https://www.brh.co.jp/salon/blog/article/detail/339 【表現として継承される物語り】
私はこの2年程、能楽の囃子方の先生の指導で小鼓のお稽古を続けています。もちろん素人弟子です。「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」で語り部をつとめて以来、「声」による表現への欲求と関心が膨らみ、これをいかに発露すべきか思いあぐね、能楽の「謡い」に関心を抱き「謡いと小鼓の体験講座」を受けたところ二つは切り離せないとわかりました。シテ方の謡いや舞いを囃すのが囃子方ですが、囃子方として小鼓をお稽古していくと自然に謡いも身体で覚えることになります。むしろ囃子の拍や手、そして「込み」がないと、謡の詞章も節回しも身体に入らないだろうと思います。能楽師の先生方は、そういう練習を6歳頃から続けてこられて、例えば、現代に伝わる能楽の謡曲250曲ほどがまるごと体に入っていらっしゃるわけで、驚きです。
能楽は中世に観阿弥・世阿弥父子が大成して以来と言われますが、世阿弥は生年1363年で、ちょうど私の600歳年上です。中世の老若男女貴賎都鄙つまりすべての人々が楽しむ芸能として成った申楽(能楽の呼称は明治以降とか)の詞章や技芸は連綿と語り伝えられ、今もはたらき続けているわけです。能はかなり削ぎ落とされた舞台表現ですが、謡曲が謡い囃し出されると、観る者の想像力を喚起し、頭の中で豊かな、時に驚くほど視覚的なイメージを伴って物語が展開します。現代の映画という表現の原型がここにあると思います。
能の大成は中世と申しましたが、ここには、今様や郢曲、曲舞、延年、田楽、神楽、田遊びに連なる技芸として、平安時代の和歌や物語、大陸伝来の仏教の寺事や中国の故事等、さらに遡って八百万の神々や「古事記」が、中世時点の解釈で詰まっており、能の技芸や謡曲の詞章をわかろうとすることは、この列島の文化を根本からわかろうとすることにもなるでしょう。そのような表現が現代に生きているとは幸せなことです。私の中では、能楽としてはたらき伝えられる技芸や物語を読み解いて、今、立ち上がる表現にすることと、生命誌として、すべての生きものが細胞の中にもつゲノムにしるされた歴史物語を読み解き「生命観」を表現することは、しっくりと重なっているのです。そんなわけで、生命誌研究館の30周年記念には、能が上演できないだろうかという夢を描きつつ、日々、小鼓を稽古し、また生命誌を表現しています。
因みに季刊「生命誌」100号の折、こしらえた特製文庫本『生命誌の思い -100の対話- 』は、座右の書『観世流謡曲百番集』にならって、生命誌を後の世に語り伝えむとの思いで編みました。ホームページから生命誌へ「声」を寄せてくださった方へお送りしています。ぜひこれをお手元へお取り寄せください。
※この文章は、今年2月に亀岡で行われた「異文化共生」を考える会に招かれ、お話しした記録の一部を抜粋し整えたものです。この会に向けて、生命誌の表現についての思いを事前資料としてまとめました。その抜粋もあわせて以下に掲載いたします。
表現を通して生きものを考えるということ
映像であれ出版であれ、生命誌研究館の表現を通して生きものを考えるという仕事は、これにたずさわるさまざまな立場の人々が、作品をこしらえていく過程にお互いの「発見」や「成長」を得ることが大事で、既にわかっている事柄に形を与えるのでなく、初めて出会う価値観や世界観を引き出すところに、もう一つ何かをこしらえる意味があるのだと思います。
もう一つ大事なことは、「作品をこしらえる=生きている」ことの基本はアナログ世界にあるということです。自然界は複雑です。水面を揺らし梢の百葉を鳴らす風、陽をかざし山を翳らす移ろう雲、しぐれ、野に沁む鳥や虫の声。同時多発的、徒なる瞬間に満たされたアナログ世界の複雑さの中から、人間の「理解」に即して取り出す情報を、あるいは感性に基づく「経験」を共感し合うアプローチとして、いつ頃からか私たちは、声や言葉、しるしを用いるようになり、さらに概念思考を発達させて道具を用いて文化、文明を生き始めたのだと想像します。デジタル情報とは、既に誰か人間の理解を経た二次的な情報です。「数(digit)」と「言葉」は、人間が世界を捉える方法として発明した両輪なのだと思います。
私たちは、デジタルを介してアナログ世界を感じとることができます。その表現を通して、例えば、一枚の紙と一本の鉛筆さえあれば、どれほどか豊かな世界を描き出せるはずです。紙というものも、平安時代『源氏物語』の頃は、大陸から伝わった先端技術の人工物で大変に貴重なものであったことが当時の日記文学などから読みとれます。古来、紙も布も(酒も)幣帛として神に捧げる、人間の「わかる」を超えた不思議を抱えた自然のたまものであり、自然界からいただく素材に手を加えて、紙や布にこしらえあげていく過程も、神妙な技として人々に尊重され、受け止められていたのではないでしょうか。そうした時代には、こしらえる(自然物に手を加える)こととそれを享受、あるいは用いることによって自身と世界とがいつも一つに重なり合って、人間は自然の一部として生きていたのではないでしょうか。
生命誌研究館で表現の題材として扱うのは「生きもの研究」です。多様な生きものやその生き方、さらに「生きもの研究」という仕事の過程や、たずさわる研究者の考えや思い。そうしたものごとを、展示や映像や出版物などの媒体を介して多くの人々が日常的な感覚で受け止めることのできる絵物語りとして表現していく、そこから「生きているとは、どういうことか」を新たに見出だす。そのような表現を心がけています。
複雑な自然現象から、法則性や普遍性を<因・果>として取り出すことで世界を理解する科学は、世界をわかろうとする方途の一つであって、科学の発展にかかわらず、自然界は、人間にはわからないことに満ちているという捉え方は大切だと思います。そして、「わからないことを含めて受け止める」というわかり方には、<因・果>だけでなく、<因・縁・果>が必要ではないかという風に思います。
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