希望の灯り

https://note.com/tomo_sugarless/n/n492606c657b4  【社会の底辺でも光を見出す『希望の灯り』感想走り書き】  より

 バイト先の映画館で暇を持て余し、「明日映画観に行こう」とPCでスケジュールを調べていると、気になったのは『希望の灯り』。Bunkamuraル・シネマで連日上映中。早速チケットを予約して観て来ましたよ。

 旧東ドイツ、ライプツィヒ近郊にある巨大スーパー。飲料の在庫管理を任された新人クリスティアンと、彼に仕事を教える優しいベテラン従業員ブルーノ、クリスティアンが一目惚れする菓子類担当のマリオンを中心に、閉店後のスーパーではたらく人々を描いた125分の作品です。

 主演はフランツ・ロゴフスキ。最近ミヒャエル・ハネケの『ハッピーエンド』でイザベル・ユペールの息子を演じてました。マリオン役は『ありがとう、ト二・エルドマン』のザンドラ・ヒュラー。ブルーノ役はドイツ・アカデミー賞受賞俳優ペーター・クルトです。

 監督はライプツィヒ出身のトーマス・ステューバー。中編映画『犬と馬のこと』を撮り、NETFLIX映画『ヘビー級の心』で長編デビューしています。『希望の灯り』を含めたこの3作は、旧東ドイツ出身の小説家クレメンス・マイヤーによって脚本が書かれています。マイヤーは建設作業、家具運送、警備などさまざまな仕事を経て文学研究所に学び、初長編作『俺たちが夢見たころ』が”東独版トレインスポッティング”と評され話題になりました。デビュー当時は坊主頭と腕にびっしり彫られたタトゥーから”文壇の異端児”と呼ばれた。学生時代は本当に不良だったとか、インテリ作家の多いドイツ文学界においては、とにかく異色の経歴の持ち主です。『犬と馬のこと』と『希望の灯り』の原作は、短編集『夜と灯りと』に収録されています。マイヤーは、ドイツ社会の周辺に生きる人びとに光をあてて、彼らの人生にともる灯りすなわち「生きる希望」を主題に物語を書いています。人生の「負け組」である彼らの生きる希望は、人とのつながりの中から生まれる。思いを寄せるひとと一瞬でも分かりあえたら。自分が言ったことが後の世代に少しでも引き継がれたら。つらい日常を忘れられる瞬間が放つ光を描くのです。

 トーマス・ステューバーの前作『ヘビー級の心』は、元プロボクサーで現在は取立屋として生活している無口な老人が、ALSを発症。最後の闘いとして絶縁状態にあった娘との交流を図る、という物語です。主人公のヘルベルトをブルーノ役のペーター・クルトが演じています。設定がロッキーで、劇中のヘルベルトも黒革ジャンに黒ハットという完全にロッキーを意識した服装をしているあたりが面白いですが(さすがにゴムボールは持っていない)。ヘルベルトは、自分が生きた意味を、後の世代へのスキルの継承に見出します。『希望の灯り』でも、ブルーノは新人クリスティアンにフォークリフトの操縦を教えていますね。自分の存在意義が、少しでも若者たちの生活に埋め込まれていれば、というつましい、でも切実な望み。自分の教えたことが継承されていることに希望を感じるのです。

 同時に、トーマス・ステューバーは目に見える現象としての光を捉えるのが上手い。窓から差し込む日光や、薄暗いバーの照明、それらが反射した肌の輝きを、F値を抑えて掴みます。焦点距離も浅くなるから、日常がより幻想的に切り取られる。『ヘビー級の心』では手持ちカメラが主人公にぴったりと寄り添います。ヘルベルトは無口で頑固で、醜い中年男性なわけだから、これくらい強制的に感情移入させないと、話についていけない、というのは『暁に祈れ』や『ファースト・マン』のつくりと同じ論理です。『希望の灯り』では一転して、固定カメラで引きのショットがメイン。人間の背丈の倍以上はある巨大な商品棚がたくさん並ぶバックヤードを、シンメトリーゲームにより切り取ります。通路をフォークリフトが優雅に行き来し、ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』が流れるさまはさながら『2001年宇宙の旅』。物質的豊かさ象徴である巨大スーパーを、同時にあたたかな小宇宙と見立てる演出が光っていました。

