宇都宮城址公園

https://yuki.liblo.jp/archives/20683989.html  【宇都宮城址公園】 より

宇都宮城址公園…『ここは、近世宇都宮城の本丸があったところです。宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいた本丸の一部復元、中心市街地の活性化の拠点づくり、防災の拠点づくりを3つの柱として整備したもので、復元した土塁や堀、櫓、土塀は、江戸時代中期の姿を現代によみがえらせたものです。宇都宮城のはじまりは、平安時代の後期に築かれた館だといわれています。中世には宇都宮氏が500年にわたって城主をつとめ、戦乱の世を乗り切っていきます。江戸時代には譜代大名の居城として威容を誇りました。また、釣天井伝説の舞台、関東七名城の一つとしても有名です。この城址公園は、宇都宮の新しいシンボルであり、次代を担う子どもたちに宇都宮の歴史を伝えるとともに、市民や多くの来訪者の憩いの場です。』

築城年代は平安時代に遡り、藤原秀郷もしくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が二荒山の南に居館を構えたのが始まりとされます。宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座しており、宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられました。以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となりました。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれます。

戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったといいます。戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠されたこともありましたが、小田原征伐に続く宇都宮仕置ではその舞台となり、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城(なお、当時の宇都宮氏は後北条氏の侵攻を防ぐために多気山城に拠点を移していました)。宇都宮氏は秀吉から所領を安堵され居城を元の宇都宮城に戻すように命じられます。その後羽柴姓を授かるなど秀吉との仲は良好でしたが、慶長2年(1597)に突如改易。宇都宮氏改易後の慶長3年(1598)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めました。

慶長6年(1601)12月28日には関ヶ原の戦い後の京警備で功を認められた奥平家昌が10万石で入り、かつて宇都宮氏の菩提寺の一つであった田川対岸にある興禅寺を再興するなど城下町の機能を復興。更に元和5年(1619)、徳川家康の懐刀といわれた本多正純が15万5千石で宇都宮に入り、宇都宮城と城下の改修を行いました。縄張りを拡張して新たな郭を設け、本丸など城郭周囲を掘削し湧水を張って幾重の水濠とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とします。こうして正純は宇都宮城を近世城郭とする一方、城下の日光街道と奥州街道を整備して町割を行い、城内の寺社群(延命院、長楽寺など)を街道沿いに再配置するなど城下の防御能を向上させると同時に、城内に将軍宿泊所となる本丸御殿を建設し、また宇都宮宿の宿機能・駅機能を整備するなど日光社参に関する設備向上を促進。この大改修工事の結果、宇都宮城下は城下町、門前町、宿場町の各機能を持つ都市に再編されました。宇都宮城改修に際し、正純は幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしましたが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622)に正純は改易(宇都宮城釣天井事件)。正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となりました。その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わりました。江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で治め幕末を迎えます。

宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失(宇都宮戦争)。この時、宇都宮城下戸数約3000戸のうち8割以上の約2000数百戸が焼失し、また寺町群も48寺院が全半焼したと伝えます。宇都宮城には一時大鳥圭介ら旧幕府軍が入りますが、直ぐに河田佐久馬、伊地知正治、大山弥助、野津七次、有馬藤太ら率いる新政府軍(薩摩藩、長州藩、鳥取藩、大垣藩などの藩兵隊)に奪還され、宇都宮藩奉行の戸田三左衛門に引き渡されました。後、大津港に抑留されていた藩主戸田忠友も帰還。これ以降、宇都宮城は東山道軍の対会津戦争の拠点となり、板垣退助をはじめ東山道軍の幹部等が駐屯、宇都宮藩兵は新政府軍の一部隊として下野国内から白河、会津と転戦。前藩主の戸田忠恕は同年5月27日(7月16日)に宇都宮に帰城しますが間もなく他界。旧暦(同年6月)、宇都宮城内には下総野鎮撫府が古河から移転。また、明治4年に真岡天領が廃され真岡県が出来ると、鍋島道太郎が真岡知県事に選任され、陣屋を真岡から宇都宮城内に移しました。同年、城内に東京鎮台第4分営第7番大隊が駐屯。この部隊はその後の明治7年に東京鎮台歩兵第2連隊第2大隊に改称。明治17年にこの部隊が下総国佐倉に移駐となると、宇都宮城内は静かになり、やがて明治23年には城郭一帯が民間に払い下げとなって、城内には御本丸公園が整備され、市民の憩いの場として様々な催しが行われたそうです。一方、城門などの痕跡は払い下げによって失われ、城郭の面影は徐々に消えていきました。また、濠は西館濠、地蔵濠などの内堀が戦後まで残されており、鯉の養殖や蓮の栽培がされていたそうです。戦後、日本政府による戦災復興都市計画の策定に伴い、昭和21年10月9日には宇都宮市も戦災都市に指定され、城跡の遺構は撤去され市街地へと生まれ変わりました。昭和30年代頃までは現在の東武宇都宮百貨店近辺にも大きな水濠が残存していましたが、衛生上の事情を理由に埋め立てられました。

現在、宇都宮城本丸の一部が外観復元されています。復元されたのは本丸土塁の一部と土塁上に建つ富士見櫓、清明台櫓、および土塀で、土塁内部は宇都宮城に関する資料を展示。復元された櫓と土塀は木造本瓦葺きで白漆喰総塗籠で仕上げられています。復元に使用された木材は、土塀の柱と梁が青森産のヒバ材なのを除けば、栃木県内産の桧・杉・松が用いられています。土塁の構造体に限っては鉄筋コンクリート造。平成19年3月25日に完成。

