http://yahantei.starfree.jp/category/%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88/%E4%B8%8...【蕪村が描いた芭蕉翁像(四~六)】 より
その四 若冲周辺と若冲の「松尾芭蕉図」
2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その出品作の一つに、若冲の「松尾芭蕉図」がある。その図と解説記事などを掲載して置きたい。
「102 松尾芭蕉図」(石田佳也「作品解説」)
伊藤若冲筆 三宅嘯山賛 紙本墨画 一幅 江戸時代 寛政十二年(一八〇〇)筆 寛政十一年(一七九九)賛 一〇九・〇×二八・〇
若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が、芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられている。
なお、嘯山の賛は八十二歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五歳画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
「爽吾」(白文長方印) 芭蕉
春もやゝけしき調ふ月と梅
初時雨猿も小蓑をほしけなり
八十二叟
嘯山書
「芳隆之印」(朱文方印) 「之元」(白文円印)
若冲・芭蕉像3.jpg
この若冲の「松尾芭蕉図」の創作年次は、上記の「作品解説」の「改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳(注・嘯山は二歳下で八十一歳だが、賛には八十二叟とある)、寛政十年に描かれた」ものと解したい。
この若冲の「松尾芭蕉図」は、先に紹介した『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「芭蕉翁肖像 倣杉風筆 丙寅年三月十八日八僊観主人摸写 於洛東双林寺」をモデルにしていることは、一目瞭然である。
この百川筆と若冲筆とでは、細かい点では異なるが、特に、芭蕉の髭面が、若冲のそれは濃墨で、それに比して、百川のそれは顎髭がやや濃墨なだけで、やはり、それぞれの芭蕉観というのは察知される。
そして、ここには、当時、最も多くの「松尾芭蕉像」を描いた、若冲と同年齢の蕪村の影響の影は微塵もない。
即ち、若冲に取っての「松尾芭蕉像」は、共に、「売茶翁ネットワーク」(売茶翁を主軸とする連=サロン)の、年齢的に先輩格にあたる彭城百川が描くところの「芭蕉像」ということに他ならない。
即ち、同年齢の、江戸(関東)そして浪速(大阪)出身の、同じ京都の四条烏丸近辺に住む、謂わば、「余所者(よそもの)」の蕪村が描く「芭蕉像」は、若冲の眼中には無いということに他ならない。
そもそも、蕪村書簡というのは、現に五百通以上存在していると言われているが、その書簡中には、若冲を話題にしたものは皆無なのである。おそらく、この二人の直接的な交遊関係というのは存在していなかったというのが正当な見方なのであろう。
しかし、若冲の交遊関係と蕪村の交遊関係と、その枠を拡大して行くと、「池大雅・円山応挙・上田秋成・皆川淇園・木村蒹葭堂」等々と、二人の接点というのはかなりの面で交差して来る。
この冒頭に紹介した若冲の「松尾芭蕉図」に賛をしている三宅嘯山は、若冲より蕪村との交遊関係がより濃密に認められる人物と解して差し支えなかろう。
先に、宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛について、百川を私淑してのものということについて触れたが、蕪村が上洛して最初に訪れた先は、蕪村の師の宋阿(巴人)門の高弟、望月宋屋で、当時、宋屋は六十五歳の高齢で、京都俳壇の古老の一人であった。そして、嘯山は、この宋屋門の俳人なのである。
即ち、蕪村と嘯山との出会いは、この宋屋を介してのものであろう。嘯山は質商を営む傍ら、宋屋に俳諧を、慧訓和尚に詩を学んだ。後に、京都俳壇で重きをなすが、漢詩人としても『嘯山詩集(十巻)』(現存八巻)を残している。
