有無を超える空

https://pdmagazine.jp/background/aufheben/  【アウフヘーベンしようぜ!今さら聞けない弁証法の基礎】 より

「弁証法」や「アウフヘーベン」といった哲学用語の基礎知識をおさらいするとともに、近代小説の雛形を作った「教養小説」の中でそれらの要素がどのように取り入れられているのか、現代小説との比較も交えて解説します!

皆さんは年配の上司と会話している時に「弁証法」や「アウフヘーベン」という単語が出てきて当惑した経験はありませんか?

そんな時、「確かに、この局面ですと弁証法的に考えることが重要ですよねー(なにそれ?)」

「ああ、アウフヘーベンですね。よくわかります(……ヨーロッパのお菓子かな?)」

……といったような、知ったかぶりの相槌をいれてしまってはいないでしょうか?

「弁証法」、「アウフヘーベン」、いずれも哲学用語なのですが、岩波文庫などを片手に西洋人文学の古典を議論し、教養を身につけることが“クール”だった昭和の時代には、知性をアピールするためにはこれらの哲学用語を使いこなせることが好ましいとされていたのです。

「哲学なんて古臭い」と思うなかれ!実はこの「弁証法」は、人を説得したり、良い文章を書いたりするためにも活かせる知識なんです!

そんな「弁証法」の基礎について、近代文学史に花開いた「教養小説(ビルドゥングスロマン)」の読み方といった実践も含めておさらいしましょう。

弁証法ってなんだ?

「弁証法」の伝統は古代ギリシアにまで遡りますが、最も知られているものがドイツ観念論を代表する思想家、ヘーゲルによる弁証法解釈です。

ヘーゲルの弁証法では、モノ(事物)やコト(命題)が「否定」を通じて、新たな・より高次のモノやコトへと再生成されるというプロセスを、「正(テーゼ)」「反(アンチテーゼ)」「合(ジンテーゼ)」という言葉を用いて説明します。

ここで、「美しい花が実を残す」という現象を例にとってそのプロセスをさらに解説しましょう。

花は、いつまでもその美しい姿を保ち続けることはできず、必ず枯れてしまいます。この「枯れる」という現象を言い換えてみれば、「美しい花(正)」が「美しい花でないもの(反)」という否定形の状態になるということ。このように、ヘーゲルは「一つの事物・命題には必ずそれ自身の否定が含まれる」ということを指摘したのです。

しかし、枯れた花は実を残します。「花はいつか枯れる」という否定のプロセス、つまり、「美しい花」は「美しい花ではないもの」でもありうる、という事物に内在する対立が、「実(合)」として次世代に残されるわけです。

「正」「反」の対立関係から、より高次の「合(ジンテーゼ)」が導かれることを、ヘーゲルは「アウフヘーベン」という言葉を用いて説明します。以下では、その「アウフヘーベン」についてさらに詳しく解説することにしましょう。

弁証法の基本概念、「アウフヘーベン」とは?

「アウフヘーベン」というドイツ語は、「止揚しよう」または「揚棄ようき」と訳されます。「止めて、揚あげる」「棄すてて、揚あげる」とこれらの熟語を読み下せばわかる通り、対立し合う二物の関係を1つ上の次元へと引き揚げるということがその大枠の意味になります。

では、先ほどの「花と実」の例をあげれば、「花は美しい(正)」「花は枯れる(反)」という相反する関係を解消するために、「枯れない造花なら美しいままじゃん!」と造花をこしらえることは、アウフヘーベンに該当するでしょうか?

他の例をあげましょう。「僕はマザコン!お母さん大好き!」 「でもお母さんと結婚することはできない……」この対立を解消するものとして「お母さんそっくりな恋人を見つけよう!」この場合はどうでしょうか?

「花は枯れて実を残す」、つまり、「花は、自身が花であることを否定して実を残す」というように、否定を通じて新たな事物を生み出し、より高次の状態へと導かれることがアウフヘーベンであると考えれば、その醍醐味とは「正」「反」を調停するものとして「より良いもの(合)」が現れることにあたります。

なので、「造花」「お母さんそっくりな恋人」は事物が抱え込んだ対立を覆い隠し、あくまでも「正」(美しい花、マザコン)の状態に留まろうとしている以上、厳密にはアウフヘーベンであるとは言えないのです。

ここでさらに、「少子高齢化が進行している今の日本では、若者の政治参加を促すことが大切だ」という命題(テーゼ)を取り上げて、「正反合」のプロセスを次のような議論にまとめてみましょう。

正:少子高齢化が進行している今の日本では、若者の政治参加を促すことが大切だ。

反:若者は社会経験に乏しいため、社会における政治的利害の対立を正しく導くことができない。

合:若者の社会意識を高めるように教育制度を整えることで、社会を健全化していくことが急務である。

上記の三段論法はこれ以上なくシンプルな構成ながら、「正」「反」の対立を調停する新しい価値を提示することで、議論にダイナミズムが生まれていますよね。ここで提示されている「合」(ジンテーゼ)は、「正」の命題に対する「否定の否定」でありながら、正反いずれの立場も棚上げしていない、より高次の命題になっていることがお分かりいただけると思います。