近世・江戸時代に改修され、輪郭と梯郭形式を合わせた土塁造りの平城でした。本多正純の頃には天守があったといわれていますが、清明台櫓を事実上の天守としていました。また、徳川将軍の日光東照宮参拝の際に将軍の宿泊施設として利用されました。明治初頭の戊辰戦争の際に焼失し、第2次世界大戦後に都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていませんが、本丸の一部の土塁が現存しており、本丸の土塁、堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元され、宇都宮城址公園として一般に公開されています。今後、本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画があるそうです。

現在確認できる遺構としては、埼玉県川口市本町の錫杖寺に明治41年に宇都宮城の門を解体して移設再建されたと伝わる山門が現存。栃木県宇都宮市瓦谷町萬松寺の山門は明治時代に宇都宮城の門を宇都宮市塙田の成高寺へ移築後に萬松寺の山門として再移築されたと伝わります。現存する門は草屋根を近年瓦葺き屋根の門に改修されたもの。今小路門が明治時代に城郭一帯が民間払い下げになった際に移築されたと伝わる門が宇都宮市北部の民家に現存。

富士見櫓…『宇都宮城本丸の土塁南西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ3間(5.9メートル)×4間(7.9メートル)と記録されています。富士見櫓の名のとおり、まわりに高い建物がなかった江戸時代には、遠く富士山の姿が望めたと考えられます。』

清明台…『宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ3間(5.9メートル)×3間半(6.9メートル)と記録されています。清明台のあった部分の土塁は、ほかの部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかといわれています。』

標柱より…『戸田忠恕は、安政3年(1856)年に10歳で家督を継ぎ、宇都宮藩主となったが、幕末維新にあたって勤皇の志深く、山陵修復や戊辰戦争に力を尽くし、明治元年(1868)5月、わずか22歳で没した。この碑は、明治30年(1898)に特旨を以て従三位が贈られた後、翌31年に旧藩士や有志が、忠恕の功績を不朽に伝えるため建てたもので、その波乱に富んだ生涯が、漢文体で碑全面に刻まれている。』

南新町の桃太郎山車…『南新町の桃太郎山車は、もともと明治12年(1879)に建造された棟上げに奉納される「上棟柱建て」の山車であったが、明治41年(1908)に桃太郎の人形に載せ替えたものである。大正2年(1913)まで菊水祭で活躍した。大正2年当時と思われる写真には、山車の他に桃太郎の家来である犬・猿・雉の着ぐるみを着た者が行列に加わっている。なお、桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻き姿に陣羽織、「日本一」の幟を立てた姿になり、犬や雉、猿が家来になったのは、明治時代からである。こうした桃太郎像は、明治の国家体制に伴い周辺国を従えた勇ましい日本国の象徴にされ、各地で山車の恰好を意匠として取り上げられた。この山車の一部は長い間、南新町下組自治会の倉庫に保管されていた。山車の寄贈を受けた「宮のにぎわい山車復活プロジェクト」により、失われていた桃太郎人形及びお供の犬・猿・雉の着ぐるみの復元、欠損及び劣化した土台・高欄・車輪・車軸などの修復が行われた。復元事業は平成28年3月に完了し、「桃太郎山車」一式は同年4月、「宇都宮まちづくり推進機構」に寄贈された。「南新町下組桃太郎」の銘板には、平成25年の台風の折に倒伏した県指定天然記念物「新町のケヤキ」を材料として使用している。復元にあたっては文化庁の文化芸術振興費補助金(文化遺産を活かした地域活性化事業)、栃木県、宇都宮市の補助金、市民の皆様などからの寄付をいただいた。』

新石町の火焔太鼓山車…『新石町の火焔太鼓山車は、江戸時代弘化2年(1845)に建造されたものである。菊水祭には弘化4年(1847)、慶応3年(1867)、明治6年(1873)、17年(1884)、23年(1893)、41年(1908)、大正2年(1913)に繰り出された。火焔太鼓山車の一部は、太平洋戦争の際の宇都宮空襲時に焼失を免れ、その後も新石町に保管されたが、昭和55年(1980)宇都宮市に寄贈された。市では、その一部を宇都宮城址公園清明館歴史展示室などで展示してきたが、「宮のにぎわい山車復活プロジェクト」により平成26年に山車全体が復元された。同年10月の菊水祭では、約101年ぶりの復活巡行が行われた。なお、火焔太鼓とは、舞楽に用いる太鼓であり、外側に火焔形の装飾を持つ。この火焔太鼓の意匠を、山車装飾に取り入れたのが火焔太鼓山車である。菊水祭で、長らく火焔太鼓山車を使用したのは新石町であり、新石町の山車といえば火焔太鼓山車と呼ばれたほどである。組み立てた時の高さは約9mに達し、宇都宮城の城門などをくぐるために、山車上部を後方に倒す仕掛けが施されている。復元にあたっては文化庁の文化芸術振興費補助金(文化遺産を活かした地域活性化事業)、栃木県、宇都宮市の補助金、市民の皆様などからの寄付をいただいた。』

百間堀跡…『この辺りには、宇都宮城を守る百間堀がありました。幅24間(約43m)、深さ3間2尺(約6m)、北は三の丸の太鼓門から南は宇田門まで、およそ100間(約180m)あったので、この名が付けられました。市指定天然記念物である「大いちょう」は、この堀の内側の土塁上に立っていると考えられます。』


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