ブッダ存在を象徴するシンボリズムとその背景思想

https://zeropointbuddha.hatenablog.com/entry/buddha_chakra_symbolism 【ブッダ存在を象徴するシンボリズムとその背景思想】  より


輪軸世界観 聖なる車輪 ブッダの瞑想法 「脳と心とブッダの覚り」

ブッダの死後、数百年が過ぎる間に、社会現象としての仏教ムーブメントは、出家による瞑想修行実践から在家による信仰実践へと少しずつその比重を移していった事が知られている。

その中心となったのがストゥーパ信仰だ。

このストゥーパは、ブッダの遺体が荼毘に付された後の舎利(遺骨・遺灰)を埋葬した上に小さな土饅頭を築いたのがその起源だと言われている。

当然ながら、その様な由来を持つストゥーパ信仰はブッダ在世当時には存在し得なかった、仏教における全く新しい信仰実践形態だった。

般涅槃に入ったブッダの神格化が進むと同時に、彼の舎利を祀った土饅頭は信者たちの信仰・崇仰の対象になり、少しずつ拡張増広され、その威容を拡大し形式を完成させていった。

そしてアショカ王の紀元前3世紀ごろから紀元後にかけて、盛んに造営されたストゥーパ建築の周辺に、様々な仏教美術が漸次花開いていった事が、サンチーやバルフート、アマラヴァティなどに現存する紀元前後の遺跡、遺物から確認できる。

このような初期仏教美術はストゥーパ信仰と不即不離の様式として発展していったもので、遺跡として現在確認できる場所だけではなくインド全土に多くのストゥーパが建造され、その周囲が石造彫刻美術で荘厳されたのだろう。

西暦一世紀以前の段階では、それら仏教美術の中に仏像は未だ存在していない。悟りを開いた偉大なるブッダを人の形で表す事に恐れとためらいを覚えていたのか、様々なシンボルによってブッダの存在を間接的に暗示し、そのシンボルを拝んでいたという。

(何故ブッダの存在を人の姿形で表す肖像が避けられたのかと言えば、イデオロギー的にはその様な身体性こそが五蘊の『色受想行識』そのものであり、それこそがまさしくブッダがそこから解脱した呪縛そのものであったから、般涅槃によって肉体性から終に解放され真の意味での解脱を完成した「ブッダの悟りの偉大さを冒涜するもの」として、敬虔かつ実直な仏教徒からは当然に忌避されたのだろう)

ここではブッダそのものとして賛仰された主な聖なるシンボルである菩提樹、法輪(ダルマ・チャクラ)、日よけの傘蓋(チャトラ=聖アンブレラ)、更に最も思想性の高いストゥーパそのもの、そしてブッダと言うよりもその教えあるいは仏法全体を象徴する蓮華について、それらの背後に通底するもうひとつの『意味』と共に考えていきたい。

その樹下で覚りを開いた所の菩提樹、車輪の回転に譬えられた正法の布教、その教えの偉大さによって人々に賛仰され聖性の象徴として掲げられたチャトラ(傘蓋)、老体をおした布教の旅のさ中に病に倒れ、最後の最後まで法を説き、遂には完全な解脱である般涅槃に達したブッダが埋葬されたストゥーパ。

悟り、布教と聖性、布教の終わりと涅槃の完成、というライフ・ヒストリーはブッダの偉大さの証しそのものであり、正にブッダ存在の象徴として掲げられるにふさわしいものだっただろう。

しかし、菩提樹にしても車輪にしても、チャトラにしてもストゥーパにしても、それ自体は身体と同じ色であり物質に過ぎないから、本来はこれらのシンボルはあくまでブッダ存在を間接的に暗示するものであったと考えた方が妥当かも知れない。

目で見ることの出来る菩提樹の姿かたちを崇める時、当然その下で悟りを開いた(死後は不可視の)ブッダの実在を信者たちは心の目で『観ていた』訳だし、それは法輪についても傘蓋についてもストゥーパについても同様だろう。

ここでは話の流れからまず法輪を取り上げよう。法輪と言うと一般には車輪の回転面を正面から見た、下のような図柄が一般的だ。後世のように様式化されたデザインではなく、極めて写実的な『車輪』そのものに近い形をしている。

特にインド本土の場合、この様な聖なるシンボルとしての車輪は、常に明確な車軸の描写を伴っている事にも注意が必要だ。

そしてこの車輪と車軸という機能分化した構造とその表象こそが、およそあらゆるインド思想の根本的な基盤をなしている、と私は考えている。

サンチーの法輪信仰(中央)

古代においても現代においても、実用的な木製スポーク式車輪の構成はおよそ6本から12本(多くても16本)程度のスポークが一般的なので、上に見られる様な余りにも数が多過ぎるスポーク数は、回転する車輪の『残像』表現である可能性が高い。

