伊藤博文(3)知られざる晩年の苦悩とは】 より
しかし、こうした国内的展開の一方で、日清戦争の後、朝鮮半島にはロシアの勢力が浸透していた。
日清戦争により、朝鮮半島における清朝の勢力が後退した上に、李氏朝鮮、1898年以降は大韓帝国政府が、内部に様々な対立を抱えており、様々な勢力が日本やロシア、イギリス、アメリカといった外国勢力と提携することで、それぞれ自らの国内的地位を強化しようとしたからである。
そうした中で、ロシアの勢力拡大は著しかった。しかも、1899年の清朝における義和団事変の勃発によって、ロシアは満州に兵力を駐留させた。日本にすれば、ロシアが朝鮮半島に政治的影響力を拡大する一方で、背後の満州に軍事力を駐屯させるという事態になったのである。
朝鮮半島は日本の重荷だった
こうした中で伊藤は、日本の産業化を進めるため、あくまで外交的負担を軽減しようとした。そのため伊藤は、朝鮮半島に対する日本の勢力拡大を抑える代わりに、極東におけるロシアの勢力拡大を自制させようとする構想を立てる。
一般書では、日露戦争前の日本外交は満韓交換という概念で説明されるが、これは正確ではない。まず伊藤にとって、ロシアの満州権益を拡大させる一方で、朝鮮半島に日本の勢力を拡大しようとする選択はあり得なかった。
それは、日本の対外的負担を増加させる上に、ロシアの脅威を極東に呼び込むものであった。
とはいえ、ロシアの対応が不透明な中にあって、当時の桂太郎内閣は、日英同盟の締結に成功し、朝鮮半島に対するこれ以上のロシアの勢力拡大を抑止するため、朝鮮半島を含めた日本の国防を重視する方針をとった。
伊藤の構想が実現するかどうかは、何よりロシア側の対応次第であったが、最終的にロシア側は、日本との戦争を意図も予想もしないまま、強硬な姿勢を貫いた。そのため、明治37年2月、桂内閣はロシアとの開戦に踏み切った。
日露戦争の開戦、勝利によって、朝鮮半島は日本の国防にとって死活的な意味を持つこととなった。日露戦中、戦後の二度の日韓協約により、日本は大韓帝国の外交権を掌握し、伊藤は保護国となった韓国に初代統監として赴任する。
韓国併合に反対する
しかし、日露戦争後も韓国の内政は安定せず、しかも国内には依然として、欧米、特にアメリカの力を借りることで日本に対抗しようとする動きが存在していた。
韓国政府が自ら国内政治を安定させることができず、諸外国の勢力を朝鮮半島に引き入れようと画策する中、日本政府内では、将来的な韓国併合を不可避とする判断が大勢となった。
しかし、伊藤は、大韓帝国がそのような状態であればこそ、韓国の併合に反対した。伊藤にとって、韓国併合は欧米の反発を招きかねない上に、何より日本の負担を増加しかねなかったからである。
伊藤は韓国統監として、韓国の伝統的な統治階層と提携しながら内政改革を進め、韓国の統治を安定化することによって、逆に日本の韓国併合は不要になると考えた。
韓国の国内が安定化すれば、欧米の勢力が朝鮮半島に浸透する事態は回避され、それによって、日本の国防上における過大な負担は回避できる。
このように、伊藤の朝鮮政策は1880年代以降、その時々の情勢の中で、常に日本の対外的負担を軽減することを最優先として、推移、展開してきた。
とはいえ、伊藤が提携した韓国の伝統的統治階層は、皇帝やその他、多くの勢力と対立しており、そうした勢力は欧米に支援を求めたり、あるいは反乱を起こしたり、あるいは日韓併合運動を進めたりすることで、伊藤に抵抗した。
そのため、最終的に伊藤自身も、韓国併合を認めざるを得なくなり、韓国統監を辞任した。
伊藤は一貫して韓国併合に反対していたが、統監時代、一度だけ併合を容認したことがあった。それは日露戦争後、日露協商の締結交渉中、ロシアより、日本が満州におけるロシアの権利拡大を承認する代償として、ロシアが日本の韓国併合を承認するという提案を行った時である。
当時、伊藤は、外国と提携して日本に対抗しようとする韓国内の動きに警戒していた。そうした中でロシアが日本の韓国併合を承認するということは、韓国内の反日、反伊藤勢力に対し、その望みを絶つ効果が期待できたのである。
