日本武尊は実在の人物か?

http://www2.plala.or.jp/cygnus/s4.html   【日本武尊は実在の人物か?】より

 近年のヤマトタケルの理解は、三世紀から四世紀にかけて活躍した多くの武将達の事績によって、創作された架空の人物であった、ということになっている。つまり、ヤマトタケルという呼称は固有名詞ではなく、「大和の勇猛な武将」と言う意味の普通名詞であるらしい。しかし全国に、特に東日本の神社に残存しているヤマトタケル伝説は、ヤマトタケルを普通名詞として理解するには、首を傾げたくなるものもある。私は名古屋市在住なので、この地方で有名なヤマトタケル伝説を一つ紹介しよう。

名古屋市近郊の甚目寺に、「漬け物の神様」として有名な萱津神社(かやずじんじゃ)がある。「漬け物の神様」とヤマトタケルとでは、一見関係なさそうであるが、この神社に興味深い伝承が残っている。「日本武尊が東征に向かうとき、この地で休憩され、その土地の人々が旅情をお慰めするために、漬け物をさし上げた。尊はたいそう喜ばれ、『藪に神物』とおっしゃった。これが縁になり萱津神社では、毎年の熱田神宮の祭典の度に漬け物を献上しており、この行事が千年以上の長きに渡り今なお続いている。」

熱田神宮の主祭神は、現在では「草薙剣」を御魂代とする「天照大神」とされているが、本来は「草薙剣」と「五座の大神」と親しまれた、「天照大神」・「素戔嗚尊」・「日本武尊」・「宮簀媛命」・「建稲種命」の五神である。熱田神宮の「天照大神」とはホアカリのことであろう。
この伝承などは、ヤマトタケルと名のる一人の人物の伝承であるとしか理解できず、このヤマトタケルは固有名詞としてのヤマトタケルである。ヤマトタケルは、複数の武将をモデルに創造された人物であった、とする説に異論があるわけではないのだが、ヤマトタケルとはずばり『宋書』の倭王「武」であったとしたい。
『日本書紀』の雄略天皇、『稲荷山古墳鉄剣銘文』のワカタケル大王である。五世紀後半の雄略を、四世紀のヤマトタケルとして記述したかは、第七部巻末近くに説明してあるが、簡単に言えば、四世紀には「日本国」の統一が完成していたとしたい、『日本書紀』編纂者の意志である。

2.「日本武尊」の西征東征

ヤマトタケルのモデルが雄略であったとしても、『記紀』に記されている西征と東征とでは、ずいぶん性格が違っているように思われる。『景行紀』におけるヤマトタケルは、その本名をヲウスと言い、兄・オオウスとは双子の兄弟として記述されている。『記紀』間で若干内容が異なるが、ここでは『古事記』に添って説明したいと思う。それは、『日本書紀』より『古事記』のほうが、より物語的であるからだ。

ヲウスは景行天皇の命を請け、熊襲の「熊曾建」を討っているが、そのとき「熊曾建」からタケルの名を譲られている。ヤマトタケルと称するのは、このときからであるという。
ヤマトタケルが都へ帰る途中、出雲国へ立ち寄り、武勇に優れた「出雲建」をも討ちとめている。これらの征伐はだまし討ちによるもので、英雄に相応しい内容ではないが、ここまでが西征説話である。
休むまもなく、東征の命により東国へ向かうが、伊勢神宮の斎宮であり叔母である「倭姫命」に次のように訴えている。
「天皇は私のことを早く死ねばいいとでも思っていらっしゃるのでしょうか。私に命じて、西方の朝威に服せぬ者どもを伐ちにやらせ、やっとのことで私が任を果たして大和へ戻ってきてから、まだいくらも経ってはいないのです。それなのに今はまた、兵卒どもを賜ることもなく、独力で、東方十二国の朝威に服せぬ者どもを退治してこいと仰せられる。これはいったいどういうわけなのです。考えれば考えるほど、天皇は私のことを早く死ねばいいと思っていられるに違いありません。」そして、男泣きに泣いたのである。
ヤマトタケルは「倭姫命」から「草薙剣」を授かり、いざ東征に向かうが、数々の難に立ち向かい、見事「尾張」に凱旋する。「弟橘媛」(おとたちばなひめ)の悲劇、「宮簀媛」(みやすひめ)とのラブストーリーは有名である。

