横光利一の『上海』を読む

 http://www.raichosha.co.jp/mm/00300.html  【週末文章スクール - 雷鳥社】  より

この海鼠(なまこ)のような連載も今日で終わりです。ここまで読んでいただけた方にはこの場を借りてお礼申し上げます。さて、最終回は横光利一の『上海』を読みます。戦前は川端康成と並ぶ流行作家でありながら、戦後は国粋的だと批判を浴びて失墜し、今では読む人もほとんどいない作家ではないでしょうか。でも、二十世紀の日本文学を文学理論とその作品によって、先頭に立って切り開いていったのは横光利一にほかなりません。まずは読んでみてください。そのおもしろさこそ、小説の生命にほかならないのですから。

満潮になると河は膨れて逆流した。火を消して蝟集しているモーターボートの首の波。舵の並列。抛り出された揚げ荷の山。鎖で縛られた桟橋の黒い足。測候所のシグナルが平和な風速を示して塔の上へ昇っていった。海関の尖塔が夜霧の中で煙り出した。突堤に積み上げられた樽の上で、苦力(クリー)達が湿ってきた。鈍重な波のまにまに、破れた黒い帆が、傾いてぎしぎし動き出した。

白皙明敏な、中古代の勇士のような顔をしている参木(さんき)は、街を廻ってバンドまで帰ってきた。波打際のベンチには、ロシア人の疲れた春婦達が並んでいた。彼女らの黙々とした瞳の前で、潮に逆らった(舟偏に山、舟偏に反・読み:さんぱん)の青いランプがはてしなく廻っていた。

横光利一は「新感覚派」の騎手と呼ばれた。

片岡鉄兵、川端康成、中河与一、稲垣足穂らとともに文芸誌「文芸時代」を創刊し、新感覚派文学の運動をおこしたのだが、その「新感覚派」という呼び名を生んだのは、横光が「文芸時代」の創刊号に書いた『頭ならびに腹』の冒頭である。

真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。

「新感覚派」という呼称は、文芸評論家の千葉亀雄によって名付けられた。この後に横光が一九二四年(大正十四年)に書いた『感覚活動――感覚活動と感覚的作物に対する非難の逆説』(のちに『新感覚論』と改題)が、その理論的支柱となった。

横光のいう「新感覚」とは、視覚や聴覚など人間の感覚が感じるままにしたがって外界の現実をとらえ、言語化することである。旧来の自然主義の唱える既成の観念に則って外界の現実をとらえる方法とは明らかにちがう。今では当たり前になっている描写方法であるが、この書き出しが二十世紀を迎えた日本とそれを取り囲む世界を描くために社会が求めていたものになっていく。

もちろん、横光とて上記のような奇抜な比喩ばかりの文章を書いていたわけではない。しかし、当時【魔都】と呼ばれた上海という都市を描くには横光の文体をおいては描き得なかったのではないか、と思わせるものがその文体には表れている。街の持っている猥雑なエネルギーがダイレクトに伝わってくるのだ。

崩れかけた煉瓦の街。其の狭い通りには、黒い着物を袖長に着た支那人の群れが、海底の昆布のようにぞろり満ちて淀んでいた。乞食等は小石を敷きつめた道の上に蹲っていた。彼等の頭の上の店頭には、魚の気胞や、血の滴った鯉の胴切りが下っている。そのまた横の果物屋には、マンゴやバナナが盛り上ったまま、鋪道の上まで溢れていた。果物屋の横には豚屋がある。皮を剥がれた無数の豚は、爪を垂れ下げたまま、肉色の洞穴を造ってうす暗く窪んでいる。そのぎっしり詰まった豚の壁の奥底からは、一点の白い時計の台盤だけが、眼のように光っていた。

「私に上海を見て来いと云った人は芥川龍之介氏である」(「静安寺の碑文」)とこの横光の上海行きを勧めたのは晩年の芥川龍之介だったと後年横光が回想している。芥川が何を思って、横光の上海行きを勧めたのか、今となってはわからない。 

おもしろいのは、芥川は中国を舞台にした『南京の基督』などを書いているが、彼も一九二一年(大正十年)三十歳のときに上海、蘇州、南京、洛陽、そして北京などを訪れていることだ。『南京の基督』は実際に芥川が南京を訪れる前年に書かれたものだが、芥川は後にこの体験を『上海游記』として「大阪毎日新聞」や「東京日日新聞」に連載している。その上海を見てきた芥川その人が横光に対して上海を見てこい、と言ったという。横光の資質を見抜いて言ったのだとすれば、芥川の慧眼にはただただ恐れ入るばかりである。