とはいえ、当時の日本にとって、満洲におけるロシアの権益拡大を容認することは、日英同盟に抵触するため、不可能であった。
近代的行政国家をつくろうとした
伊藤は、同じ長州出身の山県有朋とは異なり、自らの息のかかった関係者や自らが有能と考えた人材を官僚に就任させたり、要職に起用したりすることで、官僚機構の中に自己を中心とする派閥を形成することはなかった。
また、伊藤は民主主義などの原理的理念に従うよりも、既存の社会秩序の中で堅実な近代化を進めようとしており、そのため、大隈重信や自由民権運動などとむしろ対立することが多かった。
しかしその一方で、伊藤は、権力闘争としての政治活動よりも、近代的行政国家を確立するための政治活動を常に優先しており、そうした視点から独自の外交政策を展開し、明治天皇の最大の信任を得ていた。
伊藤は、そうした活動の一環として立憲政友会を結成したが、この決断は、明治政府内における伊藤の影響力をむしろ後退させ、その後の外交政策においても、朝鮮政策においても、伊藤の構想は挫折を余儀なくされる結果となった。
明治42年10月、伊藤はロシアとの交渉のため、ハルビンに到着したところを、朝鮮人によって暗殺された。晩年の伊藤は、その業績とは不釣り合いに政治的影響力を低下させており、伊藤の暗殺は、当時の政界にそれほどの混乱を引き起こさなかった。
とはいえ、明治期の政治、外交において、伊藤博文の果たした役割は決定的に大きかった。今日、明治期の日本に関する最新の研究成果は、一般国民にそれほど共有されているわけではない。明治期の日本を再評価するため、まずは伊藤博文に対する国民的理解が深まり、広がっていくことが望まれる。
戦争を知らない世代が見た旧満州の残像
私は歴史学者でも、研究者でもありません。ただ、日本の植民地時代に思いを馳せるのが好きな旅人に過ぎません。
幸いにもさまざまな縁があり、かつての満州国で暮らした方たちと出会って、いろいろな話を聞くことができ、このような本を書く機会に恵まれました。
私が住む朝鮮半島や、中国東北部、台湾の日本植民地時代については、個人によって評価が異なるので、その是非をどうこう言うつもりはありません。
私は、かつての満州の地を歩き、満州時代の日本人や中国人、朝鮮人がどのように暮らし、
どんなときに笑い、どんなときに泣いたのかを想像してみたかったのです。
私の旧満州への旅は、延辺朝鮮族自治州に属している延吉、龍井、図們などの小都市から始まりました。
抗日運動の舞台であり、開拓の地であり、今も朝鮮族の多い所です。
彼らの生活には今の韓国では見られない朝鮮の伝統や風習、言葉が残っています。
それがとても不思議であり、うれしいことでした。
次に訪れたのは、満州国の首都で、当時「新京」と呼ばれた長春。
当時の近代建築物である官公庁の建物の多くがそのまま残り、現在は中国政府の建物として使われています。
当時の建物をそのまま利用する、中国人の現実的な一面と、国辱的な歴史を二度と繰り返すまいと願う歴史観が感じられます。
さらに、旧満州最大の都市で奉天と呼ばれた「瀋陽」、満州の関門だった大連、日露戦争の激戦地だった旅順を旅しました。
個人的に、いちばんおすすめなのは龍井です。
長春、瀋陽、大連のような大規模な近代建築物はありませんが、映画館や銀行など小中規模の建物が並んでいます。
昔の東京や京城もこんな雰囲気だったのかもしれません。
郊外には朝鮮式の草ぶき家屋が残っています。
人力車や馬車も当たり前のように往来しています。もちろん、飲食の楽しみも多いです。
伝統的な朝鮮料理から独自の発達を遂げた延辺料理や、手が届きそうなほど近くにある北朝鮮の影響が濃い料理が楽しめます。
歴史の難しい話は抜きにして、まずは中国東北部に出かけてみませんか。
──著者・鄭銀淑
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