どうか日本人よ 回帰せよ

Facebook・牟田 康治さん投稿記事

世界は進むだけ進んで、その間、幾度かの闘争が繰り返され、最後に闘争に疲れる時が来る。

その時、世界の人間は必ず真の平和を求めて、世界の盟主を仰がなければならぬ時が来るに違いない。

その世界の盟主は武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、かつ尊い家柄でなければならぬ。

世界の文化はアジアに始まりアジアへと帰り、それはアジアの最高峰である日本に立ち戻らねばならぬ。

我々は神に感謝する。

天がわれら人類に日本という国を創っておいてくれたことを。        

アインシュタイン

これは90年前 日本で滞在していたアインシュタインの言葉です 既にアインシュタインは日本が世界の神国・親国と知っていたんですね

現在日本人が親国であってはならない者により 日本人を迫害・消滅させようと躍起になってるということ 覚醒し立ち上がらなければ 日本を作ってくれた創造主に申し訳が立たない

「どうか日本人よ 回帰せよ!」

https://news.goo.ne.jp/article/mag2/nation/mag2-242620.html?fbclid=IwAR07L01kRYhivlwUGber5X7kKKMcFO4kw6XJofVwLNaCLgarXN1X3YDA6Ik

【時は戦前。来日したアインシュタインを感動させた神秘の国ニッポン】 より

喜劇王のチャールズ・チャップリン、作家のラフカディオ・ハーンなど、親日家として知られる偉人は少なくありません。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』では、親日家として知られる偉人のひとり、天才物理学者のアルベルト・アインシュタインと、「彼の目から見た日本と日本人の印象」について、詳しくご紹介します。日本を賞賛しつつも、彼が残した「警告」とは、一体どんなものだったのでしょうか?

アインシュタインの見た日本

大正11(1922)年11月17日、アインシュタインを乗せた日本郵船の北野丸は、瀬戸内海を通って、神戸港に近づいた。フランスのマルセイユを出てから、1カ月以上の船旅だった。瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。

私の好奇心が最高潮に達したのは、「北野丸」が日本の海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の島々を見た時でした。

(『アインシュタイン日本で相対論を語る』アルバート・アインシュタイン/著 杉元賢治/翻訳 講談社)

景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態度も、アインシュタインを感動させた。

しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組員全員の顔でした。いつもは朝食前にけっして姿を見せたことのない多くの華奢なご婦人たちは、一刻も早く祖国を見たいと、ひんやりとした朝風も気にせず6時ごろにはいそいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。私はそうした人々を見て深く感動しました。

日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛しています。

(同上)

これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始まりだった。

「神秘のベールに包まれている国」

アインシュタインの来日は、改造社の山本実彦社長からの招待によるものだった。

山本氏(改造社)から日本へ招待いただいた時に、私は数ヶ月を要する大旅行に行こうとただちに意を固めました。それに対する私の説明しうる理由というのは、もし私が、日本という国を自分自身の目で見ることのできるこのチャンスを逃したならば、後悔してもしきれないというほかありません。

私が日本へ招待されたということを周囲の人びとが知ったその時、ベルリンにいた私が、あれほどまでに羨望の的になったことは、いまだかつて、私の人生の中でなかで経験したことはありませんでした。というのも、われわれにとって、日本ほど神秘のベールに包まれている国はないからです。

(同上)

当時の日本を限りない愛情を込めて西洋に紹介したのは、ラフカディオ・ハーンであった。アインシュタインはハーンの著作を読み、日本への期待を抱いていた。来日後、彼は次のような手紙を親友に認めている。

やさしくて上品な人びとと芸術。日本人はハーンの本で知った以上に神秘的で、そのうえ思いやりがあって気取らない。

(同上)

当時のヨーロッパは、第一次大戦が終わったばかりの荒廃した状態だった。多くのヨーロッパ人は、現代西欧文明の精神的な行き詰まりを感じていただろう。それに対して日本はいまだ「神秘のベールに包まれている国」であった。