こうして、横光は一九二八年(昭和三年)四月に上海を訪れることになった。

新しい文学には新しい素材が必要である。日本の都会に住む無名の男女の姿を描いてきた横光は、西洋列強がその植民地主義によってつくりだした租界地・上海に、東洋と西洋が対立し混じり合い、そこに集まってきた様々な事情を抱えた男たち、女たちの姿をそこに見いだしている。

「もう一年たてば、俺は美事にここで、巨万の富を掴んでみせるぞ」とうそぶく日本人、甲谷(こうや)に現代の中国で経済活動に血道をあげる日本人の原型を見るかもしれない。あるいは中国人の富豪の妾になっているお柳や白人の客から人気を集めているダンサー宮子にも同じことはあてはまる。

多様な人種の夢と野望が混じり合い、まさに沸騰状態にあった国際都市上海を舞台に横光は、五・三〇事件の騒乱事件を描く。一九二五年五月三十日、中国の学生・労働者の間で盛り上がった反日・反帝国主義の気運は、上海で大規模なデモを引き起こした。これにイギリス警官隊が発砲したのである。この闘争は西洋列強によって鎮圧されたが、一九一九年のパリ講和条約調印問題をきっかけに中国全土で発生した反帝国主義(反日)運動(五・四運動)と並んで、中国人にとっては反帝国主義の象徴する事件である。

 群衆は喊声を上げながら、再び警察へ向かって肉迫した。瀑ける水の中で、群衆の先端と巡邏とが、転がった。しかし、大厦の崩れるように四方から押し寄せた数万の群衆は、忽ち格闘する人の群れを押し流した。街区の空間は今や巨大な熱情のために、膨れ上った。その澎湃とした群衆の膨張力は黒い街区のガラスを押し潰しながら、××の関門へと駆け上ろうとした。と、一斉に関門の銃口が、火蓋を切った。群衆の上を、電流のような数条の戦慄が、駆け廻った。瞬間、声を潜めた群衆の頭は、突如として悲鳴を上げると、両側の壁へ向かって捻じ込んだ。再び壁から跳ね返された。彼らは弾動する激流のように、巻き返しながら、関門めがけて襲いかかった。

 「×国人を、倒せ。」

 「×国人を。」

 しかし弾丸は金属であった。銃声の連続する度に群衆の肉体はただ簡潔に貫かれた。

この描写も秀逸である。

主人公の参木(さんき)は欲望が渦巻く上海を舞台に、売春婦に落ちてゆく女お杉に感情移入しつつも、中国共産党の芳秋蘭に引きつけられてゆく。だが、横光は単純に中国人の立場に同情してこの小説を書いたわけではない。帰国後「目下東洋を救つてゐる最も有力なものは、日本のミリタリズム以外にはないであろう」とさえ横光は書いている。参木が芳秋蘭(ほうしゅうらん)を相手に中国の状況を分析する言葉には、現代の日本人が中国を見る見方に通じるものがある。

「僕はさきにも申し上げた通り、あなた方がわれわれの工場の機械をおとめになると云うことには、今何と申上げていいか分りませんが、しかし、中国がいま外国資本を排斥することから生じる得は、中国の文化がそれだけ各国から遅れていくと云うことだけにあるんじゃないかと思うんです。これは勿論重々失礼な云い草だと思いますが、しかし、優れたコンミニストとしてのあなたの比の客観的な平凡な問題に対しての御感想は、最も資本の輸入の必要に迫られている中国であるだけに、一応承わっておきたいと思うんです。」

戦前のマルクス主義文学に対する批判的態度や横光が国粋的知識人と見なされていたため、戦後多くの批判を浴びて横光の小説は葬り去られた。一九九八年に横光利一の生誕一〇〇年を記念する会において、「戦後の文壇が、横光一人に戦争の責任を負わせて自分達が助かろうとしたのは、明らかに間違いであった」と井上ひさし氏が語ったという。

先に取り上げた『新感覚論』や「純文学にして通俗小説」こそ、文芸復興の唯一の道だとした『純粋小説論』、そして「自分を見る自分」を「四人称の発明工夫」によって対処するしかないと説いた横光であるが、まずは作品を読んで欲しい。できればよく取り上げられる『機械』といった短編よりも、今回読んだ『上海』や『家族会議』『寝園』『紋章』といった長編を読んで欲しい。抜群におもしろいのだ。