 『希望の灯り』で最も印象的なシーンは、閉店後のクリスマスパーティーでクリスティアンとマリオンが会話する場面。クリスティアンはマリオンのことが好きで、彼女を理解したい。どうやらマリオンは夫からひどい仕打ちを受けているらしい。だからクリスマスの夜に夫ではなく僕と居てくれる。クリスティアンのやさしさに、マリオンも惹かれる。二人の思いのベクトルが向き合った瞬間が、世界の片隅、底冷えする生活の中に確かにともった灯りです。ひととのつながりの中に希望を見出す、という作品の主題がはっきりと立ち上がる。

 4月。大学の先輩が新社会人となり、3月まで活発だったSNSの投稿も途絶えています。夏休みが、春休みがあるわけでもない、労働者として人生を捧げる過酷な数十年間に、足を踏み入れたことをようやく自覚し、軽く絶望してはいないか、と心配です。

 同級生の友人が、入社式前日に自殺未遂を図りました。短大を卒業した20歳。「これからあの会社で働き続けるなんて、無理」って。自分が生きてきた時間よりもはるかに長い年月を思うと、怖くなりますよね。

 かく言う僕も大学卒業後にどんな生き方をするか悩み中。自分の名前で、自分にしかできないことをしたい。まだまだ自分の可能性を捨てきれない青二才ですね。下手したら夢は叶わず、まったく別の業界の、交換可能な名もなき労働者として生きていくかもしれない。働くために起きて、明日働くために寝る、というようなサイクル。逼迫した日常を、何十年と送っていかなければならないかもしれない。そのことに恐怖を感じたりもします。

 望みどおりにいかない生活。社会の底辺で一生を終える予感がしたときでさえ、『希望の灯り』は、あるいはマイヤーの作品は救いになるのではないでしょうか。彼の小説や脚本はどんな生活を送っていても、生きる希望は必ず見つかる、そしてそれは人とのつながりの中にある、ということを描いたものばかり。アート系で静かな映画。眠くなるかもしれませんが、人生に迷ったときには観れば必ず「光」になる作品です。『ヘビー級の心』からでも『夜と灯りと』からでも、大学生はぜひ触れてみてください。ひとは、意外と、明るく楽しく生きれるから!おすすめです。


https://globe.asahi.com/article/12258098  【『希望の灯り』 ドイツはどれくらい「統一」したか、東側からの問いかけ】 より

トーマス・ステューバー監督=北村玲奈撮影

ベルリンの壁崩壊から、あと半年余りで30年。監視や強権の世界から脱した旧東ドイツ地域は今、ポピュリズムの嵐が吹き荒れているが、暮らす人たちはただ温かさと悲しみにあふれるばかりだったりする――。5日公開のドイツ映画『希望の灯り』(原題: In den Gängen/英題: In the Aisles)(2018年)は「置き去りにされた人たち」の機微を丹念に描く。旧東ドイツ出身のトーマス・ステューバー監督(38)にインタビューした。(藤えりか)

『希望の灯り』の舞台はドイツ東部ライプチヒ近郊の巨大なスーパーマーケット。建設現場をクビになった無口な27歳の青年クリスティアン(フランツ・ロゴフスキ、33)は在庫管理担当として働き始め、慣れないフォークリフトの運転などに悪戦苦闘する。運転などを教わる飲料担当の54歳のブルーノ(ペーター・クルト、62)を父のように慕い、菓子担当の39歳のマリオン(ザンドラ・ヒュラー、40)に静かに惹かれるうち、温かい同僚たちがそれぞれ抱える影に触れてゆく。

ステューバー監督は「これは労働者層の物語だ。社会には労働者層のヒーローがいるし、薬局や銀行、スーパー、地下鉄に行っても労働者たちに囲まれているのに、おかしなことだが、そうしたことを忘れがちだ。世の中を動かす労働者たちはたくさんいて、たくさんの物語がある。愛や死があるのは王や女王だけでない」と話す。

今作で登場するスーパーマーケットは、東ドイツ時代のトラック運送の人民公社を買収して営業している設定だ。ブルーノらはトラック運転手から店員への転換を強いられたとして描かれている。