熱狂的な歓迎

11月17日に神戸に上陸したアインシュタインは、京都で一泊。翌朝、東京に向かった。

朝、9時から夕方7時まで雲ひとつない空の下、展望車に乗って東京まで汽車旅行。海、入り江を通過。雪に被われた富士山は遠くまで陸地を照らしていた。富士山近くの日没はこのうえなく美しかった。森や丘のすばらしいシルエット。村々は穏やかで綺麗であり、学校は美しく、畑は入念に耕されていた。

東京に到着! 群衆に取り囲まれ、写真撮影で凄まじいフラッシュを浴びた。無数のマグネシウムをたく閃光で完全に目が眩む。

(同上)

この情景を翌日の大阪毎日新聞は大きな写真入りで、こう伝えた。

東京駅で人びとが絶叫――「アインシュタイン!」「アインシュタイン!」「万歳!」怒濤のごとく群衆が博士に殺到し、東京駅は大騒ぎとなった。日本人の熱狂ぶりを見て、駅に博士を出迎えたドイツ人関係者らは喜びのあまり目に涙を浮かべる人さえいた。

(同上)

この熱狂的な歓迎について、アインシュタイン自身こんな談話を残している。

私の生涯に、こんなことはありませんでしたよ。米国に行った時も大騒ぎでしたが、とてもこんな赤誠はありませんでした。これは日本人が科学を尊ぶためでしょう。ああ愉快だ、心からうれしい。

(同上)

「6時間におよぶ講演に聴衆が酔った」

11月19日には、アインシュタインは長旅の疲れをものともせずに、慶應義塾大学にて6時間もの講演を行った。読売新聞はこう伝えている。

6時間におよぶ講演に聴衆が酔った――慶應義塾大学での日本初の講演は内容は「特殊および一般相対性理論について」。1時間半から3時間の講演後、1時間の休憩をはさみ、講演が再開され8時半に閉会。実質6時間の長講演にもかかわらず、2,000人以上の聴衆は一人として席を立たず、アインシュタインと通訳石原純の一言一言に静粛かつ真剣に聞き入っていた。理屈が理解できる、できないにかかわらず、皆アインシュタインの音楽のような声に酔いしれたという。

(同上)

その後も、東京帝国大学での6回連続の特別講演、東京、仙台、京都、大阪、神戸、博多での一般講演などが続いたが、どの会場も盛況で、千人単位の聴衆が集まり熱心に聞き入った。

アインシュタインがいかに分かり易く説いたとしても、これだけ多くの一般的な聴衆が、相対性理論をよく理解し得たとは思えない。東京駅での熱狂的な歓迎、そして講演での熱心な聴講態度は、何が原因だったのだろう。

「外国の学者に対する尊敬の念」

12月10日、京都に戻ったアインシュタインは、講演後、京都御所を訪問し、「御所は私がかつて見たなかでもっとも美しい建物だった」との感想をもらした。

中庭からは即位式用の椅子がある即位の間が見えた。そこには約40人の中国の政治家の肖像画があった。中国から実のある文化を日本にもたらしたことが評価されたためである。

外国の学者に対するこの尊敬の念は、今日もなお、日本人のなかにある。ドイツで学んだ多くの日本人の、ドイツ人学者への尊敬には胸を打たれる。さらには細菌学者コッホを記念するために、一つ寺が建立されなければならないようだ。

嫌味もなく、また疑い深くもなく、人を真剣に高く評価する態度が日本人の特色である。彼ら以外にこれほど純粋な人間の心をもつ人はどこにもいない。この国を愛し、尊敬すべきである。

(同上)

「外国の学者に対するこの尊敬の念」は、日本人の伝統だが、近代西洋科学への尊敬はまた格別の念があった。富国強兵は、世界を植民地化しつつある西洋諸国から国家の自由と独立を護るための日本の国家的課題であった。そして経済力にしろ、軍事力にしろ、その根幹は近代西洋の科学技術にあったからだ。

