亀が丘城(宇都宮城別称)について

http://www2.ucatv.ne.jp/~jata-45.snow/k-siro.htm 【亀が丘城(宇都宮城別称)について】より

宇都宮城「別称亀が丘城とも云う」の築城がいつの頃から始まったかは、諸説がいろいろあり、はっきりした事が解っておりません。

文献が少なく推測の域ですが、いまのところは、940年藤原秀郷が館を構えたことが始まりではないかと云われています。

又、宇都宮氏に始祖である藤原宗円がここを本拠地として、代々宇都宮氏の居城になったともいわれております。当初は規模も小さく、せいぜい200m四方といわれていることから、近世の天守閣を持った姿とはほど遠い館であったろうと考えられます。

その後、元和年間に城主となった本多正純が、城の大改築、町割りの変更などで、本格的な近世城郭としての形をつくりあげました。又、別名を「亀ヶ丘城」とも呼ばれ平地に盛り上がるようにつくられたため、亀が横たわっているように見えたためであろうと思われます。

又、正純のいた頃には天守閣があり、本丸の広さ13000平米、御殿の広さが400坪近くあったともいわれております。


http://www2.ucatv.ne.jp/~jata-45.snow/c-jizo.htm  【「宇都宮城」 南西の守り 地蔵堀 】より

宇都宮市の一条2丁目付近は地蔵堀と呼ばれた貯水池のような堀がありました。 又、すぐ下手には城の備蓄庫である米倉があった御蔵町があります。

ここより西へ向かうと 戸田家菩提所である英厳寺に至り、その坂の途中に小さな延命地蔵堂があります。

戦後になって、この付近の下水道工事をした折り、土中より大量の籾が発見されて地元の人の話題になった事があります。 このことによって、宇都宮藩の備蓄蔵があった証明にもなったわけです。高台にある延命地蔵尊この辺り(宇都宮城東南部)も、城の東側へ向かって幕府軍が攻め入ったところです。

宇都宮城関連史跡 「亀井の水」 所在地 宇都宮市河原町地内宇都宮市の一条2丁目付近は地蔵堀と呼ばれた貯水池のような堀がありました。 又、すぐ下手には城の備蓄庫である米倉があった御蔵町があります。

ここより西へ向かうと 戸田家菩提所である英厳寺に至り、その坂の途中に小さな延命地蔵堂があります。

戦後になって、この付近の下水道工事をした折り、土中より大量の籾が発見されて地元の人の話題になった事があります。 このことによって、宇都宮藩の備蓄蔵があった証明にもなったわけです。

亀の形をした置石があるのみ往時は奥州街道と呼ばれて、行き交う人で賑わったと思われますが、 現在は人通りの少ない裏通りで、小さな交差点になっています

http://www2.ucatv.ne.jp/~jata-45.snow/c-ana.htm 【亀ヶ丘城の抜け穴 (宇都宮城)謎の抜け穴】 より

宇都宮市から西へ4キロ程の大谷町で陥没事故があり、全国的に知れわたってしまいましたが、それ以前、昭和47年に市内で道路の陥没事故がありました。「もしかしたら、宇都宮城の地下道ではないか?」との噂が流れました。

市内の数カ所から「不審な抜け穴」が発見がされ、いずれも元藩士の屋敷跡から穴が発見されて、大寛町、材木町、旧三条町、松が峰など数カ所から抜け穴と断定できるものが確認されています。

誰が掘ったかということになりますと、推測ですが、釣り天井の主人公、本多正純だろうといわれております。おそらく、元和6年(1620)から7年にかけての工事だろうと推測されます。城側の抜け穴は、おそらく二の丸奥御殿か、南に面した庭ではないかといわれております。

地下間道の様子

では、抜け穴「間道」はどのようになっていたかと云いますと、横幅が1メートル、高さが1.5メートルほどの穴で、10メートルほどの間隔で両側に待避所を設け、手燭を置く台があり、さらに100メートル毎におどり場を設けて、要所、要所に、二股にわかれる迷路を作ったっのではないかと云われております。

さらに巧妙なのは、出口付近には、お堂などを先に建てておいて、その後に縁の下を垂直に掘り下げ出口をカモフラージュしたと思われます。

勿論、極秘のために、図面は残されておりませんし、ごく限られた人数のため、その目的などは謎につつまれ、今となっては推測するしかありません

http://www2.ucatv.ne.jp/~jata-45.snow/c-gekido.htm  【激動期に生きた若き藩主「戸田忠恕」】より

安永3年(1774)、島原城主戸田忠寛が41代の宇都宮城主として入部してから、ようやく頻繁に続いた国替えが止み、47代忠友を最後に明治維新を迎えたわけです。

「財政で苦しむ宇都宮藩」

 嘉永3年(1850)に忠明が13才で家督をつぎましたが18才で若死をしてしまいました。そのあと安政3年(1856)に五男、戸田忠恕「とだ ただゆき」 幼名 綏之助「やすのすけ」が、わずか10才で46代宇都宮城主となりますが、それは前途多難な道のりとなって、 幼主二代と続く宇都宮藩は、のち幕末の荒波に揉まれることとなります。

