ハスのコスモロジー(下・その3)

https://www.circam.jp/essay/detail/id=1972  【ハスのコスモロジー(下・その3)】より

 2011年3月11日、東日本を大地震・大津波が襲い、そして原発事故が引き起こされました。まさに未曾有の事態であり、深刻な状況はなおつづいています。

目の前にひろがる光景に言葉を失い、立ちつくす。未だに行方の知れない多くの人びと。放射されつづける目に見えない厄災。

これからは日常ならざる日常を日々、日常としてとして生きてゆかなければなりません。かつて抱いていた確かさの前提が崩れたとき、寄る辺ない不安が押し寄せる…。

いったい、何を頼ればいいのか?

そして、自分はどこにいるのか?

明確な世界認識ができてはじめて、己の立ち位置、そして歩むべき道が見えてきます。不確かな世界だからこそ、確かな世界観がもとめられるのです。

コスモロジーをもとめるとは、たんに想像上の世界に遊ぶことではありません。この世界に生きるわたしたちが困難に立ち向かうとき、確かなコスモロジーは生きるささえとなり、力を生みだすもととなります。

コスモロジーの探究は、この現実世界を生き抜くための切実な営みといえます。この世界の成り立ち、ありようの全体を把握し、こころの底から納得すること。逆にいえば、確たる世界認識、頼れる世界観なしに、十全に生きぬくことは難しいのではないでしょうか。

そのような切実な欲求から、コスモロジーの探究は営々とつづけられ、歴史のなかで淘汰されてきました。コスモロジーは現実を生きぬく力をもたらしてこそ、はじめて意味をもつといえるのです。

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厄災の内容は異にこそすれ、未曾有の国難は、じつは今回がはじめてというわけではありませんでした。今から1,300年前、まさに国家存亡の危機が列島社会を襲ったことは前回見たとおりです。

時のリーダーは聖武天皇。苦悩と迷いのなかから、かれが掴み取った頼れる世界観こそ、〈仏華厳〉のコスモロジーでした。これをよすがとして、列島社会において理想の仏国土を実現すべく、全身全霊を尽くすのでした。

ひたすら〈仏華厳〉のコスモロジー実現に邁進(まいしん)した聖武天皇の意識は、どのようなものであったのでしょうか?

〈『古事記』『日本書紀』から『華厳経』へ〉

聖武天皇の精神形成期を振りかえってみましょう。のちに天皇となる首(おびと)皇子は714年に14歳で皇太子となり、帝王教育を受けます。『古事記』が完成して朝廷に提出されたのが712年、『日本書紀』が完成して朝廷に提出されたのが720年です。帝王教育のなかでも『古事記』と『日本書紀』が重視されたのは想像に難くありません。

とくに『日本書紀』は、その編集の最終段階で、「天の石屋戸」神話や「天孫降臨」神話などにおいて、時の朝廷で実権を振るっていた藤原不比等の意向がつよく反映されました。かれはその完成を見届けたうえで、同年息を引き取ります。

皇太子・首への帝王教育は、藤原不比等の長子である藤原武智麻呂(むちまろ)があたりました。とくに『日本書紀』が重視されたことは想像に難くありません。

皇太子・首は724年に即位し、聖武天皇が誕生します。かれは『古事記』、そしてとくに『日本書紀』が謳い上げるコスモロジーのなかで思想の形成期を送ったのでした。

しかし、前回見たように、『古事記』や『日本書紀』が謳い上げる日本の神々は、たび重なる大地震、追い打ちをかけるように起きる旱魃、これにつづく凶作、そして天然痘の蔓延と、列島社会全体を覆う大きな苦難にたいして無力をさらけ出すばかりでした。

日本古来の神々に祈っても効果がなかった…。この経験が聖武天皇の仏教への帰依をつよめます。しかし、仏教なら何でもよかったというわけではありません。ようやくにして到達した最強の仏こそビルシャナ仏であり、最強の経典こそ『華厳経』だったのです。

〈高天原から仏華厳へ〉

『華厳経』が説く〈仏華厳〉のコスモロジーは立体的・3次元的であり、世界の無限を包含していました。それは生命的であり、かつ幻想的でもありました。また、『梵網経』は『華厳経』をベースとしながらも世界に明確な輪郭を与え、造形可能なものにしました(第15回)。

無限の世界を生成し、かつ無限の世界を包含する『華厳経』、そしてその教主たるビルシャナ仏は、その世界観そのものからしてパワフルです。これにくらべると、『古事記』や『日本書紀』が謳い上げる世界は、そもそも平面的で水平的です。

