シュタイナーとわたし

https://ameblo.jp/sijima51/entry-12580298097.html  【シュタイナーとわたし Ⅰ】より

レムリア大陸に住んでいた人間の姿かたちは、今日の人間とはひじょうに異なっていた。そういう報告が霊視者(見霊能力者)であるシュタイナーによって、なされています。

水と蒸気からなる環境の中で、今の人間とは違うゼリー状のからだをもって生きていたというのです。水母(クラゲ)みたいなイメージでしょうか。

五感で捉えられるものがすべてと思いこんでいる、狭い認識枠にとらわれたわたしたちのマインドにとって、これほどインパクトのある話があるでしょうか。信じ難いことかもしれませんが、もしこれが真実とすれば、われわれの与あずかり知らぬところで、この宇宙が生成活動をつづけ、創造進化の道をたどってきたことを証し立てる話としても受け取れます。シュタイナーのように超感覚的認識をもたなくても、「想像可能」な世界として想い描く余地はあると思います。

シュタイナーによると、地球のたどり来し道を知るための唯一信頼のできるアクセス法は、アーカーシャ年代記(アカシックレコード)をひもとくことです。

それによると、海水と蒸気に取り巻かれた島々の地表からは火が燃えさかり、絶えまない火山活動のために隆起と沈降を繰り返していたそうです。そして人間はまだ固体化する以前で明確な輪郭ももたず、神霊の懐ふところに抱かれたまま水や蒸気に満ちた環境と自己とを区別することすらできていませんでした。

やがて水蒸気が濃縮して水と風とが分離するとともに人体とエーテル体は濃縮してゆきますが、依然として人間は神の胎内に組みこまれ、自分を固有の自我とは感じていませんでした。水であり、風であった人間は、ベッド上に横たわる肉体とエーテル体から、アストラル体と自我が離れている夜間はまばゆいアストラル光に包まれる一方で、昼間になるとアストラル体と自我が肉体にもどって、暗いぼんやりとしたアストラル意識に沈み、意識を喪失したような生活を送っていたということです。まだ神的霊的世界と物質界の境にいたといってもよいかもしれません。

それがだんだんと地球の濃縮化とともに肉体が固まるにつれて神々のもとから切り離されてゆき、アトランティス期中葉くらいになると、肉体のほうも軟骨が形成され、肉と骨が形成されます。こうして人間は水と風であることをやめて器のような存在になってゆきますが、アトランティス期の終り三分の一あたりで、今日の人間のような姿になったということです。

人間は神々の精妙な世界から、粗い波動の物資界に下降することで、固い物質のなかでしか経験できないことを経験します。

そして、外界をはっきりと観察できるようになりますが、それと引き換えに神霊界にいた時の意識を消失してゆきます。

シュタイナーはいいます。水と風から現われた人間は、ふたたび意識的に神々と結びつきたいと願うようになる。そして、故郷を見出そうとし、やがては水と風にもどってゆくのだ、と。

この過程を意識進化の方面から見ると、海から海水を器にうつすように、アストラル界から肉体・エーテル体の器に人間の自我とアストラル体がはいると同時に、神的意識から人間の個別意識が切り離されます。いったん神的世界から切り離されるのにともない古い見霊意識(霊視能力)は失われてゆきます。

太古の人間においては、二十四時間のなかでごく短い時間だけ、覚醒時の意識を保てていました。そのあいだは自我とアストラル体が肉体、エーテル体の中に留とどまれているわけですが、その場合でも外界すなわち周囲の環境世界の物質は輪郭もさだかではなく、ぼんやりとして霧がかかったようにしか見えず、シュタイナーの喩えによると、当時の人々の眼に映じるものはあたかも霧の深い夕方の街灯がオーラの光に包まれているようであったということです。やがて昼間の意識はだんだんと増してゆきます。それとともに、感覚世界、物質世界を明らかに見ることが可能になっていって、地球人類は物質文明を発展させてゆきました。これにはルツィフェル(ルシファー)とアーリマンの関与があります。これについてはまた機会を改めて述べます。

ここで忘れてはならないのは、睡眠中に行っているアストラル界ないし霊的神的な世界と昼間活動している物質界と、その両方を往ったり来たりしているわれわれにとって、いったいどちらを本住の世界とすべきなのかという問いを自分にたいして発することです。答えは明らかですが、説明するとなると単純ではないことでしょう。

肉体とエーテル体のあるおかげで、昼間は物質感覚により物質界を経験し、夜のあいだアストラル体と自我は神的な実体の世界のほうにもどって、みずからの力を強めることが可能になったと、シュタイナーはいっています。

人間は物質界での経験を積みながら、そこでしか学べないことを学習するとともに、ふたたび故郷にもどるための意識の力を獲得してゆく必要があります。これはアトランティス以降、感覚魂に加えて悟性魂や論理的思考を発達させてきたとともに、失われた見霊能力を取り戻してゆかないといけないということでもあり、両者を統合してゆく必要があるということでもあります。そこまで行ってようやく地球紀における使命を終えるということのようです。

 

 ところで人類の意識進化の道は、覚醒時の人間を構成する土台となる物質体(肉体)の形成された土星紀、つぎにこの肉体にエーテル体が結びつく太陽紀、さらにアストラル体が注がれる月紀、最後に自我を享ける地球紀と、四段階にわたって進みます。たまたまシュタイナーを理解することで、こういうことがわかってきたわけですが、いずれにしてもこういう魂の進化の過程をとおして、すでに先に進化をとげた高次存在の指導を進化途上にある存在は受けられ、助けられることになっているのが、この宇宙のしくみらしいということです。