その漢学の素養から仁和寺や青蓮院の侍講を勤めた。蕪村(そして若冲)より二歳年下であるが、蕪村との親密な交際ぶりは、百池自筆『四季発句集』に、「滄浪居士(嘯山)の大人(うし=先生)世に在(いま)す頃は老師蕪村叟とは錦繡の交はりにて常に席を同じうす」(『蕪村と其周囲(乾猷平著)』)と記されている。
蕪村が、宝暦六年(一七五六)に丹後の宮津から京都の嘯山宛てに送った書簡が今に残っている(下記「参考」のとおり)。
冒頭の、若冲の「松尾芭蕉図」に嘯山が賛をしたのは、寛政十年(一七九八)とすると、蕪村が没した天明三年(一七八三)から十五年後ということになる。若冲も嘯山も、最晩年の頃で、おそらく、嘯山が、当時の京都画壇の最右翼に位置していた若冲に「松尾芭蕉図」を依頼し、その絵図に、「春もやゝけしき調ふ月と梅」(『続猿蓑』)と「初時雨猿も小蓑をほしげなり」(『猿蓑』)との二句の賛をしたのであろう。
この芭蕉の「春もやゝけしき調ふ月と梅」の句は、許六を画の師と仰いだ芭蕉が、許六と合作した梅月画賛のために詠まれた元禄六年(一六九三)の作で、その芭蕉真筆の自画賛が何点か在り、後世、芭蕉の画賛句として珍重されていることに因るのであろう。
また、「初時雨猿も小蓑をほしけ(げ)なり」の句は、蕉門の最高峰を成す撰集『猿蓑』の、その巻頭の一句である。これまた、許六の「猿蓑は俳諧の古今集也、初心の人去来が猿蓑より当流俳諧に入るべし」(『宇陀法師』)とを意識してのものであろう。
とすると、嘯山の芭蕉観というのは、永遠の放浪の旅人を象徴化した許六の動的なイメージの句に対して、やや、この若冲の「松尾芭蕉図」は、京都以外に旅をした経験の皆無の、何処となく、「売茶翁ネットワーク」の百川の「松尾芭蕉図」を、静的なイメージとして、それをモデルとしているという思いが拭えない。
なお、天明二年(一七八二)版の『平安人物史』上における、若冲と蕪村とに関係する「画家」と「学者」とに搭載している人達は次のとおりである。
(画家の部)
藤応挙 (円山主水)、号(僊斎 一嘯 夏雲 仙嶺)、住所(四条堺町東入町)、(1733~1795)
滕汝鈞 (滕若冲)、号(若冲)、住所(高倉四条上ル町)、(1716~1800)
謝長庚(与謝蕪村)、号(春星・三菓・宰鳥・夜半亭)、住所(仏光寺烏丸西入町)、(1716~1783)
長沢(長沢芦雪)、住所(御幸町御池下ル町)、(1754~1799)
巌郁(梅亭)、住所(高辻新町西入町)、(1734~1810)
(学者の部)
三宅方隆 (三宅嘯山)、号(蒼浪・嘯山・葎亭・滄浪居・橘斎・鴨流軒・碧玉山)、住所(中長者町新町西入町)、(1718~1801)
皆川愿 (皆川文蔵)、号(淇園 有斐斎 呑海子)、住所(中立売室町西入町)、(1734~1807)
源敬義(樋口源左衛門)、号(芥亭・道立・柴庵・自在庵)、住所(下立売釜座西入町)、(1738~1812)
毛惟亮(雨森正廸) 、号(陶丘)、住所(白川橋三条下ル町)
釋慈周(六如)、号(白楼・無着庵) 、住所(安井門前)、(1734~1801)
釋竺常(蕉中・梅荘)、号(大典 蕉中 東湖)、住所(近江神埼郡伊庭)、(1719~1801)
(参考) 蕪村の嘯山宛ての書簡(書簡A)
(書簡A)
書簡A.png
上記の書簡は、宝暦七年(一七五七)、蕪村、四十二歳時の、丹後の宮津(現・京都府宮津市)から京都の知友・三宅嘯山宛てに、丹後滞在中の近況を報じたものの後半の部分で、その文面は次のとおりである。
「俳諧も折々仕候。当地は東花坊が遺風に化し候て、みの・おはりなどの俳風にておもしろからず候。一両人巧者も在之候。(瓢箪図)先生、嘸老衰いたされ候半存候。宜被仰達可被下候。詩は折々仕候。帰京之節可及面談候。御家内宜奉願候。頓首 卯月六日 蕪村(花押) 嘯山公 」
(訳「俳諧も折々やっています。当地は各務支考の影響に染まっていて、美濃・尾張の俳風で面白くありません。一・二人巧者もおります。瓢箪先生(望月宋屋)、さぞかし、御齢を召されたことと思います。宜しくお伝え下さい。漢詩も時折作っています。京に帰りましたら早速お邪魔したいと思います。奥様によろしく。頓首 四月七日 蕪村 三宅嘯山公」)