高天原(たかまのはら)は高いところにあると想定されますが、日本では古来、天(あま)はまた海(あま)でもありました。

海上の遥か彼方、遠い水平線において海と空は接してひとつになります。海は天に溶けこみ、天は海に没します。垂直的次元がいつしか水平的次元に転換されてしまうような、そういう世界なのです。

【写真N-5】:伊勢神宮・内宮の境内を流れる五十鈴川に面する御手洗場(みたらし)。

整備されたのは江戸時代。参拝に当たり、ここで禊(みそ)ぎをおこなう/三重県伊勢市

『日本書紀』によれば、高天原に住んでいたアマテラスは大和の宮中にまつられ、その後、諸国を経巡り伊勢に至るや、つぎのように語ったといいます【写真N-5】。

「神風の吹く伊勢の国は常世(とこよ)の波が打ち寄せる国である。大和の国の傍らにある美しい国である。この国に降りたい」

常世とは不老不死の理想郷であり、東の海の彼方にあると考えられていました。水平的で海洋的なコスモロジーを感じさせます。高いところにあると想定されるアマテラスの天も、もともとはそのようなものでした(詳しくは拙著『伊勢神宮の謎を解く――アマテラスと天皇の「発明」』を参照してください)。

また、『古事記』神話に出てくる黄泉の国は、一般に地下にあると思い込まれているようです。〈高天原〉―〈中つ国〉―〈黄泉の国〉という垂直の3層構造が従来、自明と受け止められていましたが、『古事記』をなんの予見もなく読めば、〈黄泉の国〉は地上にあり、〈中つ国〉から緩い坂を上ったところにあることが論証されています(神野志隆光)。

古来、日本列島を覆っていたのは水平的なコスモロジーだったのです。それは日が昇る東と日の沈む西に支配された線的なものであり、これを拡大してもせいぜい面的なものでした。人びとはそれで十分満足していたのですが、〈仏華厳〉の壮大なコスモロジーを知るや、圧倒されてしまったことは想像に難くありません。 

水平的なコスモロジーに垂直性をあたえるべく大陸から導入されたのが『日本書紀』に見る「天孫降臨」神話といえますが、それも出来上がってみれば線的であり、とても立体的とはいい難いものでした。『華厳経』や『梵網経』の説く立体的でダイナミックなハスのコスモロジーとくらべるなら、ひ弱な印象は否めません。

『古事記』や『日本書紀』のコスモロジーは、漠としていて曖昧に見えたのではないでしょうか。未曾有の国難に直面し、不安にかられて懊悩する聖武天皇にとって、それは頼りがいがなかったようです。

この点において、東大寺大仏が依拠する『華厳経』や『梵網経』は頼りになる、確固たる世界を提示してくれたのです。

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〈全国に花開く国分寺〉

さて、大仏建立と並行した大きな動きとして、国分寺・国分尼寺の建立がありました。それを追ってみましょう。737年3月に出された詔(みことのり)にはつぎのようにあります。

国ごとに、釈迦仏像一体と脇侍の菩薩像二体を造り、併せて『大般若経』一揃い(六十巻)を書写させよ。

740年6月には、国ごとに『法華経』を十部書写し、併せて七重塔を建てるよう諸国に命令しています。そして同年9月にも、国ごとに高さ7尺の観世音菩薩像一体を造り、併せて『観世音経』十巻を書写するよう命じています。

これらはいずれも「国ごとに」としているところから、早くも国分寺建立の発想がこのころ、すでにあったとみられます。

ここで想い起されるのは、前回言及しました、740年10月から11月にかけておこなわれた聖武天皇の伊勢行幸です。その目的は大仏建立の許しを得るためと推察しましたが、それは同時に、全国に国分寺を建立することを含めてのことだったのではないかと思われます。

ところで別の文脈の話になりますが、『続日本紀』741年1月の項に、故藤原不比等を輩出した藤原家から、不比等が受けた食封(じきふ)5,000戸を返上する申し出があり、そのうち3,000戸を諸国の国分寺に喜捨し、丈六の釈迦像を造る費用に充てたとの記事があります。

