一指李承憲@ILCHIjp
·「本当の私」は他の誰かが見つけてはくれません。私の価値を見つけられるのは私だけで、私の価値を創造できるのも私だけです。私の価値は、誰かが認めてくれるからではなく、私が創造し、私が意味をもたせるから尊いのです。本当の私を見つけることから、すべてが新たに始まります。
小松郷伸さんのコメント
賢治が繰り返し使った「ほんとうの幸い」という言葉。「ほんとう」、すなわち究極の答えとしての真理。古今東西の哲学者や文学者たちが求めてやまない真理を、賢治は「ほんとう」という言葉に込め真剣に考え追求しました。「銀河鉄道の夜」や「学者アラムハラドの見た着物」という作品にも、そのテーマが貫かれています。 https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/63_miyazawa/motto.html 【永久の未完成これ完成である。宮沢賢治「農民芸術概論綱要」】 より
「農民芸術概論綱要」は大好きなフレーズがたくさんはいっていて、賢治作品の中でも何度も読み返した作品ですが、「永久の未完成これ完成である」というフレーズについては、あらためて深く考えることはありませんでした。何度も作品を書き直す賢治の姿勢を表わしたもの…とぐらいに考えていました。しかし、今回の講師である山下聖美さんと番組の打ち合わせをする中で、この言葉に、賢治の文学と生き方が象徴されているのではないかと思えてきたのです。
賢治が繰り返し使った「ほんとうの幸い」という言葉。「ほんとう」、すなわち究極の答えとしての真理。古今東西の哲学者や文学者たちが求めてやまない真理を、賢治は「ほんとう」という言葉に込め真剣に考え追求しました。「銀河鉄道の夜」や「学者アラムハラドの見た着物」という作品にも、そのテーマが貫かれています。
ところが、賢治は、「ほんとう」を追求し続けたにもかかわらず、死ぬ間際に、自分の人生を「迷いの跡」だと言い放ちます。これは何を意味するのでしょうか? 山下さんは、「ほんとう」に行き着くための「迷い」自体が、彼の貫いた文学の道だったのではないかといいます。
こうした視点から、あらためて「銀河鉄道の夜」を読み返してみると、ジョバンニとカンパネルラの会話にも次のような一節が出てきます。
「けれどもほんたうのさいはひは一体なんだらう。」ジョバンニが云ひました。
「僕わからない。」カンパネルラがぼんやり云ひました。
宮沢賢治のライフワークともいえ、数限りなく改稿され続けた「銀河鉄道の夜」の中ですら、「ほんたうのさいはひは一体なんだらう」という根源的な問いに対しての答えが「僕わからない」なのです。では、宮沢賢治は、この答えから逃げていたのか? そうではないと思います。山下さんの言葉を借りれば、「この物語は、答えそのものよりも、問い続けていくことの重要性を説く物語である」ということだと思うのです。
私たちは、どんな問いにも答えがあると信じ込んでしまい、性急にその答えを求めてしまいがちです。ですが、賢治は、最終的に「わからないことはわからないままでよい」と考えていたのではないでしょうか? むしろ、それを問い続けていくことこそが人間の大切な営みと考えていたのではないかと思えるのです。
前期の賢治の童話には、「自己を犠牲にしないと本当の幸せは訪れない」というテーマが繰り返し語られ、それこそが真理なのだという重苦しい雰囲気が漂っています。しかし、後期の賢治には、少し変化が感じられます。たとえば、「学者アラムハラドの見た着物」では、学者アラムハラドが「人が何としてもさうしないでゐられないこと」は何かという質問したのに対して、彼がもっとも信頼する生徒セララバアドは「人はほんたうのいいことが何だかを考へないでゐられないと思ひます」と答えます。「自己犠牲」や「いいこと」ではなく、「いいことが何だかを考えること」。つまり「問い続けること」こそが人間のあり方だといっているのです。
「永久の未完成これ完成である」。この言葉の意味が、こうした読み直しの中で、少しずつ腑に落ちてきました。賢治の作品に終わりや答えなどないのです。安易な答えなどに安住してはいけない。絶えざる問いや追求のプロセスの中にこそ、「生の充実」や「人間の本来のあり方」があるのだ。そう賢治から問われているような気がしてなりません。
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