郷愁の詩人 与謝蕪村 ①

https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47566_44414.html  【郷愁の詩人 与謝蕪村】 萩原朔太郎  より

 蕪村ぶそんや芭蕉ばしょうの俳句に関しては、近頃ちかごろさかんに多くの研究文献が輩出している。こうした時代において、著者の如く専門の俳人でもなく、専門の研究家でもない一詩人が、この種の著書をあらわすということは、無用の好事的こうずてき余技の如く思われるが、決してその然しからざる必然の理由があるのである。というのは、従来世に現われている蕪村論や芭蕉論は、すべていわゆる俳人の書いたものであり、修辞や考証の解説上で、専門的に入念を極めた絶好の書であるけれども、俳句そのものの本質しているリリックの真精神を意外に忘却しているものが多いのである。特に蕪村の俳句にいたっては、子規以来単なる写生主義ということで定評づけられ、一ひとつもその真の詩的精神――俳句のエスプリする哲学原理――を批判されてない。俳壇のいわゆる俳人たちは、彼らの宗匠的そうしょうてき主観に偏して、常に俳句を形態上のレトリックでのみ皮相な手法的技巧観で鑑賞するため、句が詩情している本質のポエジイと、その背後にある主観の貫ぬく哲学とを、ややもすれば閑却無視することになるのである。つまり彼らは、俳句が抒情詩じょじょうしであることの本義を忘れて、単にこれを形態上のレトリックでのみ、皮相に解釈しているのである。

 著者は専門の俳人ではない。しかし元来「詩」というものは、和歌も俳句も新体詩も、すべて皆ポエジイの本質において同じであるから、一方の詩人は必ず一方の詩を理解し得べきはずであり、原則的には「専門」ということはないはずである。専門というべきものは、単に修辞の特殊的な練習にのみ存しおり、鑑賞上には存在の区別がないはずである。しかも今日の日本では、僕らのいわゆる詩人(新詩人)が、他の伝統詩の歌人や俳人に比して、比較的に自由な新しい鑑賞眼を所有している。すくなくとも僕らの詩人は、より因襲のない自由な立場で、古典の詩を新しく本質的に鑑賞し得る便宜を持っている。

 著者は昔から蕪村を好み、蕪村の句を愛誦あいしょうしていた。しかるに従来流布るふしている蕪村論は、全く著者と見る所を異にして、一も自分を首肯しゅこうさせるに足るものがない。よって自みずから筆を取り、あえて大胆にこの書をあらわし、著者の見たる「新しき蕪村」を紹介しようと思うのである。もとより僕は無学にして文献に暗く、考証等に笑うべき蒙失もうしつがあるかも知れない。しかし著者の意はその辺の些事さじになくして、蕪村俳句の本質を伝えれば足りるのである。読者乞こう。これを諒りょうしてこれを取読せよ。

 附録の「芭蕉私見」は、全く文字通りの一私見にすぎない。蕪村とちがって、芭蕉の研究は一般に進歩しており、その本質の哲学や詩精神やも、既にほぼ遺憾いかんなく所論し尽つくされてる観がある。著者としても、さらに蛇足だそくを加える余地がないので、単に蕪村との比較を主とし、かつその句に自己の主観的評釈を附した。ここで特に「主観的」と言ったのは、新詩人としての僕の見方が、一般俳壇人のそれに比して、多少新しく変ったところがあるかも知れないと思ったからだ。

 なお「蕪村論」は、先年著者の個人雑誌『生理』に連載して、一部読者の好評を博したものであり、附録「芭蕉私見」は、他の雑誌に掲載したものに、多少別に筆を加えたものである。

昭和十一年一月

蕪村の俳句について

君あしたに去りぬ

ゆうべの心千々ちぢに何ぞ遥はるかなる。

君を思うて岡の辺べに行きつ遊ぶ。

岡の辺べなんぞかく悲しき。

 この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新詩体の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。実際こうした詩の情操には、何らか或る鮮新な、浪漫的ろうまんてきな、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そしてこの種の情操は、江戸時代の文化に全くなかったものなのである。

 僕は生来、俳句と言うものに深い興味を持たなかった。興味を持たないというよりは、趣味的に俳句を毛嫌いしたのである。何故なぜかというに、俳句の一般的特色として考えられる、あの枯淡とか、寂さびとか、風流とかいう心境が、僕には甚だ遠いものであり、趣味的にも気質的にも、容易に馴染なじめなかったからである。反対に僕は、昔から和歌が好きで、万葉や新古今しんこきんを愛読していた。和歌の表現する世界は、主として恋愛や思慕の情緒で、本質的に西洋の抒情詩とも共通しているものがあったからだ。