この書簡の宛名の三宅嘯山は、京で質商を営み、仁和寺や青蓮院宮の侍講をしていた。漢詩と中国白話(現代中国語)に通じた多才の人で、享保三年(一七一八)の生まれ、蕪村よりも二歳年下である。
蕉門俳人木節の子孫を娶ったのを機に俳諧を学び、蕪村の早野巴人門の兄弟子に当たる宋屋門に入り、後に点者(宗匠・指導者)の一人となっている。別号に葎亭など、その『俳諧古選』『俳諧新選』などの編著によって、京俳壇等に大きく貢献した一人である。
蕪村と嘯山との出会いは、宝暦元年(一七五一)に蕪村が上京し、その秋の頃、宋屋と歌仙を巻いており(『杖の土(宋屋編)』)、その上京して間もない頃と思われる。爾来、この二人は、「錦繍の交はりにて常に席を同じうす」(『四季発句集(百池自筆)』)と肝胆相照らす知友の関係を結ぶこととなる。
この書簡中の、(瓢箪図)先生こと、望月宋屋は、師(早野巴人)を同じくする画俳二道を歩む蕪村を高く評価しており、巴人没後の延享二年(一七四五)の奥羽行脚の際、その途次で結城に立ち寄り蕪村に会おうとしたが、蕪村が不在で出会いは叶わなかった。翌年の帰途に再び結城に立ち寄ったが、またしても、蕪村は不在で、江戸の増上寺辺りに居るということで、江戸でも探したが、そこでも二人の出会いはなかった。
それから五年の後の二人の初めての出会いである。宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛の大きな理由の一つは、この巴人門の最右翼の俳人宋屋を頼ってのものであったのであろう。
宋屋は、蕪村(前号・宰鳥)について、その『杖の土』で次のように記している。
「宰鳥が日頃の文通ゆかしきに、結城・下館にてもたづね遭はず、赤鯉に聞くに、住所は増上寺の裏門とかや。馬に鞭して僕どもここかしこ求むるに終に尋ねず。甲斐なく芝明神を拝して品川へ出る。後に蕪村と変名し予が草庵へ尋ね登りて対顔年を重ねて花洛に遊ぶも因縁なりけらし。」
(訳「宰鳥(蕪村)の日頃の便りに心引かれるものがあり、結城・下館に行ったおり訪ねたが遭えず、赤鯉に聞いたところ、住所は増上寺の裏門とか。馬を走らせて下僕に捜させたが終に遭えなかった。止む無く、芝の大神宮に参拝し品川を後にした。後に、蕪村と名を改めて、私の草庵を訪ねて来て初めて対顔した。そのまま年を重ねて京都に遊歴しているのも何かの縁であろう。」)
この宋屋の文面の「日頃の文通ゆかしきに」からして、巴人が在世中の頃から巴人と京都の巴人門との連絡役を蕪村が勤めていて、そんなことが、この両者を取り持つ機縁となっていたのであろう。また、「年を重ねて花洛に遊ぶ」ということは、当時の蕪村が京都に永住するのかどうかは不確かなことで、事実、上洛して三年足らずの、宝暦四年(一七五四)には丹後に赴き、この書簡を送る頃までの三年余を丹後に滞在している。
ここで、上記の嘯山宛ての書簡で注目すべき一つとして、蕪村と署名して、その後に、
蕪村の終生の花押となる、何やら、槌のような形をしたものが書かれていることである。
この花押は、蕪村の十年余に及ぶ関東放浪時代には見られない。おそらく、この書簡が出された丹後時代から使い始めたもののように思われる。
蕪村の落款は、関東放浪時代は無款のものが多いが、「子漢・浪華四明・浪華長堤四明山人・霜蕪村」、印章は「四明山人・朝滄・渓漢仲」などで、これが丹後時代になると、落款は、主として、「朝滄(朝滄子・四明朝滄・洛東閑人朝滄子)」が用いられ、その他に、「嚢道人(囊道人蕪村)・魚君・孟冥」、印章は「朝滄・四明山人・囊道・馬秊」などが用いられている。
これらの落款・印章の「四明」は、比叡山の四明ヶ岳に因んでのもので、当時は蕪村の故郷の摂津(大阪)の毛馬の堤から比叡山が望めたということで、「浪華長堤」(毛馬長堤)と共に望郷の思いを託したものなのであろう。
そして、この「朝滄」は、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。
宝暦元年(一七五一)に上洛して間もなく、蕪村は「嚢道人」という号を使い始める。丹後時代の大画面の屏風絵(十三点)中、六曲半双「田楽茶屋図」は、英一蝶流の町狩野系統の近世的な軽妙な風俗画として知られているが、落款は「嚢道人蕪村」、印章は「朝滄・四明山人」である。
