http://renku-world.com/essay/19950414.html 【阪神大震災と心のケアーーー 大阪「癒しの連句会」から】 矢崎藍(中日新聞聞文化欄1995年取材記事) より
(上)連句になにかできることがあるのでしょうか
靴下はかす重い亡骸 岩尾美智子
なんという句だろう。関西大震災は多数の人々に突如恐ろしい現実をつきつけた。
この亡骸の一句は三月四日に大阪スカイルームで開かれた「癒しの連句会」(蓼芳会15回例会)の中で作られている。
数人が即興で句を付けてゆく連句の座を、精神病の芸術療法として考えたのは浅野欣也医師(当時東京厚生年金病院の精神科医長・現在飯塚記念病院勤務)で、その著書*「俳句・連句療法」出版を機縁に五年前にこの大阪の会が発足。以後医師、カウンセラーや連句人、被治療者やその家族などを中心に研究と実践の歴史をもつ。
今回は災害後の心のケアーが目的となっていたので世話役の竹山さんに連絡をとった。 竹山さんは大阪の釜ケ崎で断酒自助グループの世話などの地域活動も二十年。カウンセリングもしている。震災後には神戸方面から呼び出しの電話がたくさんきたという。絶望状態の人を励まして東灘など被害のひどい地区をかけまわった。「励ますといっても、何より辛かった話をじっと聞いてあげるんです 少し前に大阪駅のホームの人ごみで突然ギャーッと叫ぶ若い男性を見たという。
「みんな驚いてその人を見たけれど、別にその人は病気なのではない。異常な経験をした後の心の正常な反応なんです」
そろそろ心配なのが、救助に直接かかわって惨状を経験した消防士や警察官、自衛隊員かもしれぬとも。「カウンセラーだってカウンセリングしてもらいたくなるんですよ」
当日会場へ行ってみると、やはりこの日は被災地からの一般参加者が多数あるという。 まず浅野医師(飯塚記念病院)が「災害と癒し」という講演をする。心的外傷(PTSD)という概念がベトナム戦争後のアメリカ社会で注目されたこと。今回の関西での災害経験後には、軽重はあってもPTSD症状は当然起きると考えられる。地震の再体験が悪夢で繰り返されたり、過剰警戒で常におびえたり。そして無感覚の麻痺状態にも落ちこむ それらをほどくのには時間もいるが、誰か(できれば身近な人でなく、専門家、外部の人)に経験を話す必要があるーーと。
講演後には参加者から堰を切ったようにつぎつぎに被災体験が話された。肉親知人の死のようす。自分のいる避難所での食べ物の奪い合い、いじめなどの人間関係のしんどさ。 連句会はその後にもたれた。
各座をのぞくとやはり体験的な句が出ていて、句の作者が説明をしている。
焼き鳥持参で被災地慰問 奥隆司
リュックずらり満員電車の網棚に 川原章久
章久さんは嫁いだ娘さんが甲子園住まいだった。「私はエサを運んだんです(笑)。満員だから乗るといっせいに重い買いだしリュックを網棚へ乗せます。淀川を渡ると景色が変わり"彼岸"という言葉を思いました」
確かに淀川を渡ると屋根に青いカバーがかかった家だらけになる。目の間違いかという角度の倒壊ビルがある。
彼の人へかからぬ電話もどかしく 神谷幸子
「恋の句を作れといわれてもやはり震災から離れられない」と幸子さんが笑う。
隣の座の西宮の佳子さん。「友達に電話が通じたので行こうかというとダメって。道がない。堀りだされて並べられた遺体をまたがなくては歩けない。確認できればましな方で紙のようになった遺体もあったんです」
彼女の句を受ける次の句も見てほしい。
災難越えて生きる喜び 福田佳子
水仙の香りほのかに瀬戸渡る 田伏薫
ただ穏やかな日々をとりもどしたいという思いが海に託された。水仙のほのかな香りが机を囲む仲間をやさしく包んでいる。ーーこれこそ連句での付け合いでの心であるが、それがここでいう「癒し」でもあるようだ。
両開きに倒れた箪笥の下から助け出され、孫のオートバイに乗って京都へ逃げてきたというのは川端美佐子さん。
はるばると逃れ来し身をなごませる 美佐子
「今日は久しぶりに皆さんとおしゃべりしてゆっくりさせてもらいましてん。連句なんて初めてなんですが、本当に来てよかった」という美佐子さんの言葉は、会合後の懇親会でも多く聞かれた。
「座の横の交流が傷ついた心を癒すようです」と浅野医師はいう。「医師と患者という対面のカウンセリングとは違う効果です」 (1995,4,13 夕刊)
(下)ボランティア・奉仕・自助とは?心のケアとは?