上記した例のように、弁証法的な思考プロセスが持つ説得力は、社会改良論的なテーマにおいてその真価が発揮されることが多いということも、ここに付記しておきます。

マザコン息子をどう止揚(しよう)?物語を弁証法的に読み解こう

弁証法的な思考プロセスは、それが対立を調停し高次の解決に導くという点で、「社会の改良」「個人の成長」といったテーマを物語化して語るのに役立ちます。ということは、個人と社会との関係を描く「小説(近代小説)」というジャンルにおいても、この弁証法を当てはめることが可能なのです。

20世紀イギリス文学を代表する作家の一人、D. H. ロレンスの『息子と恋人』(1913)という作品を例にあげましょう。主人公のポール・モレルは「お母さん大好き!」なマザコン少年。しかし、そこに「僕とお母さんは恋人ではない」というアンチテーゼが介入することによって、その成就を阻む「父親」、さらには「母親」本人のことを憎むようになります。

ここまでお読みになった読者の皆さんであればお気づきのことと思いますが、「母親」の否定を通じた先にあるアウフヘーベンにこそ、ポールの「成長」がある、というのがこの種の物語にとっての“肝”に当たる部分。しかし、『息子と恋人』のポールは、自分の恋人に母親の影を追い求めてみたと思えば、かえってその母性的な部分を憎むなど、中々このマザコン状態を止揚することができません。

そのように『息子と恋人』の物語を簡略化した上で、次の小説末尾の一節、母親を喪うしなったポールの描写を読んでみてください。

「お母さん、お母さん、」と彼は低い声でいった。

巨大な夜に対して彼を支えてくれるのは、彼の母親だけだった。そしてその母親は今は彼を去って、夜の一部になっていた。彼は母親に、自分にさわって貰いたかった。その傍において貰いたかった。

しかし、彼はまだ負ける積りはなかった。彼は急に向き直って、夜空を明るく染めている町の方に戻って行った。彼は拳を握り締め、口を固く結んでいた。彼は暗闇の方向に、母親の後を慕って行こうとは思わなかった。彼は微に音を立てている、明るい光を放つ町の方に、急ぎ足で歩いて行った。

『息子と恋人』吉田健一訳より

〈死〉は、ポールにとってかけがえのない存在だった母親の存在を否定しました。しかしポールは、彼を取り囲む暗闇(死)に引きずられることなく、「明るい光を放つ町」(社会)の方向へと向かっていきます。この一連の描写の中に、「母への慕情と、その死」という対立を止揚した、個人の成長が描かれているのです。

このように、「個人の成長と社会の関わり」を作品のメインテーマに据えた小説のことを「教養小説(ビルドゥングスロマン)」と呼びます。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』(1796)などを代表とし、19世紀のヨーロッパで近代文学の大きな潮流となったこのジャンルは、「個人の欲望」と「社会の規範」との対立、およびその止揚を主眼に据えているという意味で、まさに「弁証法的な小説」だったのです。

弁証法を超えて?現代小説に見る「成長」への懐疑

マザコン少年が母親の死を受け入れ、社会の中の存在として成長していくという『息子と恋人』の物語は、今の時代の基準からすると極めて「ベタ」なパターンであると言えるでしょう。実際に、現代小説においては、教養小説的な「ベタな成長物語」を扱うことは極めて稀な例だと言えます。

教養小説的なプロットを拒否する現代小説の例は山ほど挙げられますが、ここでは最近の例として、2016年上半期(第155回)の芥川賞受賞作、村田沙耶香さんの「コンビニ人間」を挙げましょう。この小説では、主人公の恵子が社会の要請に合わせて自分自身を「平常化」するためにコンビニ勤務を続ける様子が描かれていますが、そこでは「コンビニ勤務が一番自分に合っている」「いつまでもアルバイトの身分ではいられない」という葛藤・対立を調停して、「ならばコンビニで正社員になれるように仕事を頑張ろう!」というアウフヘーベンがもたらされることはありません。むしろ恵子は、そのような“分かりやすい成長の物語”に対して自ら背を向けるようにして、「コンビニバイト」という隠みのを利用し続けているのです。

▶︎過去記事:芥川賞受賞作、村田沙耶香「コンビニ人間」はここがスゴい!他候補作も合わせて一挙にレビュー。

ここで、冒頭で指摘した「昭和という時代には弁証法について語ることが“クール”だった」という前提に立ち返りましょう。「昭和」とは、「高度経済成長」を背景に、個人もまた「成長」の物語を信じることができた時代でした。しかし、21世紀初頭の日本人が手渡された現実といえば、産業の発展による環境破壊をどう癒していくのか、さらには長期化するデフレ経済の影で生まれた非正規労働者をどうするのか、そんな「成長」の物語を挫くような諸々の矛盾だったのです。

そのように〈近代〉と〈現代〉を分け隔てるものを考えた時、弁証法による絶え間ない自己改良の物語、つまり「社会がより良くなっていく」という楽観が失われたということが、「コンビニ人間」のような現代小説を生んだ歴史的な文脈であると言えるのかもしれません。

もちろん、「近代小説」と「現代小説」の違いについて、「成長をめぐる視点」だけで切り分けることはできませんが、作品内の人物をめぐるプロット構成に「弁証法的な解決」(アウフヘーベン)がもたらされているかどうか、次に小説を読む際には考え合わせてみてはいかがでしょうか?