その後、ヤマトタケルは「草薙剣」を「宮簀媛」に授け、単独素手で伊吹山の神に挑み、返り討ちにあってしまう。死の淵に際しても「尾張」に戻ることもなく、「能褒野」(三重県亀山市)の地でついに力つき、その魂は白鳥となって低く高く誘うように、川面を飛んでいったという。
だまし討ちによる西征に対して、泣き崩れた一面をもみせる東征、しかも東征では随所に女性関係がみられ、戦いぶりも実に堂々としている。この二面性はどう解釈したら良いのであろうか。
3.「日本武尊」の東征説話は雄略天皇である。

早い話が、西征と東征では人物が異なっているということである。『記紀』のヤマトタケル説話を読み比べてみると、多分に物語的ではあるものの、西征説話は景行であろうことはおおよそ推理できる。とは言うものの、『江田船山古墳太刀銘文』から、雄略政権の協力者が九州にもいたことは比定できず、東征以前に九州平定があったのだろう。

ホムダマワカ王がホムツワケともに、原ヤマト政権に戦いを仕掛けたのは、景行の熊襲攻撃への報復であったと思う。熊襲とは、九州にあった旧奴国勢である。それが証拠に、仁徳天皇以降は熊襲の記述がされなくなっている。これ以降背くのは蝦夷である。景行は、求心力の薄れた原ヤマト政権の建て直しのために、熊襲征伐を断行したのではないだろうか。

その結果は、「旧奴国」勢に逆に攻め入られ、原ヤマト政権(本文中では大和朝廷としている。)は崩壊し、ヤマト政権が発足するのである。さて、岐阜県山県郡美山町柿野にある柿野神社の社記には、「日本武尊が牛に乗って大碓命の後を尋ね、乱賊を征伐しながら当地にやって来たので、のちにその心霊を奉斎したものである。」と書かれている。
『記紀』にあるようなヲウスの残酷さは、この社記からはうかがえない。全国にヤマトタケルを祭神とする神社は大変多い。しかし、ヲウスを祀る神社はほとんどない。言わずと知れた皇祖神アマテラスは、その本名であるオオヒルメムチの名で祀られていることが多くみられる。

ヤマトタケルはなぜ、ヲウスという名で祀られることがないのか。それは、ヲウスとヤマトタケルとは、本来別人であったからだ。さらに、『常陸国風土記』に記されているヤマトタケルは「倭武天皇」である。『日本書紀』が皇太子と記している人物を、天皇であるとする理由はなにもなく、『常陸国風土記』の記述には嘘はなかろう。つまり、『日本書紀』のヤマトタケル(ヲウス)と『常陸国風土記』の「倭武天皇」は、絶対に別人である。
「倭武天皇」は、『宋書倭国伝』の倭王「武」であり、『稲荷山古墳鉄剣銘』のワカタケル大王であり、雄略であると思われる。『常陸国風土記』が「倭武天皇」と記したのも、実際に天皇であったからであり、比定できる人物は雄略ただ一人だけなのである。

ヤマトタケルの東征説話は、自ら甲冑を身にまとい戦ったという、倭王「武」こと雄略の事績そのものではないだろうか。雄略の事績はヤマトタケルとして『景行紀』に記され、実在した天皇の皇子ヲウスがその立場を与えられたのだと思うし、実際のところヲウスは若くして亡くなったのだと思う。そのこと自体、『日本書紀』編纂者達にとってみれば、まことに好都合だったのである。
四世紀には「日本国」として統一されていたとしたかった『日本書紀』編纂者達に、ヲウスはその立場を利用されたのである。

