月の心・陰徳

https://www.fureaikanpou.com/post/2018/05/08/%E9%99%B0%E3%81%A8%E9%99%BD%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6  【陰と陽について】

東洋医学の独特な陰陽学説は非常に難解な学区説ですが、その意味する所は、この世の現象を2つの対立する視点から分析すると理解しやすいのではないかという学説です。

たとえば、太陽は陽であり、月は陰である。

太陽は熱を放散し、明るく、暖かい存在ですが、月は引力により、海水を引き上げ、暗く、冷たく静かです。

男性は陽で、女性は陰です。男性は外に向かって活動的に働き、女性は家庭を守り、潤いの性質をもつ存在です。

このように、陽は火に代表され、外に向かって活動的であり、明るく、放散の性質をもち、陰は水に代表され、冷たく、寒く、静かで、内に向かって凝集の性質を持ちます。

しかし、この陰と陽は見方、方向を変えると陰陽は変わります。

たとえば、日本列島は太陽に照らされて明るい時は陽に属し、地球の反対側は陰に属します。しかし、その逆になると、日本列島は陰に属し、地球の反対側は陽に属します。

男性は上述したように一般的に陽で、女性は陰ですが、家庭内では明るく活動的な存在を陽とすれば女性は陽であり、疲れて寝ている男性は陰です。このように、視点が変わればその位置づけも変わります。

従って、陰と陽は絶対的なものではなく、相対的なものです。

この相対的な見方によって、意味が変わるというのは、大変重要なことです。

東洋医学において、陰虚内熱という言葉があります。

陰が減り、陽が相対的に増えて熱が出るという現象です。

東洋医学では昼間は陽に属し、午前10時から午後2時の間は陽の最盛の時間帯ですが、その後は徐々に陽が減り、代わりに陰が少しずつ増えて、午後10時から午前2時の間は陰の最盛期の時間帯です。その後は再び陰が徐々に減り、陽が次第に増えて、陰と陽が1日の中で繰り返されます。

このような昼間の陽の時間帯は活動的に動き、夜の陰の時間帯は潤いと昼間に傷ついた体を癒します。

しかし、夜、睡眠を取らずに、運動したり、スマホをいじったり、考え事をすると、陽の時間帯と同じように活動的になり、その結果、陰が減り、相対的に陽が増えます。そうなると、夜中に上半身が火照ったり、足の裏が熱く、布団から足を出して寝たり、あるいは寝汗をかくなどの熱の症状が出ます。そのため、睡眠が浅く、寝ても疲れが取れず、朝起きても体がシャッキとしません。

このような状態では、寝る前に睡眠薬や安定剤を飲んでも、また熱冷ましの薬を飲んでも体調はあまり改善されません。

大切なことは陰の時間帯は安静にし、潤いとゆとりをもち、夜中に熱が発生すれば潤いを補う漢方薬を飲まなければ改善しません。

アトピー性皮膚炎では皮膚が乾燥しています。

しかし、同じ乾燥でも潤いが足りなく乾燥している場合と、皮膚炎によって水分が飛ばされて乾燥している場合があります。

潤いが足りない場合は潤いを増やす漢方薬を飲んだり、保湿剤を塗布すればいいのですが、炎症がある場合は潤いを与えても焼け石に水ということになって、乾燥はなかなか改善しません。

この場合は炎症を抑える漢方薬や塗り薬が必要です。

このように東洋医学では、同じように見える症状でも常に陰と陽という2つの要素相対的な視点によって分析して治療を行います。

http://amaiketax.com/blog/%E3%80%8C%E6%9C%88%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%80%8D%E3%82%92%E8%82%B2%E3%82%80%E7%A5%88%E3%82%8A 【「月の心」を育む祈り】 より

「月」は自ら光を発するものではなく、太陽の光を受けてひそやかに輝く存在です。それゆえ、「月」は、太陽のような存在だと見なされてきました。しかし、それだけではありません。「月」の光の静かさ。その透明さ。その光は何とやさしく、そして神秘的に降り注いでいることでしょう。「月」は自らが発光しないことを知っており、自らを鏡のようにして太陽の光を私たちに送ってくれます。それは回向返照。自ら修めた功徳(善行)を他のために巡らす回向の営みそのものです。

