秋海棠 しゅうかいどう(しうかいだう) 瓔珞草 断腸花 Hardy begonia

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/saijiki/syuukaidou.html 【秋海棠 しゅうかいどう(しうかいだう) 瓔珞草 断腸花 Hardy begonia】 より

秋風も涼しさを増す頃、日陰がちの植込みや路地裏でこの花をよく見かけるようになる。一株二株あるだけで、あたりの空間がぴりっと引き締まるような、そうして同時にほんのり暖さが漂ってくるような、そんな感じがする。

シュウカイドウ科の多年草で、ベゴニアの仲間。貝原益軒『大和本草』には「寛永年中、中華より初て長崎に来る。(中略)花の色海棠に似たり。故に名付く」とある。

芭蕉の「秋海棠西瓜すいくわの色に咲きにけり」はこの花の爽やかな色合を捉えて流石だ。花だけでなく茎も淡紅色に色付き、美しい。大小不揃いのハート型の葉も趣があり、小さいながらも実に魅力に富んだ草花である。

江戸時代の風流人に大変好まれ、和歌にも詠まれているが、漢名をそのまま採り入れた「秋海棠」の語を歌中に入れることは憚られた。

『自撰歌』 秋海棠といふ花をかきたるかた 本居宣長

色も名も唐くれなゐの花のつゆかけそめて見む倭ことの葉

色も名も唐(から)めいた「秋海棠」の花。その花についた露に掛けて、「やまとことのは」すなわち和歌を詠みかけてみよう、という。花の画に添えた賛である。

画賛と言えば、長塚節(1879~1915)の名作もこの花の絵に添えた歌であった。

秋海棠の画に

白埴しらはにの瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり

大正三年(1914)、「鍼の如く 其一」より。秋海棠を活けるなら白埴の瓶(かめ)が良い。白い光沢の肌をもつ花器に活けられ、霧がなお纏い付いているかのような冷たい水を吸って、秋海棠の淡い紅は生き生きと引き立つだろう。読む者の心にまで命の水が沁みわたるかのような、清冽無比の一首だ。

同年九月三十日、「雨つめたし、百穂氏の秋海棠を描きたる葉書とりいだしてみる、庭にはじめてさけりとあり」の詞書では、「うなだれし秋海棠にふる雨はいたくはふらず只白くあれな」の一首も見え、これも心に沁みる。

上の写真はとある玄関先に見つけた秋海棠の挿し花。下の写真は光則寺にて。鎌倉長谷のひっそりとした初秋の寺の庭が、秋海棠に飾られて、得も言われず好もしい風情だった。なかに、ごく淡い紅を含んだ白花もあり、目を惹かれた。

秋海棠 鎌倉光則寺にて

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  『六帖詠草』 (秋海棠と一重菊と垣ねにさきたるかけるに) 小沢蘆庵

秋をしる庭の一花二花に色のちぐさの野べもおもはず

  『琴後集』 (秋海棠のゑに) 村田春海

いかなれば秋野の露の下草に春のにほひを猶とどむらん

  『蜀山家集』 (秋海棠に鳥の絵) 大田南畝

比翼にはあらぬ一羽の烏鳴てねぶりをさます秋の海棠

  『左千夫歌集』 (秋海棠) 伊藤左千夫

秋海棠のさはに咲きたる背戸山に米とぐ女めの児こ手白てじろ足白あしじろ

朝顔は都の少女をとめ秋海棠はひなの少女をとめか秋海棠吾は

  「鍼の如く」(詞書略) 長塚節

いささかは肌はひゆとも単衣きて秋海棠はみるべかるらし

  『寒蝉集』 (亡妻小祥忌前後) 吉野秀雄

人の庭に秋海棠の花乞ひて妹いもが祀まつりのよそほひとしつ

  『短歌行』 山中智恵子

ここ過ぎてわが夏の門こぼれたる秋海棠を晩節となす


https://awasaya.exblog.jp/16175763/  【スイカの雌花】

(前略) なにか季節を感じさせるものはないかと、全神経を張りつめている芭蕉の鋭敏で繊細な食欲に、このさわやかな夏の水果がどんなふうに取り込まれているのでしょうか。

 加藤楸邨先生の『芭蕉全句』から、年代順にまずは「瓜」を拾ってみますと、いろいろありますね。クイシンボというよりも暑さを凌げるご馳走だったんでしょうか。

闇の夜とすごく狐下はう玉真桑

 「折から真の暗闇で何かすごい感じの夜、その暗闇にまぎれ好物の真桑瓜をしたって、狐がひそかに瓜畑に匍い寄って来ていることよ」

瓜作る君があれなと夕涼み

 「知人の住んでいた跡を尋ねてみたところ、雑草が生い茂って見る影もない。かつてここで瓜など食って楽しんでいた君がいまもいてくれたらよかったのにと、ひとりあたりを歩いて夕べの涼をとったことだ」

山陰や身を養はむ瓜畠

 「瓜畑のほとりで旅疲れの身を休めて、瓜をくらい、しずかに身を養おう」

初真桑四つにや断らん輪に切らん

 「さあ、もてなしに出されたこの初真桑瓜をいっしょに食べよう、たてに四つに割ったらよいか、輪切りにしたらよいか、さてどちらにしたものであろうか」

花と実と一度に瓜の盛りかな

 「他の植物は花は花、実は実とそれぞれ別々になるものなのに、瓜は花が咲いているさなかにもう実も出盛りになっているのが、まことにおもしろい」

子どもらよ昼顔咲きぬ瓜むかん

 「昼顔が咲いて日盛りになった。子供らよ、さあ、冷やしてあった瓜を剥いて食べよう」

朝露によごれて涼し瓜の泥

 「朝露にしっとりとぬれたもぎ立ての瓜に、少し泥のついて汚れているのが、かえっていかにも新鮮で、涼しく感じられる」

 やはり好きだったんでしょうね、芭蕉さんは。

 そして、瓜の間に、西瓜が詠まれていないか、けっこう丹念にパラパラページをめくっていたのですが、ついに最後の最後に西瓜そのものではなく、記憶の中の西瓜が出て来るのです。最晩年の元禄七年、この年に芭蕉は亡くなるのですが、ああ、西瓜を真正面から取り上げなかったなあという甘い無念を満たしつつ、みずみずしい西瓜を以下の『東西夜話』に拾っています。

秋海棠西瓜の色に咲きにけり

 「秋海棠(しゅうかいどう)が淡紅色の可憐な花をつけている。目をとめて見ると、その色あいは実にみずみずしく、あの珍しい西瓜の色を備えて咲き出たという感じがする」

 園芸王国だった江戸の町では、この秋海棠はごく一般的な花だったようで、秋になるとどこの垣根にも鮮やかなピンクの花びらを見せていたんでしょう。その秋海棠の花弁の色が、つい数週間前に味わった西瓜を思い出させ、ああ、移りゆく季節の味わい深いことよと、きっと西瓜の甘みも舌の奥で懐かしく思い出していたのでしょうか。とにかく、色彩の魔術師のような一句ですね。色見本帖を手元で開いたような色鮮やかさに感動します。我がほうのスイカも早く大きくなれ、8mmの無垢よ!