上記書簡中の花押は、「囊道人蕪村」の「蕪村」の「村」から作った花押という見解(『俳画の美(岡田利兵衛)』があり、この「囊」は、蕪村が上洛して「東山麓に卜居」していた「洛東東山の知恩院袋町」(池大雅の生家の所在地)の「袋」に因んでのものと、その見解に続けられている。
この「蕪村」の「村」から作った花押という見解(岡田利兵衛)に対して、「槌」を図案化したものという見解(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)がある。この「槌」を図案化したという見解を裏付ける記述は見られないが、上洛前の寛延年間(一七四八~一七五一)、江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)に、「槌」を描いたものがあり、それらと関係のある花押という理解なのかも知れない。
そもそも、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場するのは、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に於いてで、そこに「鎌倉誂物」と前書きのある「尼寺や十夜に届く鬢葛」の発句を記した自画賛が収められている。それは立て膝で手紙を読む洗い髪姿の女性像で、そこに「宰町自画」と、蕪村の最初期の号「宰町」で登場する。
この『卯月庭訓』の編者・豊島露月は、蕪村の師・早野巴人と親交のあった俳人の一人で、観世流謡師匠でもあり、その絵俳書の刊行は、享保七年(一七二二)の『俳度曲(はいどぶり)』から延享二年(一七四五)の『宝の槌』まで十一点に及んでいる。
その露月編の絵俳書シリーズの一番目を飾る『俳度曲』は、謡曲名を題として、それに画と句を配したもので、そのトップを飾るのは、今に浮世絵師として名高い鳥居清倍(きよすえ)の画に、蕉風俳諧復興運動の先駆けとなる『五色墨』のメンバーの一人・松木珪琳(けいりん)の蓮之(れんし)の号での句が添えられている。それに続く二番目の画は、英一蝶(二世か?一世英一蝶は蕪村の師筋に当たる其角の無二の知友)のもので、この一蝶画に、『続江戸筏』の編者の石川壺月の句が添えられている。
これらの画人の画には、落款又は花押が施されており、おそらく、蕪村の、槌を図案化したような花押は、この露月の絵俳書のシリーズと深く関係しているように思われる。
ちなみに、蕪村が宰町の号で登場する『卯月庭訓』は、このシリーズの九番目にあたるもので、この蕪村の自画賛には花押は押されていない。この頃の蕪村(宰町)は全くのアマチュア画家で、落款や花押を施すような存在ではなかったのであろう。
その五 呉春(月渓)の描いた芭蕉像(四画像)
『呉春(財団法人逸翁美術館)』には、四点ほど「芭蕉像」が紹介されている。
52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22
(賛) 禅法ハ仏頂和尚に 参して三国相承 験記につらなり 風雅は西行上人を
慕うて続扶桑隠逸 伝に載せぬ
蝶夢阿弥陀仏謹書
(解説) 呉春が芭蕉翁の正面像をクローズアップしてえがき、その上に蝶夢法師が上の賛を記している。呉春は筆意謹厳でしたため、翁の容貌はいつも彼がえがく翁の顔である。蝶夢は僧侶であるが後半は誹諧に執心し、芭蕉顕賞に多くの業績をのこした。寛政七年(一七九五)没。
53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41
54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29
(賛) 海島圓浦長汀唫
あつみ山吹浦かけて夕すゞみ 汐こしや鶴脛ぬれて海すゞし あらうみや佐渡によこたふあまの河 早稲の香や分入右は磯海
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
このつかい這わたるほどといへば
蝸牛角ふり分よ須磨明石
右芭蕉翁作 嘯山
55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28
呉春の芭蕉像.jpg
右上(52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22)
