伊藤博文暗殺の真相は?

https://ameblo.jp/jjtaro/entry-10665351129.html  【伊藤博文暗殺の真相は?】

安重根は直接の殺害犯ではなかった。

$かつて日本は美しかった

 日露戦争終了直後の明治38年(1905年)11月17日、日本と大韓帝国の保護条約の方針が発表されると、韓国統監府が設置されることになり、伊藤博文が初代統監に就任しました。この頃、韓国の民衆パワーは公称100万人の一進会に結集されており、「李朝政府の外交権を日本に委任せよ」と大規模なデモが行われていました。伊藤が赴任してきた日にはソウルの南大門に「歓迎」の巨大な幕が張り出されました。

 伊藤は4年後の明治42年(1909年)10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡しました。現在、韓国では安重根は英雄となっています。

 元九州大学大学院客員教授の若狭和朋氏は伊藤博文暗殺の犯人は安重根ではないと指摘しています。氏によると伊藤博文には三発の銃弾が命中し、体内に残っていた二発の銃弾はフランス騎兵銃のものです。(もう一発は肉をそいで対外に出ている)安重根は7連発ブローニング拳銃です。まず、銃弾が異なります。伊藤に同行した貴族院室田義文も5発被弾し、犯人は安重根ではないと書き記しています。その内容の一部。

「駅の二階の食堂からフランス騎兵銃で撃った者がある。・・・右肩から斜め下に撃つにはいかなる方法によるも二階を除いて不可能である。そこは格子になっていて斜め下に狙うには絶好であった」

 室田義文は伊藤公の遺体の処置に立会い、右肩を砕いて右乳下に止まった一弾と右腕関節を貫通して臍下(せいか/へそした)に止まった一弾を現任しています。ところが不思議なことに、検事の調書には室田が「騎馬銃」について述べた記録はなく、安重根を裁いたこうはん記録のどこにも「騎馬銃」の文字は出てこないし、遺体の処置に当たった医師の談話にも「騎馬銃」は出てこない・・・

若狭氏はここで外務省外交資料館の「伊藤公爵満州視察一件」というファイルに以下の記載があるのを指摘しています。

「・・・真の凶行担当者は、安重根の成功とともに逃亡したるものならんか。今、ウラジオ方面の消息に通じたる者の言うところに照らし凶行首謀者および凶行の任に当たりたる疑いあるものを挙げれば左の数人なるべきか」として25人の名前を記しており、安重根の名前もこの中にありますが、この25人は「韓民会」というロシア特務機関の影響下にある組織でした。つまり、安重根を犯人にしたてあげて外交的にも内政的にも幕引きにしたということです。ロシア特務機関がなぜ伊藤を狙ったかは若狭氏の記述は長いので簡単にいうと、日露戦争前に伊藤はロシアと協商を結ぼうとしていたものの、その後、日英同盟が結ばれ、日露開戦が予想より早くなり、そのためロシアは敗北した。対ロシア謀略の中心人物が伊藤であると判断しており、裏切り者として復讐したというものです。

 よく言われているのは伊藤博文は日韓合邦慎重派で、日韓合邦に反対する安重根は伊藤を暗殺して日韓合邦を加速させたバカなテロリストだったというのがありますが、伊藤暗殺が日韓合邦の思惑の外であれば話はあってきます。少なくとも安重根の銃弾は伊藤には命中しなかったのは間違いないでしょう。彼はテロリストとしても成果は無く、韓国でいう義士としても成果は無かったわけです。

参考文献

 「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著

 「歴史通」2010/7『安重根は犯人ではない』若狭和朋

参考サイト

 WikiPedia「伊藤博文」「安重根」


http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1774286.html  【なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3】

しばやんの日々さんのサイトより  http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/265/

<転載開始>

前回まで2回に分けて伊藤博文暗殺事件について書いてきた。

通説では犯人は安重根という事になっているが、安重根が拳銃を撃ったことは間違いないものの、伊藤の最も近い位置にいた室田義文の証言によれば、安重根の用いた銃の弾丸と、伊藤の体に残された銃の弾丸とは異なり、また伊藤の体に残された弾丸は、右肩を砕き右乳下に止まった一弾と、右肩関節を貫通して臍下に止まった一弾であったという。室田の証言が正しければ、安重根が撃った5発の弾はいずれも伊藤には当たらず、伊藤は別の人物によって上方から狙撃され命中したものが致命傷になったことを意味する。