4.「大碓命」

オオウスは晩年、愛知県豊田市の「猿投山」で亡くなっている。その場所に猿投神社があるが、社記には、「景行天皇の五十二年、猿投山中にて毒蛇のために薨ず。御年四十二歳、即ち山上劔葬し奉る。」とあり、現在猿投山の西峰に墓所がある。蛇足ながらオオウスは左利きだったそうだ。
柿野神社の社記からわかることことは、兄弟の中が悪かったとする『記紀』の記述は、嘘ではなかったかということである。おそらく、オオウスは何らかの理由で、「大和」から逃げ出しだのだろう。『日本書紀』はその理由を、景行天皇により美濃国に遣わされたオオウスは、「美濃国」の美人姉妹と通じて復命しなかったと記すが、「美濃」と通じたことは案外本当なのかも知れない。
オオウスは、原ヤマト政権の皇太子であったと思う。ところが、「美濃」から戻ることがなかったため、弟のオウスが皇太子に任ぜられたのであろう。さらに『記紀』は同時にもう一人の皇太子を記している。イホキイリヒコである。

どんな理由であれ、皇太子が同時に複数人いるはずがない。「五百木」は「尾張」と同族である。イホキイリヒコは、継体天皇を輩出した「尾張・近江」連合政権の皇太子であったと思う。オオウスは「美濃」から復命しなかったのである。オオウスが見初めた美人姉妹とはヒコイマス王の孫であり、「神大根」(『日本書紀』では、「神」)の娘である。
つまり、オオウスは「尾張」と結んだのであり、オオウスの最後の地で ある猿投山は、まさに「尾張氏」の統治する地域だ。

この時代の原ヤマト政権は、九州にあった「旧奴国」の残存勢力と「尾張勢に挟まれる形で位置していたのであり、皇太子オオウスが復命しないほどに、崇神系の景行天皇朝は求心力が衰えていたと推測できる。原ヤマト政権下では、身に危険が迫っていたのかも知れない。 

実際には、仲の良かったオオウスとオウスは、『記紀』により兄弟仲が劣悪であるように記されてしまった。しかもオオウスは、朝敵であるかのように記述されている。オオウスのとった行動からみれば、それも当然のことなのだろうか。

5.「日本武尊」の東征説話

ここで『記紀』や各地に残る伝承を通して、ヤマトタケルの軌跡を追ってみたい。

ヤマトタケルを総大将とする東国遠征軍は、吉備、大伴、久米の各武将を率いて、「大和」から「伊勢」を経て「尾張」へ入っている。「尾張」の駐留地は、現在の名古屋市緑区大高町にある氷上神社である。ここの元宮が同地火上山山頂にあるが、ここが当時の尾張の本拠地だったらしい。
ここで新たにタケイナダネが参軍し、一行は現在の名古屋市緑区鳴海町の「成海神社」から出航しているらしく、成海神社では、ヤマトタケルの出航故事を伝える「御舟流しの祭り」が伝承されている。最初の上陸地は、静岡県清水市であるらしく、ヤマトタケル軍の武器庫伝承がある、矢倉神社(清水市矢倉町)が遺跡であるらしい。『野火の難』説話は、どなたもご存じであろうと思う。野火に囲まれたヤマトタケルは、「草薙剣」で周囲の草をなぎ払い、向かい火をつけて難を逃れたのであるが、この説話は、焼津神社と草薙神社に伝承されている。
ところが、両神社の位置関係は静岡市をはさんで、東が清水市、西が焼津市であり、あまりに距離が離れているのである。つまりどちらかが、後から付け加えられた伝承であると言うことだ。そして、この『野火の難』のときに、もともと「天叢雲剣」と名づけられていた剣が「草薙剣」と呼ばれるようになったらしい。