聖武天皇の皇后である光明子は藤原氏の出身ですので、これは光明皇后の主導でなされたのでしょう。

そして、同じ741年の3月に、国分寺建立の詔が出されました(一部要約)。

ここ数年来、凶作が多く、疫病もしきりに起こる。そこで737年3月には国ごとに、釈迦像を造らせ、併せて『大般若経』一揃いを書写させた。また11月には諸国の神社を整備させた。その結果、この春から秋の収穫時期にかけて天候は順調に推移し、五穀もよく実った。

『金光明経(こんこうみょうきょう)』には、「金光明経を重用する王にたいしては、われら四天王がつねに擁護し、一切の災いや疫病を消滅させよう」とある。

そこで、国ごとに七重塔1基を造営し、併せて『金光明経』と『法華経』をそれぞれ一揃いずつ書写することを全国に発令する。

このように、743年の大仏建立の詔(第16回を参照)に先行して、国分寺建立の詔が出されていたのでした。

このなかで『金光明経』と『法華経』を写経して揃えるように命じていますが、『金光明経』は国家鎮護を謳った経典で、その任に当たるのが四天王です。『法華経』が指示されたのは、国分寺の本尊が釈迦仏であることと符合しています。

〈東大寺とセットだった全国の国分寺〉

国土を一切の災いや疫病から守る力を四天王に期待して、ビルシャナ大仏が鎮座する東大寺も釈迦仏が鎮座する全国各地の国分寺も、ひとしく金光明四天王護国之寺という名をもちました【写真N-6】【写真N-7】。現在、国分寺跡は、北は東北・陸奥(むつ)国から南は九州・薩摩(さつま)国まで、全国60箇所あまりで確認されています。

【写真N-6】:東大寺南大門から大仏殿を見とおす。現在の南大門は鎌倉時代の再建/奈良市

【写真N-7】:列柱回廊に囲まれた東大寺大仏殿前の聖域。大仏殿は江戸時代の再建/奈良市

この詔には、諸国の神社を整備させたとありますが、実際には、天神地祇ばかりに頼っていてはラチがあかず、大仏建立の仕儀となったのでした。

事の推移をつぶさに見ますと、さきに紹介した『続日本紀』741年1月の記事にも見られるように、国分寺建立に関しては光明皇后主導で進められた節がうかがえます。

じっさい『続日本紀』は光明子の没年記事において、国分寺の建立を聖武天皇に勧めたのは光明皇后であったとわざわざ記しているのです。

国ごとに寺を建てる――だから国分寺――という事業は、中国で則天武后が州ごとに大雲経寺(だいうんきょうじ。大雲寺とも)を建てたことにならったとみられます。

大雲寺の制を実行した則天武后が女帝であることも、光明皇后のこころをいっそう動かしたかもしれません。そもそも大雲寺の制の発想じたい、『華厳経』のいう〈仏華厳〉のコスモロジーに基づくといえます。

〈国分寺と大仏の合体=理想の仏国土〉

『続日本紀』は光明皇太后の没年記事(760年)において、

東大寺および天下の国分寺の創建は、もともと光明皇后が(聖武天皇に)勧めたものである。

と述べていますが、国分寺を主導したのが光明皇后で、大仏建立を主導したのが聖武天皇とみることができるでしょう。

光明皇后という後世の通称は、生前、740年ころから光明子(こうみょうし)と称したことによりますが――741年3月に国分寺建立の詔が出されています――、光明子という名は『金光明経』にちなむかと思われます。全国の国分寺は直接には、この経典に基づくものであり、国分寺の正式名称は今述べたばかりですが、「金光明四天王護国之寺」でした。

とにかく都に鎮座する東大寺のビルシャナ大仏、そしてこれを取り囲むようにして全国にひろがる国分寺の釈迦仏というありかたは、ビルシャナ仏を中心にして無数の釈迦仏が周囲を取り囲むという、『華厳経』の〈仏華厳〉のイメージをほうふつとさせます(第13回)。

とすれば、全国の国分寺に鎮座する釈迦仏はビルシャナ仏の化身なのでした。国土のすみずみにまでビルシャナ仏の光明をゆき渡らせるには、当然のごとく、それは想像を絶するほど巨大でなければならなかったのです。

巨大な東大寺の大仏は、周囲にその化身たる釈迦仏を全国にしたがえて、この列島社会の隅々にまで光明をもたらし、理想の仏国土を謳い上げたのです。

理想の仏国土を実現することにより国難を克服し、国家・国民を救済する。そこでコスモロジーの果たす役割はきわめて大きかったといえます。未曾有の国難に直面した時、確かなコスモロジーをもつことにより精神的不安を鎮め、希望をもって前に進むことができたにちがいありません。