その事はバルフート遺跡で出土した下の彫刻を見ると良く分かるだろう。

バルフート仏跡の欄楯に描かれた法輪信仰図(コルカタ、インド博物館蔵)

上の法輪を拡大したもの

二枚目の拡大版を見ると良く分かるが、中心車軸部分の花柄と比べ、リム(車輪)部分の花柄が不自然に半分になり重複している。これは本来は中心の花柄と同じデザインが施されている車輪外周部分が、高速で回転している事を表す『残像表現』だと考えると分かり易い。

だとすると当然、本来の車輪にしては多すぎるそのスポークもまた、高速回転がもたらす残像によって、『多く見えている』と考えるのが自然だ。

これは大変興味深い事で、もしこの仮説が正しいならば、当時の仏教徒は礼拝用に車輪のレプリカ(と言うか車輪そのもの)をわざわざ作って祀り、それを回転させるという行為(ある種の祭祀)を般涅槃後のブッダに供養していた事になる。

サンチーにしてもバルフートにしてもこの時代のストゥーパ欄楯などに荘厳される彫刻の多くが、当時の宗教生活の実際上の様々なシーンを写実的に活写したものが多い。

もちろん中には神話的なシーンや幻獣を描いたものもあるのだが、王侯らしき信者が普通に回転している法輪モデルを礼拝している姿は、実際にそれが行われている情景を写し取ったと考えても差し支えはないだろう。

車輪を回す礼拝行と聞くと、仏教について多少とも知識のある人はチベット仏教のマニ車を思い出すかもしれない。彼らはマニ車と言う車輪と言うには少々異形の筒型デバイスをクルクルと回す事を、功徳のある行として実践しているからだ。

ひょっとするとこのバルフートやサンチーに見られる、リアルな法輪のモデルを実際に回してブッダを礼拝する実践行こそが、マニ車のひとつの起源なのかも知れない。

それはさておき、真横から見た平面図では失念されがちだが、法の車輪にしろ実用的な馬車や牛車の車輪にしても、それが車輪である以上は、当然一定以上の長さを持つ車軸とセットでなければ動きようがない。そこで実際に現在に至るまで古代のものを保存していると思われる伝統的な木製スポーク式車輪を見てみよう(Google検索‟Ratha Yatra Puri"より)。

プーリー・ジャガンナート寺院のラタ・ヤットラ祭りで使われる山車の車輪

これはラタ・ヤットラというヒンドゥ教の山車祭りに使われる実際に機能する車輪なのだが、この様な実用的な車輪そのものから、法輪の思想もその表象も生まれたと考えられる。

以前にも書いたが、この車軸とそれによって中心を貫かれ支えられる車輪、という構造において、最も重要なのは「車軸は車台に固定されて動かずに、それによってハブ穴を貫かれた車輪だけが華々しく回転する」という点にある。

ここでは一般的な正面図からは中々分からない、仏教における法の車輪のリアルな姿を、本稿の論旨に沿って分かりやすくアレンジしてみよう。

意図的に向きを変えて見た車輪と車軸

私はある時この「輪軸の向きを90度回転して見る」という発想の転換を得たのだが、その瞬間、思い出したのがやはりブッダを象徴するチャトラ(傘蓋)との相似性だった。

(シヴァ・リンガムとの相似性については以前に書いた)

では実際のチャトラ(聖アンブレラ)を次に見てみよう。下の写真は南インドで現在も神像にかざされる神器として使われている伝統的なヒンドゥ祭祀用のものだ。

原始仏教の時代のものに近いと思われる、傘が平らなチャトラ

このチャトラ、張物をしているのでわかりにくいが、我々が日常使う雨傘と同様、木や竹などの芯材を放射状に組み、その中心が柄軸によって支えられている。

紀元前後の時代、ストゥーパ文化の中で描かれたチャトラの様式を見ると、かさがドーム型ではなくこの平らなタイプが圧倒的に多い。

サンチー・ストゥーパの欄楯に見られる女神像と掲げられたチャトラ

上の写真にはラクシュミ女神の原型に掲げられたものと下に描かれたもの計三つのチャトラが見られるが、全てかさ部が突出したドームではなく平らな形をしている。

既に見た木製車輪の輪軸を直立させた姿とこのチャトラの姿を比べてみると、とてもよく似ている事が分かるだろう。それはプレーンな棒状の支える部分(柄・軸)と、放射状に形成され大地を転がったり陽を遮ったり実際に機能する円輪の部分だ。

古代インドの木製車輪は、構造的には当時一般に使われていた木あるいは竹製チャトラとまったく重なり合うし、輪軸のセットで実際に回転して働くのは車輪であり、チャトラにおいて実際に雨風を防ぎ日差しを遮るのはかさの部分である、という意味では機能的にも重なり合う。

両者において、円輪状に展開するかさ部や車輪が表の主役であり、軸柄は目立たないがそれを『陰で支える』という重要な機能を果たしている。