何とか難を逃れたヤマトタケルは、相模から上総に向かっているのだが、ここでヤマトタケルに従ってきた「弟橘姫」を亡くしている。この説話も『走水の入水』などとして有名である。嵐の中、漂流する軍勢を助けるため、「弟橘姫」は自ら犠牲となって入水したと言う説話である。
現在の上総である木更津市の発音は、ヤマトタケルが「弟橘姫」の死を悼んで、この地方を去ろうとしなかったので「君去らず」と呼ばれ、それが訛ったものらしい。
この後の東征経路は『記紀』の間で相違があるものの、陸奥まで侵攻し、「信濃」・「美濃」を経て「尾張」に帰ってきている。尾張では、「尾張氏」の娘である「宮簀媛」(みやすひめ)と婚姻し、しばらく滞在したようであるが、荒ぶる神を征伐するため、「草薙剣」を「宮簀媛」のもとに置いたまま、「近江」の伊吹山へ向かう。
なめてかかったヤマトタケルは返り討ちにあってしまうのだが、半死半生で「尾張」にもどったヤマトタケルは、なぜか「宮簀媛」のもとに帰ることをせず、「伊勢」に向かう途中の能褒野で力つき、亡くなってしまうのである。

6.従軍する「尾張氏」

ヤマトタケルが雄略であれば、ヤマトタケルの東征説話も雄略の御代で行われたことになる。『稲荷山古墳鉄剣銘文』のワカタケル大王や、『常陸国風土記』における「倭武天皇」から、雄略政権の勢力範囲は、少なくとも関東地方までに及んでいたことは疑いようがない。

ヤマトタケル説話を、雄略の事績に置き換えれば、雄略は「伊勢」から「尾張」に渡ったことになる。 伊勢神宮の斎宮である「倭姫」から「草薙剣」を授けられたというのは、三種の神器の一つとされた「草薙剣」が、「尾張国」の「熱田神宮」にある理由づけの記述であろう。「草薙剣」の本来の名称は、「天叢雲剣」であった。この名は「尾張氏」の始祖であるホアカリの孫、アメノムラクモに違いない。「天叢雲剣」は、「邪馬台国」連合時代から「尾張氏」に伝承されている、「尾張国」の守り剣であり、元来天皇家とは縁もゆかりもない代物と考えている。
また、『日本書紀』成立以前の伊勢神宮は、その原型である「瀧祭神」であると考えられ、現代に伝わる皇祖神宮の成立は、早くとも持統天皇を遡らないと思う。持統以前は、伊勢神宮の記述はあるものの、行幸の記録がないからである。皇祖神宮と称されるのなら、歴代の天皇が幾度となく行幸すべきであろうかと思うがこれはなぜか。
つまり、現代に伝えられるような皇祖神宮の成立は、持皇からであり、それ以前の伊勢神宮は、「度会氏」に代表されるような、地方豪族の氏神様であったと考えられるのである。

実際、「瀧祭神」は社殿を持たない石神で、極めて古神道的なにおいが感じられる。従って、「倭姫」が伊勢神宮の斎宮であったとする、『記紀』の記述は絵空事であろう。

しかし、雄略が「伊勢」から「尾張」に渡ったとすることは、事実であると思う。
現在の愛知県と三重県の県境にあたる揖斐・木曽・長良の通称、木曽三川は、江戸時代に治水工事が決行される以前の下流は、川の区別のない大河の様相であった。その大河の中に点在する島々は、「輪中」と呼ばれそれだけで自然の要塞であったらしい。「織田信長」に屈強に抵抗した長島本願寺衆は、自然の砦「輪中」があったからこそなのである。

陸路を行けば、そんな自然の要塞の中を通過しなければならず、大軍ともなれば不可能に近い。「伊勢」から伊勢湾を経て、海路で尾張に到着する方がずっと早いし安全であろう。
もっとも雄略は、東国征圧には「尾張」の水軍が不可欠と思いながらも、協力を請うてきたのではないだろう。「尾張国」の平定を視野に入れていたはずである。
当時の戦法は、武家社会にみられたように戦の開始時刻や、一騎打ちの有無を伝令を立てて交わしたり、「やあやあ我こそは・・」などと名乗りあったりしたものと推測する。

