日輪・春は馬車に乗って 横光利一

https://www.mannequinboy-1.com/entry/2014/10/15/210454  【日輪・春は馬車に乗って 横光利一】 より

「火」について

とりあえず「火」からいきます。「火」は、横光の作品で、最も早い時期に書かれたものだといわれています。僕はこれを読んで、素直に感動してしまいました。

少年を主人公にした短い作品で、主人公は母と2人暮しの米です。姉が遠くに暮らし、父親のいない、そんな家族の環境から、米はちょっとした不安症に陥っています。幼児特有の被害妄想だといえばそうですが、彼の胸中においては、世界そのものが地響きをたてるほど戦慄な現象が目の前に繰り広げられていきます。少年が最も関心を抱いているのは母親ですけど、母親は隣人の男と親しくし、度々やってくる刺繍の先生の男ともどうも仲が良いようです。

米は自分の不安な感情を母親をひとりじめすることで逃れようとし、けれど母親はそんな彼の気持ちを理解しません。彼はその胸に家族の貧しさを精一杯受け止めようとしながら、砂をダイヤモンドと思いこんだりして、これで家も豊かになるなどと妄想していきます。

その夜、やってきた刺繍の先生の男と話を交わし、母親は米を寝かしつけます。まだ子供である米は、大人たちよりも早く眠りの世界に入らなければならないのです。米はそこで奇妙な夢を見ます。辺りが真っ赤な火で燃え上がっていくんです。無論、それは少年の夢心地で見られた妄想なんですけれど、それが本当にただの妄想であるかどうかは、わからないわけです。

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「この作者は緻密な客観的作風から、よほど主観的な作風に転廻しようと悶えているらしい」とこの作品が応募されたときの選考員の一人がいったようですが、このもっとも早い時期の横光の作品に描かれたのは、確かにそんな「象徴主義的」な方法論だといえます。「象徴主義」とは、不可視的なものを「可視化」しようとするときに用いられる方法で――当時フランスを発端に、自然主義へ対抗するために表れた文学的な思想運動です――、それがそうなるのは、それが言葉にできないものだからです。

小説のし掛けは、本当にとてもうまくて、最後の場面の〝火〟が、少年の言葉にならない感情の代価であると認めることができるのは、砂をダイヤモンドだと思える真率な妄想が、途中ではっきりと描かれているためです。米は孤独ですが、そのため逞しい想像力を持っているといえます。その想像性は、「絶対的」(母親)なものから拒まれているという苦悩と背中合わせであることがさらに強いリアリティーになっているんです。

子供の闇の世界にメスを入れ、その〝他愛なさ〟に「世界の原型」を見ようとした小説ともいえると思います。また最後の場面の曖昧な言葉の綴り方など、これは傑出した作品だといっていいと僕は思うんですが。

横光は映像的な小説を書いた作家といわれています。確かにこれなんかはとても映像的だと思います。それは描写がそうなのではなく、映像という〝フェティッシュ〟が、どのような形で生まれるものであるのか、それがまさにここに形成されるがごとく描かれてあるためにほかなりません。映像は主観的な産物です。それは現実をなぞるものじゃなく、その「客観」を逸脱する方法を駆使して現れるものです。

「笑われた子」「御身」について

「笑われた子」は、志賀直哉的な影響を、僕はすごく感じました。描かれている内容は、最初の「火」に近いかな、と思います。

ここに表れた〝自分を笑う仮面〟は、自分の胸の内を裏切って行く、現実化された分身的表情というものだといってよいと思います。最後、既に大人になった少年は、自分の境遇を決定したその仮面を蹴りますが、これは無論、自分を裏切ることでしか現われない「現実」を蹴っているわけです。

「御身」は〝近親相姦〟の問題を扱っていて、ある種きわどい作品ですが、これはタブーを扱っているというよりは、私小説的な性格が強いのでは、と僕は思いました。

主人公の青年は姉に子供ができたことで、それが自分の子ではないか、と妄想を働かせていきます。その娘が種痘を打ち、それが原因で一本腕を切断したという描写が途中に出てくる。いっそのことなら自分が将来その不憫な娘の父親になってやろうと思い込んだりしていきますが、これは全て青年の早とちりなんです。肥大した愛情表現と呼ぶべきものです。けれどこのような〝錯覚〟は、主人公の青年の、ある種の病的とでもいうべき、姉への追慕が引き起こしたものなわけです。

強迫的とでもいえる、このような横光が描く近親者への〝愛〟は、処女作の「火」の母を慕う少年の思いと通じています。潔癖なまでの姪に対するその思いは、実は全く青年の1人芝居なものなのに過ぎませんが、だから姉も青年の姪に対する感情を何も心配などしていないし、平然と暮しているわけです。辺りが平然としていればいるほど、青年の妄想は逞しくなっていきます。ここで巻き起こる〝叶えられない愛〟は、さらに奇形的な妄想的表情となって、主人公の苦悩をただひたすら尖らせていきます。