神秘の気配に満ちた「月」の光は、私たち一人ひとりを世界の不思議、人生の不思議に誘ってくれます。私たちの心は、普段は見えないもの、隠れた側面に自然に導かれます。見えるものから見えないところで他のために尽くす陰徳の歩みへと私たちを誘うものです。見えないところで他を支え、見えないところで全体のために尽くす歩みの尊さに私たちを導いてゆくのです。

「月の心」とは、隣人をひそやかに陰で支えることができる。陰徳の心の菩提心。

その「月の心」があなたの内に息づいていることを想ってください。

(祈りの言葉)

わたくしは、見えるものだけでなく、見えないものを想う者になります。形だけでなく、形を支える次元を求める者になります。現れだけでなく、隠れたところで心を尽くす者になります。

どうか、その歩みを支えてください。わたくしは、「月」のごとき隠徳の心を育みます。忍土の闇をひそやかに照らし続けることができますように。わたくしの内なる「月の心」をあらわしてください。

「祈りの道(高橋佳子著)」より

http://www.hayashi-hideomi.com/series/toyo/188.html 【未来へ陰徳を積む生き方】より

◇「仁」にもレベルがある◇

儒家思想における一番のキーワードは、何と言っても「仁」です。仁は、人を表す「イ」と「二」が組み合わさった会意文字で、人が二人いることを意味しています。二人というのは自分と相手のことで、「明確な相手のために自分が何を出来るか」を問い掛けている漢字が仁なのです。

通常「仁」の意味は、慈しむことや思い遣りとされていますが、問題は愛情を誰が発するのか、真心をどこの誰に尽くすのかにあります。この「誰が」と「誰に」に対する答えがはっきりせず、我が身を遠くに置いたまま、観念的な愛を語っているだけでは空理空論となります。そうではなく、自分が主体となって、愛する人や大切な人を具体的に助けていくのが仁の意味というわけです。

老子は、この仁にもレベルがあると述べました。思い遣りの心で人を救済してはいるものの、「俺が救ってやった」とか「私が助けてやった」とかいうような、「俺が、俺が」という自意識が目立つ場合は「仁のレベル」が低いことになります。

勿論(もちろん)、誰かのために役立とうとして頑張っているのは、とても素晴らしいことです。困るのは、好意を分かってもらいという気持ちが前に出過ぎているときです。作為が強くなって、いわゆるありがた迷惑になりかねません。

◇上仁には「これ見よがし」なところが無い◇

レベルの高い仁、老子はそれを「上仁」と呼び、「何かを為すが為にすることが無い」状態であると説明しました。相手のために何かを為すものの、意図的なわざとらしさが無いという意味です。

相手のため一所懸命尽力するが、助けたことを覚らせず、素知らぬ顔でいるのがそれです。こちらの努力を「これ見よがし」に分からせようとしないのです。

そのお手本は、天地自然にあるとするのが老子の教えです。万物を養いながら何も見返りを求めない天地自然の姿こそ、道家の聖人の理想像なのです。

そういう陰徳は、直ちに感謝されることがありません。ずっと後になってから支援の事実が明らかになって、大いに驚かれることもあります。あるいは、一生気付かれないことだってあり得ます。何だか淋しい生き方だなと思われるかも知れませんが、その押し付けでない真心に粋(いき、すい)の精神があり、やせ我慢に通じる美意識があります。

そして、上仁であれば相手の荒木(樸)を損ねることがなく、相手の天分や天性を殺してしまうような作為がありません。世話を焼き過ぎて子供をダメにしてしまうとか、細かく指示し過ぎて部下を自立させられないといったことが無いのです。

概ねこれらの事柄を極めていけば、「上仁」となります。将来の日本と世界を担う人物の育成に励むことなども「未来への陰徳」であり、上仁に属す生き方ということになるでしょう。(続く)