右下(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)
中央(54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29)
左上(55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28)
『呉春(財団法人逸翁美術館)』所収の「呉春略年表」によると、「天明二(一七八二)三一歳 池田で迎春、呉春と改む。剃髪」とあり、「月渓」の号を「呉春」と改めたのは、天明二年(一七八二)ということになる。
しかし、「月渓」と「呉春」とを併用している期間が、寛政元年(一七八九)の応挙の写生画に完全に転向するまでの間には認められるので、この天明二年(一七八二)から寛政元年(一七八九)までの間のものは、蕪村風(南画風)のものには「月渓」、そして、応挙風(写生画風=円山四条派風)のものには「呉春」と、大まかに使い分けしていると理解して差し支えなかろう。
このような観点から、上記の芭蕉像のうち、呉春の署名のある「52 呉春筆」と「55 呉春筆」のものは、寛政元年(一七八九)以降の創作と理解したい。そして、月渓の署名のある「53 月渓筆」は、落款に「丙午十月十二日月渓拝写」とあり、天明六年(一七八六)の作で、呉春と改号しているが、月渓の署名でしているものと理解をしたい。なお、この「53 月渓筆」は、安永八年(一七七九)、蕪村が金福寺の芭蕉庵再興(再興は安永五年で、再興後の芭蕉忌に因んでのもの)に際しての掛物の「蕪村筆芭蕉像」をモデルにしてのものであろう。
さて、この中央の「54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛」のものであるが、この異様な無精髭の、眉の濃い、そして、何処となく旅の疲れで窶(やつ)れている感じの芭蕉像は、この芭蕉像の作者、妻と実父の不慮の死に遭遇して、京都から池田へと隠棲した頃の、月渓の風貌を醸し出している雰囲気で無くもない。
因みに、天明五年(一七八五)十一月二十五日には、池田で田福主催の夜半亭(蕪村)三回忌が執行され、その折りの月渓は、「雲水月渓」の、「雲水」(行脚僧)の二字を、己が号の「月渓」に冠しているのである。
その「雲水月渓」の描いた「雲水芭蕉像」の雰囲気でも無くもない。そして、それに賛する、蕪村の畏友の嘯山の芭蕉の選句(「奥の細道・笈の小文」)もまた、その「雲水月渓」の、その当時の月渓を思い巡らしているような雰囲気で無くもない。
その六 金福寺の「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)と「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)
安永五年(一七七六)四月、樋口道立の発起により、洛東一乗寺村の金福寺に芭蕉庵が再建された。但し、この時の草庵は天明元年(一七八一)に改築されているから、その実は仮小屋のようなものであったらしい(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。
この芭蕉庵再建発起を機に、蕪村門の有志が集まって「写経社」という俳諧結社が誕生し、その八月に『写経社集(道立編)』が成り、その巻頭に蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」が収載されている。
これらのことに関して、その蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」の末尾の頃に、蕪村は次のように記している。