伊勢湾から押し寄せた雄略軍は、「吉備氏」を使者に立て「尾張氏」を打診したのではないか。『日本書紀』では、ヤマトタケルに従う者として「吉備武彦」を登場させている。当時の「吉備国」はヤマト政権に匹敵する勢力であった。事実、「造山古墳」は、仁徳陵、応神陵、履中陵についで、全国でも四番目に大型の前方後 円墳である。雄略は、そんな「吉備国」を押さえ君臨した大王になっていた。「吉備氏」が使者としてやって来たことは、西日本がヤマト政権に押さえられたことを、「尾張氏」に悟らせるには充分である。
尾張・近江連合政権が相手をするならともかく、不意をつかれたうえ、伊勢湾を押さえられてしまっては、同族の協力なき「尾張氏」単独軍に勝ち目 はないだろう。「尾張氏」のとった行動は、屈辱的とも言える全面的な協力であった。尾張王家世嗣ぎの武将を、「尾張国」の宝剣「天叢雲剣」とともに従わせ、 さらに、王家の娘まで輿入れさせる有様であった。
809年成立の『熱田太神宮縁起』に登場するタケイナダネと、彼の妹の「宮簀媛」である。

7.「建稲種命」

こう書いてしまうと年代に矛盾を生じてしまうが、タケイナダネという人物は実に不思議な人で、『熱田太神宮縁起』では、ヤマトタケルに参軍した武将として、『先代旧事本紀』では丹波国国造として、七十二巻本の『先代旧事本紀大成経』では、神功皇后とともに新羅遠征で活躍した武将として書かれている。つまり、その名声とは裏腹に、実年代がはっきりしないのである。

タケイナダネの名前にみられる「建(武)」の文字は、武勇に優れた人物に与えられる称号であり、「建御名方命」や「武甕槌命」、「建速素戔嗚命」すべて勇武な人物ばかりである。さらに「稲種」という名からは、農業方面にも大変明るかったことが推できる。稲荷神としても有名な「倉稲魂命」(別名、ウカノミタマ)を連想 させ、五穀豊穣の農業達人であったのだろう。

侵攻と農耕は古代において、必要不可欠な二大事業である。これほど見事な名を有する人物は、タケイナダネただ一人であろう。名は体を表すとすれば、まさに神である。そう、タケイナダネとは「尾張国」の宝剣「天叢雲剣」に宿る精霊であり、実在した人物ではないので

はないか。
しかしタケイナダネの名は、尾張氏の系図である『海部氏本紀』にみることができる。この系図は本物であるという前提なので、タケイナダネなる人物は実在していたと言うよりないのであるが、偉大なる尾張の指導者タケイナダネの名だけが、一人歩きした結果なのであろうか。『記紀』や地方伝承を比較検討すると、天皇家の系列とは別系統の尾張王 家の系統が見えてくる。

  『日本書紀』の天皇家の系統は、

          ┌五百城入彦

  崇神─垂仁─景行┼成務

          └日本武尊─仲哀─応神─仁徳 ┬履中 

                         └反正

  であるが、『日本書紀』の尾張王家の系統は、この天皇家の系統に微妙

 に重なっている。これを合わせて記載すると

                 ┌仲哀-応神-仁徳┬履中

     崇神┬垂仁─────景行┼成務      └反正

       │         ├五百城入彦      

       ├八坂入彦─八坂入姫┘

  尾張大海媛┘

  となる。さらに【真説日本古代史】で証明した系統は、次のようになる。

  崇神───┐      垂仁┬景行

       │        ├─────────────┐

       │     狭穂姫┘              │

       ├八坂入彦─八坂入姫┐            │

  尾張大海媛┘         ├五百城入彦┐      │

              父不詳┘     │      │

                       ├誉田真若王┴養子仁徳─

              建稲種─尻調刀売姫┘

  ┬履中 (仁徳と応神は同一人物)

  └反正

このように系図にすると大変判りやすいが、原ヤマト政権の崇神天皇を初代にして、正しい王家の系図は、崇神-垂仁-景行ではなく、まさに、尾張氏」系によって占められているのである。また、「宮簀媛」の名は『海部氏本紀』にはない。小椋一葉氏は、「宮簀媛」は本来「宮主媛」であったのだろうと述べているが、そうであれば「宮簀媛」という固有名詞ではなく、「天叢雲剣」を斉祀る宮の主という普通名詞であろう。『海部氏本紀』には「日女命」が記載されている。これが「宮簀媛」ではないだろうか。彼女は「邪馬台国」の女王ヒミコのような、巫女であったのだろう。

