蕪村の旅|春の海 終日のたり のたりかな

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【蕪村の旅|春の海 終日のたり のたりかな】 より

俳句を詠めば芭蕉、一茶と並び、画は池大雅と双璧をなすと讃えられる。

ついには俳句と画が渾然一体の独自の新境地を拓いた与謝蕪村。

生涯の大半を旅に明け暮れ、漂泊を創作の糧とした。

なかでも、丹後で過ごした日々は、蕪村に大きな転機をもたらした。

そこは亡き母を偲ぶ郷愁の地、友と交わり、画と俳句に励んだ丹後に蕪村の足跡を辿った。

白砂青松の天橋立が横たわる与謝の海。蕪村は丹後の各地を訪れ、句や画を残した。

柔らかな日ざしのなか、波穏やかな与謝の海が広がっている。白砂青松を海上に連ねる天橋立、彼方の丹後半島の山々もうす墨で描いたように霞んでいる。つい、うとうとと気持ちよく眠ってしまいそうな風景だ。そして、頭に浮かんだのがこの一句。

  春の海 終日[ひねもす]のたり のたりかな

作者は、与謝蕪村。この句は、丹後与謝の海を詠んだともいわれている。しかしこの句を目にすると、まどろむような海の情景がたちまち現れる。光溢れた印象派の風景画を見るように、平明で親しみやすい。そんな叙景性が蕪村の句の特徴であり、魅力でもある。主観的な芭蕉の句に対して、蕪村はあくまで写実的で客観的だ。

生涯におよそ3000句を発句した蕪村は、十七音を自在に操り、「菜の花や 月は東に 日は西に」では、大景を詠う豪腕を披露するかと思えば、「学問は 尻からぬける ほたるかな」や「戸をたたく 狸と秋を おしみけり」など滑稽で笑いを誘うほど、その手際は硬軟、多彩だ。和漢の言語に通じ、詩の形式を変幻自在に使い分け、時に混在させる。発想は奔放で枠にとらわれない。

画の多様さも際立っている。大和絵、中国南宋・北宋画、山水画などさまざまな画風に貪欲に挑戦し、緻密な屏風画も描けば、軽妙洒脱な人物スケッチもさらりと描いてしまう。書も独特の筆跡である。蕪村の句には画があり、画には詩があるといわれるが、それにも飽き足らずに、双方を取り入れて「俳画」という、まったく独自の世界を切り拓いた。間違いなく巨匠であったにもかかわらず、俳人蕪村は長く忘れられていた。そんな蕪村を再び世に登場させたのが近代俳句草創の正岡子規だ。与謝野鉄幹、晶子も蕪村の写実性に傾倒した。近代詩人の萩原朔太郎は自著『与謝蕪村』のなかで、「生来俳句に興味がなかったが、唯一の例外は蕪村だ」と書いている。枯淡とか風流でなく、蕪村の句には欧風の近代の詩に共通する情趣があり、写実の奥にポエジーが潜んでいるという理由をあげ、朔太郎は蕪村の詩ごころを絶賛している。

蕪村は俳号で、本名は谷口信章[のぶあき]といわれる。1716(享保元)年に、摂津国東成郡毛馬村、現在の大阪市都島区毛馬町に生まれたというのが近年の通説となっている。出生や父母について蕪村自身ほとんど語っていない。母はげんといい、丹後の与謝村から大坂に奉公に来て、主人との間にできた子が蕪村だとされている。父母を早くに亡くし、家産を潰した末に出家したといわれるが、種々の説があり真相は謎である。ただ、20歳ごろに江戸へ下り、芭蕉の孫弟子である夜半亭宋阿[やはんていそうあ](早野巴人[はやのはじん])の弟子となって、俳諧を学んだことは記録に残る。号は宰鳥[さいちょう]といった。

師の宋阿は慈愛の人だった。蕪村27歳の時に、父のように慕った敬愛する師を失い、それ以後、蕪村は天涯孤独の漂泊の旅に出る。下総国結城(茨城県結城市)の知人を頼り、憧れの芭蕉の足跡を辿って東北各地を流転する。浄土宗の雲水となって各地を10年あまり巡り、浄土宗本山のある京都、知恩院の境内の一隅に寓居するのが37歳。そうしてほどなく、蕪村は京を後にする。蕪村39歳、未だ行方も定まらぬ人生で足を向けたのは丹後だった。この旅から蕪村の「丹後時代」が始まる。

淀川堤に建つ蕪村生誕地の碑。故郷を離れて以後、蕪村は二度と毛馬には戻らなかったが、晩年に『春風馬堤曲』で故郷への郷愁を詠んでいる。句碑には蕪村自筆の「春風や 堤長うして 家遠し」の句が刻まれている。

波穏やかな与謝の海(宮津湾)。蕪村の代表作である「春の海 終日のたり のたりかな」の句は、一説によると、丹後を離れて京都に戻った蕪村が、丹後での日々を懐かしんで、この与謝の海をモチーフに詠んだといわれている。

蕪村が約3年半の月日を過ごした丹後。日本三景の天橋立や、酒呑童子の伝説を残す大江山など、この地には蕪村の創作意欲を駆り立てる題材が多くあった。与謝の海の宮津と、阿蘇海の与謝野町を天橋立が分け隔てる。