そしてアインシュタインこそ、その西洋近代科学の最高峰を体現する人物であった。当時の日本人が、彼を熱狂的に歓迎し、その講演に陶酔したのは、「外国の学者に対する尊敬の念」という伝統と共に、近代西洋科学の国家的重要性を国民の多くが感じ取っていたからであろう。

「微笑みの背後に隠されている感情」

日本は明治以降、ヨーロッパに多くの留学生を送り、西洋近代科学を学び取ろうとしていた。アインシュタインは来日前から日本からの多くの留学生と出会い、ある印象を抱いていた。

われわれは、静かに生活をし、熱心に学び、親しげに微笑んでいる多くの日本人を目にします。だれもが己を出さず、その微笑みの背後に隠されている感情を見抜くことはできません。そして、われわれとは違った心が、その背後にあることがわかります。

(同上)

日本滞在中、講演と観光の合間を縫って、アインシュタインは多くの日本人と会った。長岡半太郎や北里柴三郎ら日本を代表する科学者、学生、ジャーナリスト、そして一般家庭の訪問まで。そして「微笑みの背後に隠されている感情」が何かに気がついた。

もっとも気がついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです。

(同上)

全世界の植民地化、そして1,900万人もの死者を出したと言われる第一次大戦は、この「熾烈な闘い」の結果であろう。

「日本人の微笑みの深い意味が私には見えました」

それに対して、日本人はどうか?

日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれるひとつの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。

ですから、性格上おたがいに合わないような人たちであっても、一つ屋根の下に住んでも、厄介な軋轢や争いにならないで同居していることができるのです。この点で、ヨーロッパ人がひじょうに不思議に思っていた日本人の微笑みの深い意味が私には見えました。

個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 私にはそうは思えません。この伝統が発達してきたのは、この国の人に特有のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優っていると思われる、同情心の強さゆえでありましょう。

(同上)

「不思議な微笑み」の背後にあるもの、それは「和をもって貴し」とする世界であった。

「自然と人間は、一体化している」

日本人の「個人の表情を抑えてしまうこのやり方」のために、アインシュタインは日本滞在中も、その心の奥底に入り込むことはできなかった。

けれども、人間同士の直接の体験が欠けたことを、芸術の印象が補ってくれました。日本では、他のどの国よりも豊潤に、また多様に印象づけてくれるのです。私がここで「芸術」と言うのは、芸術的な意向、またはそれに準じ、人間の手で絶えず創作しているありとあらゆるものを意味します。

この点、私はとうてい、驚きを隠せません。日本では、自然と人間は、一体化しているように見えます。…

この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。

かわいらしいのは、小さな緑の島々や、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。

…どの小さな個々の物にも、そこには意味と役割とがあります。そのうえ、礼儀正しい人びとの絵のように美しい笑顔、お辞儀、座っている姿にはただただ驚くばかりです。しかし、真似することはきません。

(同上)

「和をもって貴し」とする世界で、人びとは自然とも和して生きてきたのである。

アインシュタインの警告

明治日本が目指した富国強兵は、西洋社会の闘争的世界に、日本が参戦することを意味していた。国家の自由と独立を維持するためには、それ以外の選択肢はなかった。しかし、闘争的な世界観は「和をもって貴し」とする日本古来の世界観とは相容れないものであった。

また富国強兵を実現するために、明治日本は西洋の科学技術を学んだ。しかし、近代科学の根底には、自然を征服の対象として、分析し、利用しようとする姿勢があった。それは自然と 一体化しようとする日本人の生き方とは異なるものであった。

西洋近代科学を尊敬し、アインシュタインを熱狂的に歓迎した日本国民の姿勢は、彼が賛嘆した日本人の伝統的な生き方とはまた別のものであった。両者の矛盾対立について、アインシュタインはこう警告している。

たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。

(同上)

科学技術の進展から、人類は核兵器を持ち、地球環境を危機に陥れてきた。アインシュタインが賛嘆した人間どうしの和、自然との和を大切にする日本人の伝統的な生き方は、いまや全世界が必要としているものである。

文責:伊勢雅臣



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