 こうした俳句嫌いの僕であったが、唯一つの例外として、不思議にも蕪村だけが好きであった。なぜかと言うに、蕪村の俳句だけが僕にとってよく解り、詩趣を感得することが出来たからだ。今日最近にいたって、僕は漸ようやく芭蕉や一茶いっさの句を理解し、その特殊な妙味や詩境に会得えとくを持つようになったけれども、従来の僕にとって、芭蕉らの句は全く没交渉の存在であり、如何いかにしてもその詩趣を理解することが出来なかった。それ故に僕にとって、蕪村は唯一の理解し得る俳人であり、蕪村の句だけが、唯一の理解し得る俳句であったのだ。

 この不思議なる事実。僕があらゆる俳句を理解し得ず、俳句を本質的に毛嫌いしながら、一人例外として蕪村を好み、彼の俳句だけを愛読したという事実は、思うにおそらく、蕪村の情操における特異なものが、僕の趣味性や気質における特殊な情操と密に符合し、理解の感流するものがあったためであろう。そしてこの「蕪村の情操における特異性」とは、第一に先まず、彼の詩境が他の一般俳句に比して、遥かに浪漫的の青春性に富んでいるという事実である。したがって彼の句には、どこか奈良朝時代の万葉歌境と共通するものがある。例えば春の句で

遅き日のつもりて遠き昔かな

春雨や小磯こいその小貝ぬるるほど

行く春や逡巡しゅんじゅんとして遅桜おそざくら

歩行歩行ありきありきもの思ふ春の行衛ゆくえかな

菜の花や月は東に日は西に

春風や堤つつみ長うして家遠し

行く春やおもたき琵琶びわの抱だきごころ

 等の句境は、万葉集の歌「うらうらと照れる春日に雲雀ひばりあがり心悲しも独し思へば」や「妹いもがため貝を拾ふと津の国の由良ゆらの岬みさきにこの日暮しつ」などと同工異曲の詩趣であって、春怨思慕しゅんえんしぼの若々しいセンチメントが、句の情操する根柢こんていを流れている。さらにまた左の如き恋愛句において、こうした蕪村の青春的センチメントが、一層はっきりと特異に感じられるのである。

春雨や同車の君がさざめ言ごと

白梅しらうめや誰たが昔より垣の外そと

妹いもが垣根三味線草さみせんぐさの花咲さきぬ

恋さまざま願ねがいの糸も白きより

二人してむすべば濁る清水かな

 蕪村の句の特異性は、色彩の調子トーンが明るく、絵具が生々なまなましており、光が強烈であることである。そしてこの点が、彼の句を枯淡な墨絵から遠くし、色彩の明るく印象的な西洋画に近くしている。

陽炎かげろうや名も知らぬ虫の白き飛ぶ

更衣ころもがえ野路のじの人はつかに白し

絶頂の城たのもしき若葉かな

鮒鮓ふなずしや彦根ひこねの城に雲かかる

愁ひつつ岡に登れば花いばら

甲斐ヶ嶺かいがねや穂蓼ほたでの上を塩車しおぐるま

 俳句というものを全く知らず、いわんや枯淡とか、洒脱しゃだつとか、風流とかいう特殊な俳句心境を全く理解しない人。そして単に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、こうした蕪村の俳句だけは、思うに容易に理解することができるだろう。何となれば、これらの句には、洋画風の明るい光と印象があり、したがってまた明治以後の詩壇における、欧風の若い詩とも情趣に共通するものがあるからである。

 僕が俳句を毛嫌いし、芭蕉も一茶も全く理解することの出来なかった青年時代に、ひとり例外として蕪村を好み、島崎藤村しまざきとうそん氏らの新体詩と並立して、蕪村句集を愛読した実の理由は、思うに全くこの点に存している。即ち一言にして言えば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度万葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中で、最も「若い」情操の表現であったように、蕪村の俳句がまた、近世の日本における最も若い、一ひとつの例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言うのは、人間の詩情に本質している、一の本然的ほんぜんてきな、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指しているのである。

