良寛禅師の辞世とされる句と歌について①

http://sybrma.sakura.ne.jp/464ryoukannojisei.html 【良寛禅師の辞世とされる句と歌について】 より

辞世(じせい)=この世に別れを告げること。死ぬこと。また、死にぎわに残す偈頌(げじゅ)・詩歌など。「─の句」  (『広辞苑』第6版による。)友人から、太平洋戦争の末期の特攻隊員の遺書に見られる「散る桜残る桜も散る桜」という句について、それが誰の作か知りたいというメールが来ました。

ネットで調べてみると、それは良寛の辞世だという記述が見つかりました。良寛の辞世は、

一般には「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」という句だと言われています。「散る桜残る桜も散る桜」が良寛の作であるかどうかを含めて、良寛の辞世について少し調べてみました。調べてみたとはいっても、良寛に詳しくない者の調べたことですから、独りよがりの物言いが多いと思います。お気づきの点を教えていただければ幸いです。(2013年9月23日)                    

1.「散る桜残る桜も散る桜」という句について

 友人のメールにあるように、この句は特攻隊員の遺書に引用されたことによって、よく知られていますが、この句のもとの作者は誰かということになると、よく分からない、というのが妥当な結論であるように思われます。

公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会のホームページ『特攻』に「後に続くを信ず」というページがあり、そこに昭和20年5月24日、沖縄敵航空基地に向かった奥山道郎大尉が弟に残したという遺書「散る桜残る桜も散る桜 兄に後続を望む」が紹介されています。(この遺書は弟に宛てたものだというのですから、「兄」は、この場合、「けい」と読んで、弟に敬意を表したものでしょうか。)

    → 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『特攻』 → 「後に続くを信ず」

 26歳の奥山大尉は、自分が最期を迎えるにあたって自分の気持ちを弟に示すのに最もふさわしいものとして、この句を引いたものと思われます。なお、奥山道郎大尉の辞世は、「吾が頭南海の島に瞭(さら)さるも我は微笑む国に貢(つく)せば」という歌だそうです。

この「散る桜残る桜も散る桜」という句が良寛の作だとする説がありますが、その根拠は、『底本 良寛全集』第3巻(2007年初版、中央公論新社。「句集」の解説は谷川敏明氏)によれば、高木一夫著『沙門良寛』(短歌新聞社、昭和48年〈1973年〉)に掲載されている写真版に、相馬御風氏が記した「地蔵堂町字下町、小川五平氏(当主長八)ヨリ出デシ反古中ニアリシ」という文書に、「良寛禅師重病之際、何か御心残りは無之哉(これなきや)と人問しに、死にたうなしと答ふ。又辞世はと人問しに、散桜残る桜もちる桜」とあることだそうです。

しかし、これについて解説の谷川敏明氏は、「すると辞世の句ということになるが、良寛の最期を看取った人は、誰もこの句を記していないし、伝承もない。古句が良寛の逸話に紛れこんだのかもしれない」と書いておられます(同書、39頁)。

つまり、「散る桜残る桜も散る桜」という句は、これを良寛の辞世だとする文書はあるのだけれども、良寛の最期を看取った人の誰もがこの句のことを記していないことから見て、「散る桜残る桜も散る桜」という古句が既にあり、その句がいかにも良寛の辞世の句としてふさわしいものなので、良寛の逸話に紛れ込んだのではないか、というわけです。そう見るのが妥当だと私も思います。

      * * * * *

 ここで、高木一夫著『沙門良寛』(短歌新聞社、昭和48年〈1973年〉4月2日発行)の204頁上部に掲載されている写真版についての、高木一夫氏の記述を引用させていただきます。

 

 糸魚川の御風記念館に、「良寛臨終に関する重要文献」というものが、丁寧に封筒に入れて保存されている。これは小さな一枚の紙片に書かれたもので、裏には

  地蔵堂町宮※下町

    小川五平氏

     (当主長八)

