https://ameblo.jp/norbu-lingka/entry-12093910685.html 【実は知っておきたいボン教のこと】 より
アマナマナでは、年に4回ですが、とても面白い講座を開催しています
その名も、ゾクチェン瞑想解説講座チベット語でゾクチェンは、「大いなる完成」と呼ばれ、悟りに至る(おもに瞑想の)修行体系が凝縮されているのですが・・・
それを日本で唯一、人々に教え広めても良いと、師から許しを得たのが、アマナマナで講義をしてくださる箱寺孝彦先生です
箱寺先生は、ご自身でも瞑想教室を主宰され、ゾクチェンの知恵を瞑想を通じて、広められておられますが、アマナマナではその中でも、ビギナーのためのクラスを開催してくださっています
ゾクチェン瞑想解説講座
箱寺先生は、もともと、長くネパールのカトマンズ郊外にある、ボン教寺院でゾクチェンを学ばれていますが、ボン教はそもそも、チベットに仏教が伝播する前から、土地に根付いた宗教として、長く信仰されておりまして、チベット仏教が他の仏教とは若干異なる要素がある部分は、かなり多くの割合でボン教が、取り込まれているのだなぁと意識できる部分がたくさんあり、五大元素のコンセプトももともとはボン教からですし、ゾクチェンも、チベット仏教では、最古参の宗派・ニンマ派のなかに、その流れを見ることができます
そのボン教の修行記を、箱寺先生が最近、電子出版で出版されました
この修行記は、ゾクチェン瞑想修行記:チベット虹の身体を悟るひみつの体験
というタイトルで、貴重な内容をマゾンではなんと・・・100円という破格のお値段で読むことができます
これは私が二十年以上にわたり、ボン教僧院で瞑想修行してきた記録である。チベットでは仏教が有名だ。だが仏教は八世紀にインドから伝来した外来の宗教である。一方、ボン教はそれ以前より存在したチベット固有の宗教。不思議な縁に導かれ、私はこのボン教の修行を続けている。
いまや日本のみならず世界中で仏教ブームを迎えている。特に瞑想が人々の注目を集めている。瞑想を体験したい、心を成熟させる修行に取り組みたい。そんな声が高まるのは、私たちが深い心の問題を抱えているからにちがいない。人生は一向に楽にならない。
仏典研究から始まったチベット研究。だいたい一回りした今、ユニークなチベット文化の源泉がボン教にあることが常識になりつつある。だがボン教ゾクチェンを研究・実践する意味はそれだけに留まらない。もっと深い意義があることを知って欲しい。
ボン教ゾクチェンの特徴は、遥か古い歴史を持つこと。言説、分別、因果律を超えていること。数多くの災難、災害を乗り越えてきたこと。だから日本人にピッタリの教えだと思う。
この教えなら日本人が失いつつある心を取り戻せると、私の確信は深まるばかりだ。(まえがきより)
http://gyalwai-nyugu.jp/article.aspx?ntid=31 【一元思想の象徴としての虹】 より
虹と仏教思想について考えてみたいと思います。 多様性の中の統一?統合という虹の性質は、まさに、釈迦の縁起の法が説く世界のありさまそのものです。 縁起の法が説くところは、人は、虹を七色と錯覚するように、自分と他人、人間と世界といった、この世の中のさまざまな事物を別の物と錯覚しているが、真実は、虹の色も各色の間に境界を引けないように、この世の中の全ての事物は、他から独立して存在しているものはなく(不二)、全ては相互に依存し合って存在しており(縁起)、永久不変の実体のあるものはない(空)、ということです。
世界の中には、無限に多様なものが存在している(ように見える)が、本質的には、それらは全ては一体であるということであり、それはまさに虹の色のあり方と同じなのです。 さて、この全ての存在が、本質的に一体であるというのは、存在論的な一元性といいます。次に、全てのものが一つの根源から発生したという発
生論的な一元性について考えてみましょう。 虹の発生?創造は、宇宙の発生?創造ともよく似ています。
虹は、無限の色を含みますが、その全ては、太陽の白色光から別れ出たものです。太陽光がプリズムを通ると、無数の色の虹にスペクトル展開します。 一方、この宇宙の中には、無限なほどのさまざまなものが存在しますが、その全ては、ビッグ?バンという一つの出来事から、産み出されて別れ出たものです。 こうして虹も宇宙も双方とも、その源は一つ、元は一つであるということができます。
·ゾクチェンの虹の教え
さらに、この二つの話し、仏教の教えと虹の性質の類似性と、宇宙の発生と虹の発生の類似性という二つの話しが、一つになるのが、チベット密教のゾクチェンの思想ではないか と思います。
ゾクチェンには、虹の身体と呼ばれる高度な瞑想体験があります。その修行者は、虹は、自然現象として、人の外側にだけ見られるものではなく、人の内部、すなわち人の心にも存在していると考えています。
その修行の体験者は、「現象の世界を突き破って、本然の心の輝き(リクパ)が、見開かれた修行者の眼前に、立ち上る虹、とびかう光滴、鮮やかな光のマンダラとしてたちあらわれる」と、その体験を書いています。
さらに、ゾクチェンの修行者は、この世界の創造において、すなわち科学的に言えばビッグ?バンにおいて、この虹の光が現れていると考えているようです。
上記の体験者は、「法身クンツサンポ......そこは全ての現われの滅した世界である......法身は微動だにせず......それ は光の輝きとなって報身の浄土に輝き出る」と語っています。
ともかく、この世界の創造においても、虹色の光があって、この世界は、虹の光と共に創造され、今現在、虹の色が無限の如く無限の要素を含みつつも、本質的には虹の色の如く、それらは別々ではなく一体であるということでしょうか。
なお、チベット以外でも、仏教文化圏では、虹を神聖な象徴とする文化があります。釈迦が、天上界から降りてきた際も、虹が関係したという信仰がありますし、仏教国のブータンでは、虹と聖者を結びつけて考えています。
こうして虹の色は、多様なものが共存する平和の象徴であると共に、仏教的な一元的な思想?世界観の象徴としても優れていると思います。
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