連句誌「れぎおん」の編集長の前田圭衛子さんは捌の座に震災の句を入れない。西宮のマンションで被災し今も夜は公民館の避難所泊りの生活。だからこそ、すがすがしい初春の気配の句を選ぶという。
鍋物に堅田の芹のあさみどり 森田蓉子
音なき村に降る春の雪 山崎瑞子
他の座でも一巻の中に震災の句ばかり出すわけではない。辛さを語り合った次には想像世界で安らぐのが連句だ。例えば次の作品。
十二調「激震地」の巻 (永井一子捌)
激震地街路樹すくと芽ぐみおり 竹山美代子
悲しみおさえ風青き春 長谷川風水
水運ぶ乙女の領巾のたなびきて 矢崎藍
返歌を待ちし夜のしらじら 永井一子
十九階ひとりグラスにワインつぎ 板東芙美
さやけき香り鉢の鈴蘭 大西邦子
胸元にとまる蛍に子の泣きて 芙美
月光淡く牌の雑音 風水
運動会明日に備えて白線を 長谷川道子
サラブレッドの毛並うつくし 風水
あこがれのチロルでチター聴きながら 邦子
吹雪のなかの影動かざり 芙美
最初の句(発句)は竹山さんが、地震直後の凄惨な東灘区から戻る道でよんだ句。それに付けたのはその日竹山さんの訪問を受けた長谷川家の長男の風水くん。一家は恩人といえる人を失った。かけつけた時その人の家はぺしゃんこで、泣くよりほかすべがなかった 風水くんはこの句で悲しい神戸にやがてさわやかな青い風が吹き渡るように祈る。
つぎの句の「水運ぶ」は、実は震災の折の火災を消すバケツリレー、そして、生活用水の運搬の話がここでしばらく話されたからである。しかし連句では1句目(発句)と2句目(脇句)は現実であるけれど、三句めからはそこから離れねばならない。それで、私は古代の乙女の何やら悲しみを秘めた姿に転じてみたのだった。このように三句めで別の世界に転じるというルールが、浅野欣也医師によれば心が過去の世界をふっきる練習になるのだそうだ。最後(挙げ句)がハッピーエンドという温かさも、連句の約束である。
もっとも癒しの連句会と看板は出ていても、精神科医、カウンセラーは一般人の間にまじっているだけ。捌も連句人が主で、新人の多い普通の連句会と変わらなくみえる。
「それでいいんです」と浅野欣也医師はいう「癒しの連句会という名がついているだけで捌く人は自然に受容的になるものです」
「誰かを癒すというふうには考えない」と竹山さんもいう。「お互いに癒すんよ」
彼女は長年の地域活動でもボランテイアという言葉を使わない。災害直後の物的、労力的な救援は別として、長い継続的な関係になると、ボランティアとか奉仕という言葉は、与えている(と思っている)人と、与えられている(と思っている)人の間に抵抗を生むという。竹山さんは代わりにディアコニア(共に生きる)というギリシャ語を使う。社会にある隙間を埋める行動だという。
「そこで大事なのは楽しむこと。自分が苦労して他人に尽くしてあげるのはだめ。自分に向いたことをする。私が連句療法に夢中になったのはそれ。自分が楽しいの。そうすると楽しさが相手に伝わるでしょう」
私たちの社会は制度的にも習慣的にも、こうした助け合いについて経験不足である。権力者から民衆への恩恵ではない関係ーー私たちが作る行政や機構に私たちを守らせ、その隙間をうまく埋めてゆくという考え方は、これから手さぐりで探してゆかねばならない。 ただ、この震災に災害のためでなかった「癒しの連句」や、竹山さんたちの釜ケ崎を中心とする地域ネットワークの炊き出し技術が役だったことは、ふだんの助け合いこそが不時の備えになることを教えている。
翌日、翌々日と東灘、長田区方面を訪ねた 避難所で話してくれた男性は父母をここ十年で相ついで亡くし震災で家も全壊。「こうなると幸福な人を見ると腹が立ちます」余震で逃げるリアルな夢を何度も見るという。
電車は住吉までで、灘まで国道2号線を行くバスに乗ると前後左右を工事車に囲まれ渋滞。町々は地震による破壊と建設のための破壊とで、騒音と埃である。全国から集合したかのような数のブルドーザーやシャベルカーが半壊のビルにのぼり、また瓦礫をすくう。 竹山さんはいっていた。「被災地は復興の段階です。仕事、住む家や建物の片付け金策、行政への手続き。地域との関係。すべて具体的解決に前進している。もう身辺にあの辛かった個人の心の記憶を話す場がなくなる。だからこそこれからのケアが必要なんです」
長田区の常盤小学校もまだ避難所である。時計塔の下に洗濯物が日を浴びている。
震災後暮らしはつかにシクラメン 片山多迦夫
洗濯物に風光る午後 高見芳子
「"暮らしはつかに"はね、わずかに日常が戻ったかなーーと。まあPTSDでいう虚脱状態だな」とは多迦夫さんの説明だった。 (1995,4,14 夕刊)
*浅野欣也・飯塚記念病院医師 医学博士
日本芸術療法学会理事 連句協会常任理事 第六天連句会所属(雅号黍穂)
1982 連句療法について第十四回日本芸術療法学会発表(東京厚生年金病院精神科医長浅野欣也)
1990 「俳句・連句療法」(創元社)出版 飯森真喜雄・浅野欣也編著
蓼芳会1991・6・1発足 世話人竹山美代子
*その後の蓼芳会の活動はこのホームページの「連句情報」にも出ています。
*この取材時には麦さん、蕗さんも同行。蕗さんが会長をしている刈谷氏の婦人会連合会で竹山美代子さんのご講演をしていただいたり、人間関係のネットワークが広がりました。
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