『古事記』は、「宮簀媛」が尾張国造の祖であるという。国造とは今で言う県知事みたいなものだから、尾張国女王といっても差し支えない。そもそも「尾張」の語源は、女性仏教国とその支配者であり、「邪馬台国」がまさにそれであったわけである。「尾張氏」の祖アメノカヤマが、「邪馬台国」を助け治めていたヒミコの男弟であったと考えているので、偶然とは言い切れないと思う。

8.「日本武尊」の最後

尾張水軍の協力を得た雄略天皇による東国平定は、当然のように遂行されていったのであろう。一行の上陸地点は、清水市草薙か焼津市のどちらかであるというが『記紀』の記述を信じれば焼津市になる。『日本書紀』では焼津での野火の難は火打ち石を使い、迎え火をつくって逃れたとしており、「草薙剣」の由来は「一説には」として、記述しているのにすぎない。従って、一般的に知られる「草薙剣」説話は、異なる二つの伝承を一つのこととして、創られたものと考えられる。
焼津から上陸を試みようとした一行であったが、上陸を阻止する一族が野に火を放ったため、清水に迂回したのではないか。案外、こんなところが真相であろう。さて、東国を平定しての帰路、雄略は陸路を、タケイナダネは海路を行ったことは、『尾張国熱田太神宮縁起』に書かれているが、タケイナダネはその帰路、駿河の海で遭難死したらしいのである。愛知県幡豆郡吉良町の幡豆神社は、伊豆沖で船が難破し、遺体が漂流した地であるらしいし、、愛知県春日井市内津町の内内神社は、その悲報を聞いたヤマトタケルが、「ああ、うつつかな、うつつかな。」と嘆いた地であるという。

タケイナダネの生存年代のこともあり、遭難死したのはタケイナダネとは言えないかも知れないが、実際に尾張王家の者が遭難死したとしたら、「尾張国」にとっては、屋台骨が揺らいでしまうほどの大問題であろう。ヤマトタケルは「尾張国」に戻り、「宮簀媛」をめとっている。後の国造であり、「尾張国」の女王・「宮簀媛」をめとることは、「尾張国」のヤマト政権参加を意味するが、どうやらことは穏やかではなかったようである。

長く「尾張国」に滞在したヤマトタケルは、胆吹山(伊吹山)の神を討ちに赴き返り討ちに遭うが、「伊吹」とは「息吹」であり、「息吹氏」の比喩であろう。

『古代氏族辞典』によれば、「息吹氏」とは「伊福氏」であり、「尾張氏」と同族の「五百木氏」のことであるという。つまり、ヤマトタケルが伐ちに行ったという近江の伊吹山の神とは「尾張氏」と同族の、「五百木氏」のことだったのである。もとより「尾張氏」は、ヤマト政権に協力するつもりなどなかったのだろう。従ったように見せたのは、近江勢と連絡を取るための、時間稼ぎであったのかもしれない。

ただ、この東征説話はこのとき一回限りのことではなく、『稲荷山古墳鉄剣銘文』の辛亥年を471年とすれば、それ以前である雄略天皇の即位年頃(468年と考えている)より数年に渡り、幾度となく行われてきたことの集成であると考えられる。
そうでなければ、『稲荷山古墳鉄剣銘文』や『江田船山古墳太刀銘文』にあるような、代々にまたがる協力関係などできるはずがない。当然、東国行幸のたびに「尾張」に立ち寄るであろうし、愛すべき人がいるとなればなおさらである。そしてその何回目かの行幸の末路が死であったのだろう。
当然この間の478年に、「宋」へ奏上していることになる。ヤマトタケルは、「尾張氏」の勧めもあり、「五百木氏」との会見に赴いたのではないだろうか。伊吹山の神に素手で立ち向かったとあるので、策略があろうことなど、微塵の疑いもなかったはずである。
ここに来て初めて罠であったことに気づくも時既に遅く、ヤマトタケル
は痛手を被り、最後には「能褒野」の地で力つきてしまう。ヤマトタケルが「尾張」へ戻ってきたものの、「宮簀媛」のもとへ立ち寄らなかった理由は、「尾張氏」の裏切り行為にあると思う。
ヤマトタケルは雄略であるのだから、ヤマトタケルの死は雄略の死でもある。結局雄略は、近江・尾張政権の手によって殺されてしまったのである。