[ よしや、さは追ふべくもあらず(注・金福寺には芭蕉と関係している書画・文献などは存在しないが)、たゞかゝる勝地に、かゝるたとき名(注・道立の曽祖父の伊藤担庵の知人が「芭蕉」を名乗っていた)ののこりたるを、あいなくうちすておかんこと、罪さへおそろしく侍れば、やがて同志の人々をかたらひ、かたちのごとくの一草庵を再興して、ほとゝぎす待つ卯月のはじめ、をじか啼く長月のすゑかならず此の寺に会して、翁の高風を仰ぐことゝはなりぬ(注・芭蕉の蕉風俳諧を仰ぐ「写経社」会を結成した)。再興発起の魁首は、自在庵道立子(注・樋口道立)なり、道立子の大祖父担庵(注・伊藤担庵)先生は、蕉翁のもろこしのふみ(注・漢学)学びたまひける師にておはしけるとぞ。されば道立子の今此興にあづかり(注・芭蕉庵再興の発起に関係される)給ふも、大かたならぬすくせ(注・前世)のちぎりなりかし。
安永丙申五月望前二日(注・安永五年五月十三日) 平安 夜半亭蕪村 慎記 ]
この道立が再建した芭蕉庵の傍らに、翌年の安永六年(一七七七)、「芭蕉顕彰碑」が建立された。その全文は次のとおりである。
「芭蕉翁以諧歌聞於海内 諧歌即世所謂俳諧者 翁之履歴人往往詳之 盖伊賀人罷仕隠於 江戸 又住江之大津遷於摂而終 翁没七十余年高士韻人与夫諧歌者流思慕稱賛不已」
(芭蕉翁、諧歌を以て海内に聞こゆ。諧歌は即ち世の俳諧と謂ふ所のものなり。翁の履歴は人往々にしてこれを詳らかにす。盖し、伊賀の人、仕を罷めて江戸に隠る。又、江の大津に住み、摂に遷りて終る。翁没して七十余年、高士韻人とその諧歌者の流れ、思慕称賛すること已まず。)
「翁冢所在有之 姪道卿新建於東山詩仙堂南金福寺中 請予銘焉 予義祖伊藤担菴先生亦与翁交 担菴集中有謝翁邀飲詩 亦可以想翁為人矣」
(翁の冢所在にこれ有れど、姪道卿、新たに東山詩仙堂の南金福寺中に建て、予に銘を請ふ。予の義祖、伊藤担菴先生は亦た翁と交はる。『担菴集』中に「翁に謝して邀飲す」の詩有れば、亦た以て翁の人と為りを想ふべし。)
「今之諧歌要有二端 牛鬼蛇神眩耀蒿目 打油釘鉸脂韋莠口 野服葛巾風標如仙 而明人所謂 那白雲常飛卓程屋上」
(今の諧歌、要二端有り。牛鬼蛇神、眩耀して蒿目し、打油釘鉸、脂韋して莠口す。野服葛巾、風標仙の如し。而れば明人の所謂「那白雲常飛卓程屋上」たり。)
「翁作諧歌 清新不俗 澹有骨力 庶幾詩家陶韋 抑又上援杜陵 下伴香山 亦或可擬 世傳翁風 神散朗侯鯖 如茶泓崢 之寄杖□(尸にギョウニンベンと婁) 千里可謂進于技者矣」
(翁の作りし諧歌、清新して俗ならず。澹として骨力あれば、詩家陶韋に庶幾たり。抑又、上は杜陵を援き、下は香山を伴ふ。亦た或は擬ふべし、世に伝ふる翁の風。神散朗として侯鯖、茶の泓崢たるが如し。これ杖□(尸の中ギョウニンベンと婁)を寄せて、千里技に進む者と謂ふべきや。)
「道卿名敬義 予仲氏第二子 出嗣樋口氏 為吾藩同宗川越侯源公知京邸事 慧而不苛 介而能円 多諸技芸 其於諧歌 盖亦有師 受淵源云 道卿与翁生不並 世出處異轍 而心酔不已 至有斯挙 盖有臭味相契於衷者」
(道卿、名は敬義。予が仲氏の第二子なり。出でて樋口氏を嗣ぎ、吾が藩の同宗、川越侯源公が為に京邸の事を知す。慧くして苛せず、介にして能く円かなり。諸ろの技芸を多くす。其れ諧歌に於いては、盖し亦た師有り、淵源を受くと云ふ。道卿、翁と生は並ばず。世に出づるに処は轍を異にすれど、心酔して已まざれば、斯かる挙の有るに至る。盖し臭味有りて、衷に相契る者なり。)
「嗚呼 翁者予義祖所交 而道卿尸祝焉 予豈漠然 銘曰 才□(ニクヅキに叟)貌□(ヤマイダレに瞿) 錦心綉腸 行雲流水 十暑三霜 野老争席 桃李門墻 人与骨朽 言与誉長 勒珉此處 建冢多方 維斯名寺 風水允揚 卜隣高士 魂其帰蔵 雖非桑梓 維翁之郷 越国文学播磨清 絢撰
安永丁酉夏五月 平安處士 永忠原書 」
(嗚呼、翁は予の義祖が交、道卿の尸祝する所なり。予、豈に漠然たらんや。銘に曰く、
才□貌□[サイシボウク] 錦心綉腸[キンシンシュウチョウ]
行雲流水[コウウンリュウスイ] 十暑三霜[ジッショサンソウ]
野老は席を争う 桃李の門墻
人と骨とは朽つとも 言と誉れとは長ず
珉を此処に勒り 冢を建つ多方
維れ斯の名寺 風水允に揚ぐ
高士を卜隣すれば 魂それ帰蔵す
桑梓に非ずといえども 維れ翁の郷
越国文学播磨 清絢撰
安永丁酉夏五月 平安処士 永忠原書 )
この「芭蕉顕彰碑」の碑文の撰者は、「越国文学播磨(越前福井藩儒学者・播磨出身) 清絢(清田絢)撰」で、道立の叔父の清田(せいだ)憺叟(たんそう)である。
明和五年(一七六八)版『平安人物史』「学者」の部には、道立、道立の父・江村北海、そして、この清田憺叟の名も収載されている。