幼い藩主忠恕を補佐しておりましたのが、縁筋の家老間瀬忠至「ませ ただゆき」でありました。借金漬けの藩財政建て直しのために、まず、藩台所の問題にとりくみました。そのひとつに、富商からの借り入れ金を50ヶ年年賦、さらに無利息という、ウルトラCをやってのけ、借金の返済額を軽減しました。又、新田の開発をしたり、その間に、金策に駆けめぐったり、幕府に篠井金山の採掘願いを出したり、朝鮮人参の栽培などに取り組みましたが、あまり効果は得られなかったようです。

「藩主忠恕 隠居謹慎を命じられる」

  一方、万延元年(1860)に「坂下門外の変」があり、その善後の処置に奔走し、内外共に多難な時代が続きます。ところで、大海にもまれる小舟の如き小藩が存続する選択肢の一つとして県信緝「あがた のぶつぐ」が考えた一つの案がありました。それが「天皇陵の修補を奉る」という、山稜御修補の建白書を幕府に提出しました。建白の許可を得、当座の費用として5000両程が下付されたわけです。

そののち、間瀬は「戸田」に復姓し、紆余曲折ながらも御陵の修復は進んでおりました。ところが元治元年(1864)4月に入ってから、国元の宇都宮において、水戸天狗党の騒動に巻き込まれてしまいました。

 翌年の慶応元年(1865)、幕府は天狗党に対する宇都宮藩の態度がけしからんということで、藩主忠恕を隠居・謹慎。 家督は忠友に相続させられてしまいますが、この時忠恕は若干19才の時です。  しかし幕府への再三にわたる嘆願により、同年10月に忠恕の謹慎がとかれました。 ここで、前述の山稜御修補の業績が大きくものをいった訳です。

慶応3年(1867)に入り、大政奉還。 又、慶応4年1月には鳥羽伏見の戦いと、ますます時代は大きなうねりとなってきました。

この間、忠友は徳川慶喜の件で朝廷への嘆願に向かいますが、大津「滋賀県」で謹慎を受けて動きがとれなくなってしまいました。 藩主のいない宇都宮藩では、重臣が総督府に出向いて嘆願し、慶応4年(1868)4月になって、ようやく忠恕(ただゆき)公は帰城することができました。

「宇都宮城への攻撃が始まる」

 ところが、休むまもなく戦火の匂いが立ちこめ、大鳥軍「旧幕府軍」が結城「茨城県南部」周辺まで侵攻したきたとの情報が入ってきました。大鳥軍は結城城を攻略した足で小山、壬生と迫ってきました。

宇都宮藩は近隣の諸藩の兵へまとめて対抗しましたが、いとも簡単に破られ宇都宮に向かって敗走するわけです。又、土方歳三「新撰組」らの部隊約1000名は、水海道からのルートで下館に迫り、さらに翌日になって、鬼怒川「宇都宮の東部に流れる大きな川」を夜半に渡り、夜明けと共に攻撃してきました。宇都宮藩の防衛隊は下河原門付近で攻撃をくい止め、守勢ながらもよく戦い持ちこたえてくれました。

「藩主忠恕公(ただゆき)の城脱出」

 さて、砲弾が飛び交う宇都宮の城内は、ますます戦況不利となり、援軍がくるまで一度、城を退却する戦術に変えて、藩主忠恕公を先に脱出させ、のち二の丸に全員をあつめて大手門より兵を撤退させました。藩主忠恕公を守る一団は、ひとまず鞍掛山「新里町」に向かいました。忠恕公には農民の姿に身を隠していただき、星明かりの中、わずかな手勢と共に鞍掛山をめざして歩いていったと思われます。

宇都宮城から鞍掛山までは、直線距離にして約12キロあり、標高490mで、さほど高い山ではありませんが、勾配の急な斜面がほとんどで、山中さぞかし難儀をされたろうと思います。中腹の穴の中で二日間身を隠しておりましたが、三日目になってから館林「群馬県」へと落ち延びて行きました。 しかし、忠恕公は、度重なる疲労の為に体調を崩し、22才の若さで波乱に富んだ生涯を閉じられました。



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