   ヨリ出デシ反古中ニアリシ

と書かれていて、表には次のように書かれている。

   良寛禅師重病之

   際何か御心残りハ無之哉と

   人問シニ

  死にたうなし

        と答ふ

   又辞世はと人問ひしニ

  散桜残る桜もちる桜

   遁世之際

  波の音聞じと山へ入ぬれは

又いろかいて松風のおと

 最後の歌の「聞じ」は「きかじ」であり、「いろかいて」は「かへて」を訛ったものである。筆者については何も書いてないので、どれ程の信憑性があるか分らないが、小川五平家ではこれを捨てずにいたのであった。最後の言葉として「死にたうなし」と答えたというのは、素直で切実な感があると思う。「散る桜残る桜もちる桜」は、如何にも気力の失せた感じで、死に近い人の口から出た句のようでもある。気力の整っている時であれば、もう少し調子の上で張ったものがあったであろうという気がするのである。遁世の際の歌が書き添えてあるが、恐らくこれを書いた人は、良寛の事をよく知らない人で、誰かに聞いて付加えたのではないかと思われる。(中略)この歌は従来ある良寛歌集にはない。果して良寛の歌と言えるか否か。(同書、204~206頁)

 ※ 小川五平氏の住所が「地蔵堂町宮下町」となっていますが、これは『底本

  良寛全集』第3巻や、谷川敏朗著『校注 良寛全句集』(同書、60頁)にあ

  るように、「地蔵堂町字下町」が正しいのではないかと思われます。

 谷川敏朗著『校注 良寛全句集』(春秋社、平成12年2月10日第1刷発行)の「散桜残る桜も散る桜」のページからも引かせていただきます。

 そこには、「出典は高木一夫氏著『沙門良寛』である」として同書の写真版の文言を引いて、

するとこの俳句は、辞世ということになる。だが、良寛の最期を看取った人は、誰もこの句を記していないし、伝承もない。もしかすると、古句が良寛の逸話にまぎれこんだのかもしれない。

としてあります(同書、60~61頁)。

 次に、良寛の実弟・由之が書いた日記『八重菊』(『八重菊日記』)の、良寛臨終の場面を引いておきます。

(由之(ゆうし)=山本新左衛門、または左衛門泰儀(やすよし)といい、良寛の実弟。次男。山本家は代々、出雲崎の名主および神職で、橘屋と号した。由之は宝暦12年(1762)に生まれ、25歳で家督を継いだ。49歳のときに家財取上げ所払いの処分を受け、諸国流浪の後、剃髪出家して与板に隠棲し、無花果苑由之(むかかえん・ゆうし)と称した。国学・和歌・俳諧・書画にすぐれた。天保5年(1834)73歳で死去。(『定本 良寛全集 第3巻』319頁より抄出。)

みくにの名の文政、こぞ天保とあらたまりて其(その)二とせの春は来つれど、ぜじ(禅師)の君の御いたはりいかにいかにと思ひやりまゐらすとて、冬とも春とも思ひわかねば、まいて歌などは出(いで)こず。よかの日、又塩ねり坂の雪かき分(わけ)つゝまうでゝ見奉れば、今はたのむかたなくいといたうよわりたまひながら、見つけてうれしとおぼしゝこそかなしかりしか。かくてむゆか日の申(さる)の時に、つひに消果(きえはて)させ給へる、あへなしともかなしとも思ひわくかたなかりしに、家あるじの泣まどふも、御別のかなしきにそへて、おほきなる、ちひさき、何くれのわざも心に定めかぬるをばとひきゝて、の給ふまにまに行ひし人なりければ、舟流したる海人(あま)に似て、いかにたよりあらじと思ふもかなしくて、

  世の中のおふさきるさもあすよりは

     誰にとひてか君は定めむ

かうだにいはるゝも、いづこに残れる心にか、と我ながらいとにくかりき。やうかの夜、野に送りまゐらせし烟りさへほどなく消(きえ)て、はかなき灰のかぎりを御形見と見奉る、又はかなしかし。

  良寛の最期を看取った貞心尼の「はちすの露」の記述は、次の「2.「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」という句について」をご覧ください。

  なお、 『レファレンス協同データベース』の「新県図-00108」に、「「散る桜 残る桜も 散る桜」を良寛の辞世とする出典を知りたい」という質問に対する新潟県立図書館の回答が出ていて参考になります。