「赤い着物」「春は馬車に乗って」「花園の思想」について

「赤い着物」は、「火」の少年の後顛末に近い風貌を持っているといえる作品だといえます。この少年は、愛情を寄せた少女の気を引こうと、自分が悪戯を仕掛け遊んでいた最中で、不慮の事故で命を落とす不幸に見舞われてしまいます。しかし少年が死んだ理由は誰にもわかりません。〝遊んでいて死んだ〟という見解しかきっと見つけられることができないものですが、このとき紛れもなく少年の命を奪ったのは、少年の〝過剰な愛への欲求〟に他ならないのです。

横光作品には、多くこのような〝死〟の吸引力が常に潜んでいます。主人公たちが次々死の暗い影に導かれるのは、現実では解消されない強迫的な愛情表現の拠り所を見出してしまうからです。

「春は馬車に乗って」「花園の思想」は、横光の私小説作品ですが、横光の最初の妻は、まだ結婚僅かのときに病で亡くなりました。そのときのことを書いた作品です。「春は馬車に乗って」はすこぶる客観的で、叙情に流されまいとする冷徹な視線が、けれども叙情を喚起させるリアリズムで描かれ、「花園の思想」はかなり横光特有の〝妄想性〟が叙述されているところが特徴だと僕は思います。

「春は馬車に乗って」は、死に至る妻を作品の中に救おうと、幾らか童話的雰囲気を絡めた感じになっていまして、妻との別れを作者はだんだん認めていく感じなんですが、「花園の思想」は、明瞭にその絶望感が、現実化できない思いとしてぶちまけられているといえます。

横光は感覚を描いた作家といわれ、一方心理を描いた作家ともいわれていますが、この〝感覚から心理へ〟の技法の変化は、きっとこの妻の件が大きく関与しているのではないか、と僕は思います。そして上海へ渡り、その後に生まれる小説が、問題作の「機械」です。

「機械」について

「機械」は横光の初期を代表する作品といっていいと思います。横光という作家は、先にもいったように、〝感覚から心理へ〟という方法の軌跡を描いた作家ですが、この小説はその心理小説のひとつのピークです。僕は横光がどのように評価され、文学史の中で論じられているかほとんど知らないのですが、この〝感覚から心理へ〟の過程は、決して方法論の転回のようなものではなく一貫して必然のものであったと考えています。

 初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。観察しているとまだ三つにもならない彼の子供が彼をいやがるからといって親父をいやがる法があるかといって怒っている。畳の上をよちよち歩いているその子供がばったり倒れるといきなり自分の細君を殴りつけながらお前が番をしていて子供を倒すということがあるかという。見ているとまるで喜劇だが本人がそれで正気だから反対にこれは狂人ではないのかと思うのだ。少し子供が泣きやむともう直ぐ子供を抱きかかえて部屋の中を馳け廻っている四十男。この主人はそんなに子供のことばかりにかけてそうかというとそうではなく、凡そ何事にでもそれほどな無邪気さを持っているので自然に細君がこの家の中心になって来ているのだ。家の中の運転が細君を中心にして来ると細君系の人々がそれだけのびのびとなって来るのももっともなことなのだ。従ってどちらかというと主人の方に関係のある私はこの家の仕事のうちで一番人のいやがることばかりを引き受けねばならぬ結果になっていく。いやな仕事、それは全くいやな仕事でしかもそのいやな部分を誰か一人がいつもしていなければ家全体の生活が廻らぬという中心的な部分に私がいるので実は家の中心が細君にはなく私にあるのだがそんなことをいったっていやな仕事をする奴は使い道のない奴だからこそだとばかり思っている人間の集りだから黙っているより仕方がないと思っていた。       (「機械」 横光利一)

プレート製造工場で働く青年がこの作品の主人公です。彼は主人にほとほと困り果てているようで、主人が賃金を何処かに落とす癖があるからです。妻はそんな主人を完全に間抜け呼ばわりしています。その同じ職場に働く同僚の軽部という男がいます。主人公はこの男に訝しがられています。なぜなら工場での発明や実験を盗みにきたスパイだと思われているからです。やがてプレートの注文が入り、人手が足りないことから屋敷というひとりの男が工場にやってきます。この男の登場によって、事態はその歯車を歪な風に加速させていくことになります。

三人の働き手が、いわば舞台の工場である〝機械〟のように、ドタバタを演じはじめていきます。疲れ果てて仕事をこなし、いがみ合いながら、金は、結局主人によって紛失してしまうことになる、それも全てあらかじめ決められていた台本だったように、小説は屋敷が不意の事故で死ぬ、というオチまでついています。