 芭蕉と蕪村とは、この点において対蹠的たいせきてきな関係を示している。もちろん本質的に言うならば、芭蕉のポエジイにもまた、真の永遠的の若さがある。――すべての一流の芸術は本質的に皆若さを持っている。その精神に「若さ」を持たない芸術は、決して真の芸術ではない。特に詩においてそうである。――しかしながら芭蕉は、趣味としての若さを嫌った。西行さいぎょうを好み、閑寂かんじゃくの静かさを求め、枯淡のさびを愛した芭蕉は、心境の自然として、常に「老ろう」の静的な美を慕った。「老ろう」は彼のイデア――美しきものの実体観念――だった。それ故に彼の俳句は、すべての色彩を排斥して、枯淡な墨絵で描かれている。もちろん僕らは、その墨絵の中に訴えられている、詩人の深い悩みと感傷とを感ずる故に、それは決して非情緒的ではないけれども、趣味としての反青春的風貌ふうぼうを感ずるのである。しかるに蕪村は、彼のあらゆる絵具箱から、すべての花やかな絵具を使って、感傷多き青春の情緒を述べ、印象強く色彩の鮮やかな絵を描いている。

 それ故に芭蕉の名句は、多く皆秋の部と冬の部とに類属している。自然がその艶麗えんれいな彩筆を振ふるう春の季節や、光と色彩の強烈な夏の季節は、芭蕉にとって望ましくなく、趣味の圏外に属していた。これに反して蕪村の名句は、多く皆春と夏とに尽くされている。だがこの観察は、蕪村俳句のより本質的な点からみて、皮相な一面観にしかすぎないのである。むしろ蕪村の本質は、冬の詩人とさえ言わるべきだ。しかしこの解釈は、後に「春風馬堤曲しゅんぷうばていのきょく」で反説しよう。

 蕪村は不遇の詩人であった。彼はその生存した時代において、ほとんど全く認められず、空しく窮乏の中に死んでしまった。今日僕らは、既に忘れられて名も知れなくなってしまった当時の卑俗俳諧はいかいの宗匠たちが、俳人番附ばんづけの第一席に名を大書し、天下に高名を謳うたわれている時、僅わずかその末席に細字で書かれ、漸く二流以下の俳人として、影薄く存在していた蕪村について考える時、人間の史的評価や名声やが、如何いかに頼りなく当あてにならないかを、真に痛切に感ずるのである。すべての天才は不遇でない。ただ純粋の詩人だけは、その天才に正比例して、常に必ず不遇である。殊に就中なかんずく蕪村の如く、文化が彼の芸術と逆流しているところの、一ひとつの「悪あしき時代」に生れた者は、特に救いがたく不遇である。

 蕪村の価値が、初めて正しく評価され、その俳句が再批判されたのは、彼の死後百数十年を経た後世、最近明治になってからのことであった。明治以後、彼の最初の発見者たる正岡子規まさおかしき、及びその門下生たる根岸派ねぎしはの俳人に継ぎ、殆ほとんどすべての文壇者らが、こぞって皆蕪村の研究に関心した。蕪村研究の盛んなことは、芭蕉研究と共に、今日において一種の流行観をさえ呈している。そして世の定評は、芭蕉と共に蕪村を二大俳聖と称するのである。

 しかしながら多くの人は、蕪村について真の研究を忘れている。人々の蕪村について、批判し定評するところのものは、かつて子規一派の俳人らが、その独自の文学観から鑑賞批判したところを、無批判に伝授している以外、さらに一歩も出ていないのである。そしてこれが、今日蕪村について言われる一般の「定評」なのである。試みにその「定評」の内容をあげて見よう。蕪村の俳句の特色として、人々の一様に言うところは、およそ次のような条々である。

一、写生主義的、印象主義的であること。

一、芭蕉の本然的なのに対し、技巧主義的であること。

一、芭蕉は人生派の詩人であり、蕪村は叙景派の詩人である。

一、芭蕉は主観的の俳人であり、蕪村は客観的の俳人である。

「印象的」「技巧的」「主知的」「絵画的」ということは、すべて客観主義的芸術の特色である。それ故に以上の定評を概括すれば、要するに蕪村の特色は「客観的」だということになる。そしてこれが、芭蕉の「主観的」に対比して考えられているのである。