また、この碑文の書は、その『平安人物志』「学者」と「書家」の項に「永忠原 字俊平号東皋上長者町千本東ヘ入町 永田俊平」で出て来る永田俊平の書である。そして、この二人とも、道立に連なる当時の京都の名士なのである。
この「芭蕉顕彰碑」の日付の「安永丁酉夏五月」は、安永六年(一七七七)五月で、芭蕉庵が再建された翌年ということになる。
そして、翌々年の安永八年(一七七九)に、蕪村は「芭蕉翁自画賛」を描き、それを金福寺に奉納する。これは、頭陀袋を前に掛けた座像で、その上部に芭蕉の発句十五句が加賛されている。その上に、清田憺叟が、上記の「芭蕉顕彰碑」の一部を加賛している。
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金福寺「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)
この金福寺の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)の下部には、「安永巳亥十月写於夜半亭 蕪村拝」との落款が記されている。この「安永巳亥」は、安永八年(一七七九)に当たる。この時に、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描き、その二点には、芭蕉の発句が二十句加賛されているという(『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」)。
この安永八年(一七七九)は、蕪村が没する四年前の、六十四歳の時で、晩年の蕪村の円熟した筆さばきで、崇拝して止まない、晩年の芭蕉の柔和な風姿を見事にとらえている。
先に紹介した、月渓の「芭蕉像」(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)は、この蕪村の「芭蕉翁自画賛」をモデルとして描いたものであろう。そして、この両者を比べた時に、蕪村と月渓とでは、その芭蕉に対する理解の程度において、月渓は蕪村の足元にも及ばないということを実感する。
さて、金福寺の芭蕉庵は、天明元年(一七六一)に改築再建され、この改築再建に際して、蕪村は、先に紹介した安永五年(一七七六)の『写経社集(道立編)』に収載した「洛東芭蕉庵再興記」を自筆で認めて、金福寺に奉納する。
これらの、上記の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)と「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)とが、今に、金福寺に所蔵されている。
(補説)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「88『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。
紙本淡彩 一幅 一二八・一×二七・九cm
款 「安永己亥冬十月写於夜半亭 蕪村拝」
印 「春星氏」(白文方印) 「東成」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九) 金福寺蔵
(賛)
才□(ニクヅキに叟)貌□(ヤマイダレに瞿) 錦心綉腸
行雲流水 十暑三霜
野老争席 桃李門墻
人与骨朽 言与誉長
勒珉此處 建冢多方
維斯名寺 風水允揚
卜隣高士 魂其帰蔵
雖非桑梓 維翁之郷
越国文学播磨 清絢撰
こもを着て誰人います花の春
花にうき世我酒白く飯黒し
ふる池やかはす飛こむ水の音
ゆく春や鳥啼魚の目はなみた
おもしろふてやかてかなしきうふねかな
いてや我よきゝぬ着たり蝉衣
子とも等よ昼かほさきぬ瓜むかん
夏ころもいまた虱をとり尽きす
名月や池をめぐりてよもすから
はせを野分して盥に雨をきく夜かな
あかあかと日はつれなくも秋のかせ
いな妻や闇のかたゆく五位の声
世にふるもさらに宗祇の時雨かな
年の暮線香買に出はやな
(口絵)
金福寺芭蕉像・部分.jpg
金福寺「芭蕉翁画賛」(一幅・部分)
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