室田義文は詳細な証言を残したのだが公式書類から抜き取られて、前回紹介した若狭和朋氏の論文(「伊藤博文暗殺■安重根は犯人ではない」)の表現を借りると、わが国政府はこの事件を「安重根の凶行として幕にした」、ということになる。

他にも同様な証言があったようなのだが、ではなぜわが国政府は室田らの証言を隠蔽したのだろうか。本当の犯人は誰だったかを考える前に、何のために伊藤博文がハルビンを訪問したのかを先に考えることにしたい。

前回の記事で紹介した若狭氏は、伊藤博文のハルビン訪問の目的は朝鮮問題ではなく満州問題であったと述べている。

満州とは現在の中国東北部を指すが、当時の満州はどんな状況であったのか。Wikipediaの解説が解りやすい。

「ロシアは日清戦争直後の三国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897年のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として1898年3月には旅順大連租借条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得して満洲支配を進めた。

20世紀初期の日本では、すでに外満州(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。1900年(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)。

日露両国は1904年(明治37年)から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は苦戦しながらも優位に展開を進めて戦勝国となる。これにより南樺太は日本に割譲され、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招くことになった」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD

韓国については各国ともわが国の自由裁量権を認めていたのだが、満州についてはアメリカも清国もロシアも狙っていた地域であった。そして伊藤博文が暗殺されたハルビンは、清国の領土(満州)ではあったが、ハルビン駅はロシア東清鉄道付属地内であった。

Wikipediaによると、ハルビンには19世紀末から白系ロシア人が急激に増加し、ロシアは1907年には中東鉄道管理局による『ハルビン自治公議会章程』を発布し、埠頭区(現在の道里区)、新市街(現在の南崗区)の7,000平方キロメートルの地域を市区と定めロシアの公議会の管轄として清朝と対抗したとある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%B3%E5%B8%82

ロシアはこのように、日露戦争で敗戦後も着々と満州の権益拡大をはかっていたのだ。

前回紹介した若狭氏の論文では伊藤のハルビン訪問の目的についてこう書いている。

「満州はアメリカ、清国、ロシアがそれぞれ食指を動かしているのだから、最悪の場合、日本はこれら三国と敵対することになりかねないとの不安が伊藤の頭を支配していた。後に満州事変に始まる日本の悲劇は伊藤の不安が的中したものともいえる。

…こうした不安を抱いて、伊藤博文は満州に『最後の御奉公』に出かけていったのである。満州問題の根本的な解決の下準備の方途を探るべく伊藤は満州に出向いたのだ。…

伊藤とコ蔵相の会見には、何か重要な目的があるものと推測するのは不自然ではない。清国政府はそのように考え、盛んに情報の収集・解析に努めていた。清国側には日露の接近により、将来、満州問題について清国にとって非常な不利益が生じるとの観測が支配的であった。

そして、伊藤は凶弾に倒れるのである。安重根の『義挙』を愛国至誠の行動とすますのは安易に過ぎると言わざるを得ない。」(『歴史通(2010/7号)』p.84)

安重根が使用したブローニング拳銃はベルギーのFN社製のもので、拳銃の製造番号(262336)から、1906年9月8日に「クンフト社」に販売されたものであることが解っているのだそうだが、この拳銃に関して若狭氏は興味深いことを書いておられる。

「大野芳*氏は次のような事実を指摘している。つまり第一次世界大戦の契機となったオーストリア皇太子夫妻暗殺に使われた拳銃が、同型の次のタイプだというのだ。次からは私の推測である。

クンフト社ならば販売先はロシア陸軍である。皇太子夫妻を暗殺した犯人は『セルビアの民族主義の青年』だと、高校教科書は書く。

だが、これは間違いである。犯人たちはセルビア陸軍の青年将校たちであり、レーニンの同志であった。世界大戦を共産主義革命の起点と考えたレーニンはセルビアの国王や閣僚たちをクーデターで殺し、セルビアを制圧していたのである。クーデターを起こした将校たちはレーニンから支給された武器で武装していたのである。」(同上書 p.82)

*大野芳:ノンフィクションライター。『伊藤博文暗殺事件』の中にその記述がある。

要するに若狭氏は、安重根は伊藤博文の真の暗殺者を隠すための存在にすぎず、真犯人はロシア側にいるという考え方であるが、クンフト社によってロシア陸軍に販売された拳銃が、どういう経緯でレーニンに渡ったかについては、この叙述ではよく解らない。

