http://www2.ucatv.ne.jp/~jata-45.snow/c-rekisi.htm 【宇都宮城 耳よりな話】
小豆坂 「あずきざか」 宇都宮市旭町 元体育館北側の坂
その昔坂の両側に笹竹が生い茂り、風が吹く毎に笹の葉がこすれ、その音が小豆を洗う音に似ていたことから呼ばれるようになったものです。
狸坂「たぬきざか」 宇都宮市一条町1丁目北端の坂
当時の事とて、たぬきや、むじながひんぱんに出没したので名付けられたのでしょうか。
首切り坂「くびきりざか」 宇都宮市一条中学校北側の坂
なんともぶっそうな名前ですが、昔、この付近に刑場があり、罪人の首を洗う池があった事からつけられたもの。
千歳坂 「ちとせざか」 宇都宮市一条中学校南側の坂
城内でまかなわれる野菜畑があったところ、千歳の字を充てて「千歳坂」と呼ばれたそうです。
和尚塚 「おしょうつか」
宇都宮市の戸祭2丁目地内に「和尚塚」と呼ばれる小高い塚があります。この塚は宇都宮16代城主正綱の弟、戸祭備中守高定、つまり、後に出家した雪江良訓の200年忌供養の為に、亨保9年(1724年)に築かれたものです。
おしどり塚
「沙石集」の作者、無住法師が、五代城主宇都宮頼綱の妻となった叔母を頼って、宇都宮を訪れた際に、里人から聞いた話をのちに「沙石集」に収めたといわれることに由来しているようです。
ちなみに、説話「おしどり塚」とは、こんなあらすじです。
「鎌倉時代のころ、この辺りを流れている求食川「あさりかわ」で、あるとき、猟師が一羽の雄のおしどりを射止め、その首を切り取り身体だけを持ち帰った。翌朝の事、昨日と同じところに今度は雌のおしどりがいた。猟師はまたもそのおしどりを射ると、その翼の下から昨日のおしどりの首がしっかりと抱きかかえられているではないか、猟師は驚き、自分の浅ましさに気づくと共に、おしどりの愛情の強さに心をうたれ、今までの殺生を悔い改め、おしどりの石塔を建てて永く供養した。」 以上があらましですが、全国にもこれに似たような説話があるようです。
およりの鐘 宇都宮市大通り
梵鐘はもともと東勝寺(廃寺)のものでしたが、後に荒尾崎に移りました。しかし、宇都宮氏の滅亡により廃寺となりましたが、鐘楼のみが残った為に、のち、城下の時の鐘として親しまれたそうです。昭和に入ってから現在の宝蔵寺に移されたものです。
「おより」とは、寝る意の尊敬語で、夕暮れになるとその時刻に撞いたのだろうと思います。
大砲発射の碑 宇都宮市石井町
宇都宮藩の砲術士 加藤義重が石井町のこの地で大砲の発射訓練をして36町「約4キロメートル」の距離まで砲弾が飛んだことを記念して建てられたものです。
戊辰の役戦死者の墓 宇都宮市西原1丁目
六道の交差点の東側角に、石の鳥居が立っております。この辺りは、六道口と云って、宇都宮城を奪回しようとする新政府軍と先に占領した旧幕府軍との間で壮烈な戦いが繰り広げられた場所ですが、この戦いでは双方共に多くの戦死者を出し、旧幕府軍の死者はそのまま、路上に遺棄されたままでありました。あまりの事にみかねた住民がこの場所へねんごろに埋葬したところです。
がっから橋 宇都宮市昭和町地内
県庁から北西部にあります昭和小学校のそばに、その昔、「がっからばし」と呼ばれた橋があったようです。今はまったくその名残りもありませんが、このあたり求喰川「あさりがわ」と称された小さな川が流れていたらしく、その川に懸かっていた石の橋を、お城の殿様が下駄をはいて渡ると「がっから」と聞こえることから名付けたと伝えられております。
宇都宮の伊賀町 宇都宮市西原町
前述の戊辰の役戦死墓より歩いて数分の所に松嶺山報恩寺があります。 この辺りは江戸時代の終わりまで伊賀町と呼ばれていたところでした。 忍者の里、三重県の伊賀とは関係ありませんが、 この「伊賀町」の名称は、中世、宇都宮氏の時代に芳賀伊賀守ゆかりの土地であったために名付けられたものといわれております。この辺りは本丸より西の方角で、城の西の守りである六道口を警備するための屋敷があったところでした
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