ステューバー監督は役者たちとフォークリフトの操縦方法を習い、免許も取ったという。車道を走る一般の車とどれくらい違うのだろう? そう言うと、ステューバー監督は「まったく違うよ! 車両は360度回転するし、車輪もひとつしかない。運転自体は簡単かもしれないけど、荷物の上げ下げとなると本当に難しい」と振り返った。ドイツ再統一による激変に伴いスーパーで働かざるを得なくなったブルーノも、この物語の前段として、きっとかなり苦労したということなのだろう。

原作『夜と灯りと』と脚本を書いた作家クレメンス・マイヤーは旧東ドイツ出身。建設作業や家具運送などの仕事を転々とした経験があり、今はライプチヒに住む。ステューバー監督はライプチヒで生まれ育った。

「今作を見て『フランクフルトやハンブルクにも似たようなコミュニティーがあるよ』と言う旧西ドイツの人たちもたくさんいた。そうだと思う。労働者はどこにでもいる。でも僕は、(旧東ドイツとの)ちょっとした違いを見いだしたかった」とステューバー監督。「たとえばブルーノやマリオンはハグしたりしないし、最初は『新人』と言ったりもする。でも、(クリスティアンが)彼らに属していない感じで遠ざけられた気持ちになっても、知り合ううち本当に心を開いてくれて、寄り添ってくれる。それが小さな違いかもしれない」。日本にも、そんな風景が昔あった気がする。

ライプチヒは工業都市として栄えた旧東ドイツ第2の街。ベルリンの壁崩壊前には、民主化を求める市民たちが大規模な「月曜デモ」を繰り広げ、社会主義体制を倒す原動力となった。ところが最近は、難民排斥を訴えるデモが暴徒化した様子が盛んに報じられる街と化している。

「今のライプチヒは繁栄はしている。衰退した産業はあるけど、代わりに自動車やIT企業の新たな拠点が生まれ、大学に学びに来る学生も流入している。ここ20〜30年でかつてないほど街で槌音が聞こえ、建物もものすごくたくさん建っている」とステューバー監督。

「でもそれによって別の側面も生じている。生活費が高くなり、もともと住んでいた人たちが外れに追いやられる状況も起きている。東ドイツで労働者階級は支配階級という考え方だった。なのに労働者層の人たちが、社会から置き去りにされていると感じている。今の制度にもう満足しないという人は多く、これを求めて街に繰り出したわけではない、と彼らは言っている。そうして旧東ドイツは今、ポピュリスト政党の台頭に直面している」

今作は政治的メッセージを鮮明に出した映画ではないなりに、そうした背景が画面の端々からにじむ。

「今作の登場人物はみんな、今の近代的な社会にはもう居場所がない、と感じている。ブルーノは昔やっていた仕事を失ったが、変化したり出直したりするパワーはもうなかった。たまたまその時にドイツ再統一があった。いろんなことが可能になると同時に、何かを失ったと感じた。それでもブルーノは誰かを責めたりせず、街を出て行ったり、抗議したりもしない。自分自身に目を向け、孤独を感じて鬱々となり、酒を飲んで、若い頃を懐かしんでいる」

フィクションではあるが、ライプチヒの実際の労働者たちもまじえて撮影した。その空気感は、役者たちにも伝わったことだろう。旧東ドイツでさまざまな労働を経験した原作者マイヤーの観察も盛り込まれていることから、この地のコミュニティーのある種の現実を映し出しているはずだ。でも、そう考えれば考えるほど、報じられるような激しい排外デモのイメージが、およそ像を結びづらく感じる。

「この映画には敵対的な人が登場しないし、責め立てたくなるような悪い人も出てこない。でも、例えばブルーノのようないい人たちの多くがもしかしたら、選挙でとんでもない政党に投票しているかもしれない。ただ、だからって彼らはよくない人たちなのか? いや、いい人たちだ。だからこそ難しい。たぶんこの映画で、彼らのような人たちの別の側面を理解することになる。それが今作の考え方だ」

そのうえで、ステューバー監督はインタビューをこう結んだ。「非常に明らかなのは、ドイツ再統一はあくまでプロセスで、終わりではない。日々は続く。私の生まれた国はもうないけれど、影響はさらに長く続く。私たちはベルリンの壁崩壊後に焦点を当てなければならないと思う。何がよかったのか悪かったのか、私たちはどれくらい『統一』したのかという問いかけが、今、立ちのぼっている」

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