この「機械」という、まさしく精巧な機械のように描かれた小説が一見して奇妙なのは、句読点のほとんどが除去された、回りくどい饒舌な文体で書かれていることでしょう。この小説はあくまで主人公の意識の中で行われた現象だからそうなっているわけで、無論、事件は起こっているのですが、作者が捕えようとした主眼は事件そのものにではなく、事件に翻弄され、解決の糸口を見出せず翻弄する、主人公の曖昧模糊とした、その〝意識の脱線〟という心理にあるといってよいのです。

この言葉を発してそれが何かに定まらずに次の言葉を誘発していく饒舌は、ドストエフスキーの散文と似通っていますが、作品から醸し出されているものは違います。確かに「現実化」できない〝意識〟の構造を緻密に解析するという目論みが、下地としてあると思いますが、横光利一という作家の特徴は、全てを〝主観的〟に見る視点に多くを依っているといえます。処女作の「火」以来追求された〝現実化できない故の妄想〟は、「現実」から逸脱していく主観そのものです。

切迫した感情は、「現実」で表現することができない故、それは〝象徴〟となり、〝異常性〟となり、ときに〝死〟にまで導かれます。それは文字通り妄想の産物なんですが、それが妄想だと認識している、もう1人の人間――それが作者に他ならないわけですが――がいる限りにおいて、それは小説と成り得るという構造を持っています。

横光が辿り着いたのは、そういった「現実化」しない〝妄想〟の細密画――心理というもの――を描いてみせるという方法だったのじゃないかなと僕は思います。「機械」はその最初の実践だったように思えます。このとき妄想を象徴化するという振る舞いからは、横光は既に遠く離れていました。

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「機械」を描くときに横光が意識したのは、当時隆盛を極めつつあった〝プロレタリア文学〟だったんじゃないかな、と僕は思ってなりません。端的に、これは〝プロレタリア文学批判〟なのじゃないかな、と。

初期の頃の感覚に訴えたリアリズム的な作品は〝自然主義への違和感〟――まさしく象徴主義です――と見てとれ、「機械」に描かれたような心理劇は、〝プロレタリア文学への違和感〟に僕には見えます。彼が描いたのは、一貫して〝思いは現実化されない〟、というそれであることは変わらなかったわけですが、同時に当時の規制の小説とは相いれないもの、やはり現実になっていたものではないものを常に書こうとしていた。横光利一という作家はそうして新しい時代に見合った新しい小説を書こうとしたからこそ、また「時代」と寄り添いそれを超えていったわけです。

横光は〝実験的な作家〟であり、けれどそれが〝中途半端〟であったともいわれるようですが、本来は逆説的ではないかなと僕は思っています。うまくいえませんが、〝実験性に惑溺したからこそ中途半端〟であった、といわざるを得ない一面があったといえるのではないかな、と思うんです。

「日輪」について

「日輪」はこの作品集で最後に収められた作品で、横光の文壇登場の作です。相当力の入った作品で、読めばわかりますが、目新しさだけで読後の印象があまりないかな(笑。

舞台は、古代邪馬台国で、主人公は卑弥呼です。彼女を取り巻く男達の、美に纏わる死と殺戮の狂気が、そのたった一人の女性を巡る人間模様として描かれていきます。「機械」と同様、これもある種の不条理劇なんですが、こちらはすごく〝感覚的〟な作品で、ひとつの物語を映像的誇大表現で描いたような作風を持っていて、なんだか確かに映画を観ているような臨場感があります。でも、面白いのか、といわれたなら、やっぱり僕はあまり好きじゃないかな。

その〝手法〟が目新しさのみで使われているところがたぶんにあって、なぜにそのような舞台で、そのような語り方になっているのか、という動機が弱い気がするんです。

実験の作家横光利一

横光利一は夏目漱石のような作家とどこか似ていると僕はちょっと思うんです。漱石は、当時文壇の主流であった〝自然主義〟を離れ、〝余裕派〟と呼ばれました。人間の醜い部分を描くのではなく、ユーモアのある人間を技法や方法論を駆使したやりかたで書いた作家だったので、それは言葉遊びに戯れる、人間の内面からの逃亡だとも揶揄されました。しかし、本来それは文学的には逆説で、〝本当のこと〟を描こうとしたからこそ、方法論――つまり何かを語るかではなく、いかに語るか、という意識――に与していくしかなかったわけです。

横光も似たように凄く方法論的には意識的な作家でした。この初期作品集には、そのエッセンスが詰まっています。横光は漱石的なものを継承しようとしたんじゃないでしょうか。「火」から「機械」への道のりは、ひとりの作家としての〝実験の追及〟がいかんなく感じられるものです。

彼が実験的な方法意識に与していったのは、時代に敏感だったからではなく、何も語るべきことを持たなかった作家だったからではないか、ともいえるかなと僕は思います。横光は新しい時代に登場したその「大衆」――まさに名もなき存在――という存在にどう小説は読まれるべきか、そのことについてとにかく苦心した作家でもありました。純文学でありながら通俗性である〝純粋小説〟という定義まで持ちだしましたが、今はすっかりこのような呼称は影を潜めました。

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