確かにロシアには不審な点がいくつかある。

事件の日、伊藤をプラットフォームに連れ出したのはロシア蔵相ココーフツォフで、銃撃の時に伊藤のすぐそばにいながら、かすり傷ひとつ負っていない。

また、前述したとおり、事件の起きたハルビン駅はロシア東清鉄道付属地内であり、不審な人物をVIPに近づかせない義務はロシアにあったはずだが、ロシア軍や警察が多数いた中で、ロシア兵の間から(股の下からという説もある)、拳銃を持った韓国人を伊藤らのすぐ近くにまで接近させて拳銃を発射させてしまった。そしてロシア軍や警察にも負傷者はいなかった。

さらに、ロシア国境裁判所は、安重根らは韓国人であるから、ロシアには裁判管轄権がないと決定した…。

直感的にはロシア関与の可能性はかなり高そうなのだが、もしそうだとすると、ロシアが伊藤を暗殺する動機は何処にあったのか。若狭氏によると、ロシア皇帝にとって伊藤は許しがたい存在であったという。

若狭氏の論文のポイントを引用する。

「日露開戦の前には伊藤は日露協商を唱えて、日英同盟に反対の先頭に立っていた。日英同盟を主導したのは山縣有朋や桂太郎であり、日露協商を主導したのが伊藤や井上馨たちである。…

しかし、…満州のロシア軍の態勢は整うばかりである。日本参謀本部の戦略は、ロシア軍の態勢が整う以前に決戦を臨むことであり、ロシア軍の態勢が整った後には日本には勝ち目はないという判断であった。…明治35年(1902)1月30日、日英同盟は条約として署名され…た。これはロシアにとっては完全な不意打ちであった。

ロシア皇帝の戦略では、あと2年後に日露は開戦すべきであった。ロシアにしてみれば態勢の整う前に戦いを日本から強いられたものであり、その『策略』の中心部にいたのが伊藤博文にほかならなかった――ロシアはそう見たのである。」(同上書 p.88)

Wikipediaによると、伊藤は日露開戦までは日露協商の立場から満韓交換論を提唱してロシアとの交渉にあたっていたが、山縣や桂は、仮に日露協商が成立しても長続きせず、ロシア側がこれを破棄することは確実で、戦争は避けられないのなら相手の準備が整わない内に早く手を打った方が良いと考えていた。

1902年の日英同盟で、わが国はイギリスを後ろ盾としてロシアに対抗する方針に転じ、1903年8月にわが国はロシアに満韓交換論を提示したがロシアはこれを拒否し、逆に朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけてきた。これは事実上ロシアの支配下に朝鮮半島が入ることを意味し、当時の日本としてはのめる提案ではなく、翌1904年日本はロシアと国交を断絶。満韓交換論は完全に消滅し、日露戦争へと向かうことになる流れだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E9%9F%93%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E8%AB%96

ロシア海軍軍令部編纂『一九〇四・五年露日海戦史』という本には、当時のロシアの戦略が書かれていて、その内容はロシアは朝鮮を全面征服し、馬山浦を完全に根拠地にして、対馬、壱岐を基地化し、日本を完全に無力化する計画であったという。

もし朝鮮半島と対馬・壱岐がロシアに占領され、そこからバルチック艦隊が日本海を最短距離で進んでわが国に攻撃をしかけてきたとすれば、日本連合艦隊が日露戦争に勝つことは厳しかったことは間違いなく、もしわが国が敗れていたら、明治時代に多くの領土がロシアに奪われたとしてもおかしくなかったと思う。

だからロシアにとっては伊藤博文は日露協商・満韓交換論路線の裏切者であり、それにもかかわらず伊藤博文が、復讐心に燃えるロシアに出向いたことが結果として自らの寿命を縮める原因となってしまったことになる。

とは言いながら、若狭氏はロシア政府や皇帝の意志が伊藤暗殺にあったと考えている訳ではなく、ロシアの暗殺史は日本人の発想の外にあるとも言っている。

「日露戦争にロシアの敗色が兆しはじめた時期に、ロシア各地にストライキや暴動が頻発した。明石元二郎やレーニンの同志たちの姿が見える。

バクー油田、プチーロフ工場のストライキ、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの反乱、怪僧ラスプーチンの暗殺、ゼネストの広がりとロシア国内は政治危機の様相を呈してきた。この混乱を背景にポーツマス条約は成立した。」(同上書p.89)