 わたしがこのことを知って、これは真実にちがいないと素直に受け容れられたのは、二十代の頃でした。これが信じられるかどうか。また実際に体験をとおし、あるいは直観をつうじ、このしくみに納得がゆくかどうかで、人生は大きく変わってくるのではないかと思います。自分の場合、人生の早い時期にそうなれたことは、じつに幸せなことだったなと、つくづく思います。

 しかし、人により魂の経験に違いがある以上、個人差のあるのはしかたのないことだと思ってもいるしだいです。

(前略)私たちの地球は次第に、愛の使命を実現するためのコスモスになっていきます。地球は今、太陽に照らされています。その太陽には、人間が地球に居住して、次第に愛を身につけていくことができるように、人間とは異なる高次存在たちが居住しているのです。

太陽は高次存在段階に達しています。人間が地球の住人であるというのは、人間が地球紀に愛を身につける存在である、という意味なのです。

シュタイナー『ヨハネ福音書講義』「第3講 地球の使命」より 

ここで太陽を居住地とした高次の存在とは、六つの光の霊たち、六エロヒームといわれる存在のことを指します。しかし、最初からそれらの存在による愛の力が日の光をとおして地球に流れこみ、その愛を地球に住む人間が受け取り、発展させることができたわけではありませんでした。

そうなるには前もって準備段階がありました。当時の人間の肉体とかエーテル体とかアストラル体とか自我といった成り立ちに関わる構造上の問題なので、これを説明するのは難しいのですが、とにかくアストラル体が太陽存在からの光を直接受けることで自我を発達させゆくことができなかったため、別のやりかたで行く必要があったということです。

その役をみずからの意志によって引き受けた、六エロヒームのうちの一つの存在がありました。それが、太陽存在であることをやめ、月に住んでそこから地上に太陽の反射光を放ったヤハヴェでした。ヤハヴェが豊かな叡智の力を月の光とともに地球の人間に流すことで、愛を準備したというのです。 

すなわち夜の支配者といわれたヤハヴェは、地上の人間が夜寝ているあいだアストラル界(霊界)にはいっている自我とアストラル体に働きかけました。

そうやって人間の暗い意識(無意識領域)にやがて愛の働きとなる「種子」をまいたのです。見霊意識といわれる夜の暗い意識状態で本来の使命を地球人にあたえる神が現れ、それから見霊状態で過ごす時間が短縮され、昼の意識が長くなって、見える対象の輪郭もはっきりとしてきた頃、地上に注がれる太陽の光の下で、鉱物でも植物でも動物でも今までよりはっきり姿を現すと、人間はそれらを見て神的なものが開示されたと感じたということです。

ヤハヴェが地球の人間の進化のため愛を準備したといいましたが、シュタイナーによれば、最初の萌芽が見られたのは、旧約の信者の意識においてで、当時の人々は自分の存在をユダヤ民族全体の中で感じ、民族の父アブラハムと自分は一つなのだ、という集合的自我の意識はもっても、けっして私は「私である」ところのものである、とは感じていませんでした。それでも、そうした集合自我の意識がもてたのは、ヤハヴェがアストラル体の中にそれを組みこんだおかげです。

それはまだ過渡期でした。集団魂から個人魂へ。集合的自我意識の段階から個我意識の段階に移行するには、イエス・キリストの出現を待つ必要がありました。

血縁を絆とし互いに愛し合うという愛のありかたから、どんな人の自我も霊的な「根元の父」である「神なる宇宙根拠」と一つのものだ、というところまで根を下ろした時、「その自我は全宇宙に脈打つものとひとつなのです」と、シュタイナーがいう霊性のレベルに到達します。

秘儀参入者と呼ばれる秘教的グループに属する人たちは、「私である」こそはイエス・キリストの名だと語り、その名において自分たちは互いに結ばれていると感じたということです。

このようにそれぞれの個人に「私である」という自己意識を芽生えさせ、それをとおして互いに結びつき、一つでありたいという衝動が生じます。この意識を活性化し、衝動をあたえたイエス・キリストは、それまで自分を民族全体の一分肢としか思っていなかった人間の意識を高め、シュタイナーがキリスト衝動と呼ぶものの種子をまき、浸透させることで、その後の地球における人類の進化の方向性を決定づけるほどの重大なきっかけをつくりました。

ギリシアで神聖なる人間という表象が見出され、ローマで個人が人格として見なされる市民が登場した頃に、太陽に住むエロヒームすなわち太陽神が、ロゴス(言葉)が物質化する過程で肉体のイエスにはいり、人類を導くことになったのはけっして偶然ではありませんでした。ここにおいて、血のつながりをもつ者どうしの愛から、全地球的な愛を育むことが教えられます。

ただ、地球が完全に愛の星となるには、肉体もエーテル体もアストラル体も全部が浄化され、霊化されバージョンアップする必要があります。そしてそれをやるのが、四つの体の中心である自我なのです。自我がアストラル体に働きかけこれを浄化し、霊化すると、「霊マナ我ス」となります。同様にエーテル体は、「生命ブッ霊ディ」、肉体は「霊人アートマ」へとバージョンアップするということですから、自我の今後の進化こそは扇の要のような重要な鍵をにぎっているといえるでしょう。

その方向性が、「感覚魂」と「悟性魂」につぐ「意識魂」です。すべてにたいし、責任と意識をもち、選択できることで完全なる自由を実現してゆく方向へと進化してゆきます。そうやって「わたしである」という自己意識をさらに高めてゆくということは、かぎりなく宇宙の根元の意識、つまり宇宙神とか大我というものに自分を近づけてゆくということになります。

次回は、愛と慈悲をこの地球に実現する使命をもって地上に降り、アストラル体の浄化のため八正道を遺した仏陀とイエスの霊的関係に触れたシュタイナーの『ルカ福音書講義』とともに、小説『しじまの彼方』でどう描かれ、思惟されたのか、その一端を紹介してゆきます。