 ところで芸術における「主観的」「客観的」もしくは「主情主義的」「主知主義的」ということは、本来何を意味するものだろうか。これについて自分は、旧著『詩の原理』に詳しい解説を述べておいた。約言すれば、すべての客観主義的芸術とは、智慧ちえを止揚しようしたところの主観表現に外ほかならない。およそ如何いかなる世界においても、主観のない芸術というものは存在しない。ただロマンチシズムとリアリズムとは、主観の発想に関するところの、表現の様式がちがうのである。それ故に本来言えば、単なる「叙景詩」とか「叙景派の詩」なんていうものは実在しない。もしあるとすればナンセンスであり、似而非えせの駄文学だぶんがくにすぎないのだ。いわんや俳句のような抒情詩――俳句は抒情詩の一種であり、しかもその純粋の形式である。――において、主観は常にポエジイの本質となっているのである。俳句のような文学において、主観が稀薄であるとすれば、そのポエジイは無価値であり、その作家は「精神に詩を持たない」似而非詩人である。

 ところで一般に言われる如く、蕪村が芭蕉に比して客観的の詩人であり、客観主義的態度の作家であることは疑いない。したがってまた「技巧的」「主知的」「印象的」「絵画的」等、すべて彼の特色について指摘されてるところも、定評として正しく、決して誤っていないのである。しかしながら多くの人は、これらの客観的特色の背後における、詩人その人の主観を見ていないのである。そしてこの「主観」こそ、正まさしく蕪村のポエジイであり、詩人が訴えようとするところの、唯一の抒情詩じょじょうしの本体なのだ。人々は芭蕉について、一茶について、こうした抒情詩の本体を知り、その叙景的な俳句を通して、芭蕉や一茶の悩みを感じ、彼らの訴えようとしている人生から、主観の意志する「詩」を掴つかんでいる。しかも何と不思議なことに、人々はなお蕪村について無智であり、単に客観的の詩人と評する以外、少しも蕪村その人の「詩」を知らないのである。そしてしかも、蕪村を讃さんして芭蕉と比肩し、無批判に俳聖と称している。「詩」をその本質に持たない俳聖。そして単に、技巧や修辞に巧みであり、絵画的の描写を能事としている俳聖。そんな似而非詩人の俳聖がどこにいるか。

 こうした見地から立言すれば、蕪村の世俗に誤られていること、今日の如く甚だしきはないと言える。かつて芥川竜之介あくたがわりゅうのすけ君と俳句を論じた時、芥川君は芭蕉をあげて蕪村を貶けなした。その蕪村を好まぬ理由は、蕪村が技巧的の作家であり、単なる印象派の作家であって、芭蕉に見るような人生観や、主観の強いポエジイがないからだと言うことだった。友人室生犀星むろうさいせい君も、かつて同じような意味のことを、蕪村に関して僕に語った。そして今日俳壇に住む多くの人は、好悪の意味を別にして、等しく皆同様の観察をし、上述の「定評」以外に、蕪村を理解していないのである。

 蕪村を誤った罪は、思うに彼の最初の発見者である子規、及びその門下生なる根岸派一派の俳人にある。子規一派の俳人たちは、詩からすべての主観とヴィジョンを排斥し、自然をその「あるがままの印象」で、単に平面的にスケッチすることを能事とする、いわゆる「写生主義」を唱えたのである。(この写生主義が、後年日本特殊の自然主義文学の先駆をした。今日でもなお、アララギ派の歌人がこの美学を伝承しているのは、人の知る通りである。)こうした文学論が如何に浅薄皮相であり、特に詩に関して邪説であるかは、ここで論ずべき限りでないが、とにかくにも子規一派は、この文学的イデオロギーによって蕪村を批判し、かつそれによって鑑賞したため、自然蕪村の本質が、彼らのいわゆる写生主義の規範的俳人と目されたのである。

 今や蕪村の俳句は、改めてまた鑑賞され、新しくまた再批判されねばならない。僕の断じて立言し得ることは、蕪村が単なる写生主義者や、単なる技巧的スケッチ画家でないということである。反対に蕪村こそは、一つの強い主観を有し、イデアの痛切な思慕を歌ったところの、真の抒情詩の抒情詩人、真の俳句の俳人であったのである。ではそもそも、蕪村におけるこの「主観」の実体は何だろうか。換言すれば、詩人蕪村の魂が咏嘆えいたんし、憧憬しょうけいし、永久に思慕したイデアの内容、即ち彼のポエジイの実体は何だろうか。一言にして言えば、それは時間の遠い彼岸ひがんに実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄こもりうたの哀切あいせつな思慕であった。実にこの一つのポエジイこそ、彼の俳句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いて来る音楽であり、詩的情感の本質を成す実体なのだ。以下その俳句について、個々の評釈を述べると共に、この事実を詳しく説いて見たいと思う。