9.崩壊するヤマト政権

ヤマトタケルは、自らの危機を「吉備武彦」を遣わして、天皇に連絡している。天皇といっても、ヤマトタケル自身が天皇であるから、ヤマト政権中枢に対しての連絡であろう。「吉備武彦」とは、雄略時代の「吉備臣尾代」(きびのおみおみしろ)であると考えられる。

故に、ここからのストーリーは、『雄略紀』の巻末と『清寧紀』の巻頭につながる。
つまり、「吉備臣尾代」は雄略夫人である「吉備稚媛」に、その一部始終を伝えた後、自ら「吉備国」に赴き、ヤマト政権への進軍を要請したのである。
この間「吉備稚媛」は、まだ幼い「星川皇子」に「天子の位に登ろうと思うなら、まず大蔵の役所を取りなさい。」と語っている。

「吉備稚媛」の算段では、大蔵の役所を落としている間に、「吉備国」からの援軍が来るはずであった。ところが、「吉備臣尾代」の捕虜として率いられてきた蝦夷が、天皇の死を知り反乱を起こしてしまったのである。この事態を収集するために、「吉備臣尾代」は思わぬ時間を費やしてしまった。やっとのことで「吉備国」頭首・「吉備上道臣」(きびのかみつみちのおみ)に伝令をやり、船団40隻をヤマトに向かわせたのだが、「吉備稚媛」、「星川皇子」とも焼き殺されてしまった後であり、クーデターは失敗に終わり、帰路に就かざるを得なかったのである。しかし、雄略の悲報は、ヤマト政権分裂の序章として充分すぎるものであった。

あまりに突然のことで、皇太子すら不在のままだったのであろうか。は、この機を待っていたのは、亡き「市辺押磐皇子」政党だった。彼らは「市辺押磐皇子」の娘「飯豊皇女」を皇位に就け、ヤマト政権乗っ取りを画策し、見事成功を治めている。
実際には、安康天皇の次代に「市辺押磐皇子」は、押磐天皇として即位していたと思われる。「市辺押磐皇子」は、雄略により謀殺されているので、その娘「飯豊皇女」を天皇にすることは、ヤマト政権内の反雄略派を統率することに、まことにうまい条件であったはずだ。雄略の執った血で血を洗う政略が、ヤマト政権内部を腐敗させ、崩壊寸前のありさまであったことは間違いあるまい。仮に『日本書紀』の記述を信じれば、雄略以降の天皇の系統は、武烈天皇に至るまですべて雄略に殺された「市辺押磐皇子」の直系であり、クーデターによって倒された履中天皇系に戻ってしまったことになり、内部分裂は必至であったことであろう。
「大伴氏」はポスト雄略として、外様である継体天皇擁立に動いた。そして「大和」の旧押磐天皇勢力は「飯豊皇女」を帝位に就け、「河内」・「大和」の二朝並立の状態だったのではないか。

最後になるが、『日本書紀』は顕宗天皇が語ったとして、次のように記述している。

「わが父王は、罪なくして雄略天皇に殺され、屍を野良に捨てられ、今だにはっきりとしない。憤りの心は一杯にある。臥しては泣き、行きてはわめき、仇をはらしたいと思う。自分は聞いている。『父の仇とは共に天を戴かず、兄弟の仇とは、いつでも戦えるよう備えをしておく。友の仇とは同じところに住まない』と。匹夫の子でも、父母の仇を討つには、苫に寝、干を枕にして君に仕えず、国を共にせず、どんなところで出会っても、いつでも戦えようにすると。ましてや自分は天子になって二年、願うこ

とは雄略天皇の墓をこわし遺骨を砕いて投げ散らしたい。今この仕返しをしたら、親孝行になるのではないか。」