若狭氏の論文は、殺人犯の黒幕がロシアの「特務機関」なのか、レーニンに近いグループなのか、どちらとも読めるような書き方になっている。ひょっとするとレーニンは「特務機関」の中に、工作員を送り込んでいたのだろうか。

また若狭氏は、わが国とロシアとの間に水面下でどのような交渉があったかについては何も触れていない。ただ、最後に「日本は事件を糾明するよりは、朝鮮青年を『犯人』として処刑することにロシアと『外交的に』同意した」とまとめているのだが、ロシア側の資料など確かな資料が出てこない限りは真の犯人グループを特定することは難しいということなのだろう。

わが国政府もロシアに疑いの目を向けたと思うのだが、なぜ真犯人をつきとめることなしに、安重根を犯人とすることでロシアと『外交的に』同意したのだろうか。

わが国が『外交的に』ロシアと同意できるケースとして考えられるのは、犯人を追及しないことで手を打った方がわが国にとってプラスである場合に限られると思うのだが、そのようなケースは、

①ロシアの犯行と分かっていながら、裏交渉でわが国に有利な条件を引き出すことに成功した場合

②犯人をあまり追及するとわが国の立場が悪くなることがわかっている場合(真犯人がわが国側の権力に近い人物に繋がるなど)

のいずれかに限られてくるだろう。

①のケースとしては、

たとえば日韓併合推進派にとっては、伊藤がいなくなったことはチャンスととらえた可能性がある。また、ロシア側に非がある場合は、わが国が事件の追及を緩めることで、水面下で満州権益の確保などの条件闘争を有利に進めたことも考えられる。

あるいは将来的に「韓民会」勢力を温存したほうが、ロシアの弱体化につながるという判断があったのかもしれない。

また②は、わが国の方に伊藤暗殺の黒幕がいたケースである。

ネットなどで検索していくと、伊藤のライバルであった山縣有朋や、政界の黒幕的存在であった杉山茂丸、レーニンに接近し機密工作により日露戦争を勝利に導いた明石元二郎の名前がでてくるようだ。

この事件に関しては多くの史料が伏せられたままなので、さまざまな説がありうるのだが、いずれの説も、新たな資料でも発掘されない限りは、立証困難だと思う。

話を安重根に戻そう。

安重根が伊藤博文を暗殺しようとして拳銃の引き金を引いたことは間違いがない。

彼が撃った弾丸は伊藤博文には当たっていなかったようだし、当たっていようがいまいが彼の行為は結果として日韓併合を早めたことになるのだが、どういうわけかお隣の国では、この人物を今も「義士」と呼び、国民的英雄扱いにしているようだ。

しかし、普通に考えれば安重根は単なるテロリストか、あるいはロシアからの指令で動いただけの人物なのだが、このような人物を「偉人」として教育しているようでは、お隣の国に世界から尊敬されるような人材が育つとは思えない。

竹島を不法占拠していることだけでなく、対馬市観音寺の仏像盗難まで正当化するのも同根だと思うのだが、このような不法行為を是とする教育をこれからも続けているようでは、隣の国はいずれ国際的信用を失い活力を失っていくことになると思う。

伊藤博文の暗殺事件が起きる18年前の明治24年(1891)5月に、来日中のロシア帝国皇太子ニコライの通る沿道警備の現場において、巡査の津田三蔵が、ニコライをサーベルで斬りつけ負傷させた事件があった(大津事件)。

若狭氏はわが国とお隣の国の教育スタンスの違いを的確に述べておられるので、最後に引用させていただくことにする。

「わが国ではロシアの皇太子ニコライに斬りつけた大津事件の津田三蔵巡査は教室の偉人ではない。むしろ、本件に腰を抜かした政府の圧力に屈することなく『罪刑法定主義』を貫いた大審院長の児島惟謙の姿勢を学べと教えてきたのである。」(同上書 p.89)


https://matome.naver.jp/odai/2136671410411695501 【【残念】”安重根”ではなかった!!伊藤博文暗殺の犯人はロシア特務機関!】


https://historivia.com/ito-hirobumi/968/   【伊藤博文暗殺の深層 黒幕はロシア】