映画に観る・その日の花を摘む

https://ameblo.jp/ldt-llf/entry-12431073576.html 【今を精一杯自分らしく生きるための「命をかけたワガママ」 〜『こんな夜更けにバナナかよ』】

全身の筋肉が侵されていく難病、筋ジストロフィー患者の主人公・鹿野と彼の自立生活を支えるボランティアの実話を基にした物語。タイトルにもあるような一見傍若無人な鹿野(大泉洋)のワガママに振り回されるボランティアの美咲(高畑充希)や田中(三浦春馬)が、彼との交流を通じて次第に人間として成長していく様が爽やかに描かれている。

明日も今日と同じことができるか分からない主人公にとって、今という時間の持つ意味はとてつもなく大きい。それが分かっているからこそ、「命がけのワガママ」を言ってでも今という時間を精一杯生きようとする。でも考えてみれば「明日どうなるか分からない」のは全ての人に言えること。だとすれば全ての人にとって今を精一杯生きることは鹿野さんと同じくらい大切なはずだが、なかなか日頃はそれに気づかない。鹿野さんの生き方を見て、今という時間の大切さを改めて考えさせられた。

「障害者が人生を楽しんじゃいけないのかよ」「人はできることよりもできないことの方が多い」「生きることは迷惑を掛け合っていくこと」(正確ではないが)など、ドキッとさせられるセリフが多かった。

正に「体は不自由、心は自由」な破天荒な主人公を演じた大泉洋、その主人公を初めは嫌いながら徐々に心を開き最後は最大の理解者になっていく美咲を演じた高畑充希の好演が光った。


https://ameblo.jp/ldt-llf/entry-12394708036.html  【『沈黙 サイレンス』】 より

言わずと知れた遠藤周作の名作『沈黙』の映画化。それぞれの役者も素晴らしく、また映像的にも雨と泥にまみれた寒村の様子が、異国の木を根から腐らせる日本の「沼地」をよく表していると思った。

「感動する」とか「泣ける」とか、そういう単純な言葉では表せない映画だが、あえて言えば「苦しい」映画か。観ている最中も、観終わった後も。これほどまでに人を苦しめる「信仰」とは何なのか、キリスト教徒ではない自分には原作を読んだ時も本作を観た後も良く分からない。

神学的には、最近読んだ『悪魔の勉強術』の中で佐藤優氏がこの原作に触れて指摘しているように、カトリックとプロテスタントの違い、更にはイエズス会という組織の特異性といったことも関係するのだろうし、自分には(その手法は別として)井上筑後守の論理も充分に納得できる。しかし、それぞれの立場からくる思想的な違いと、本作の映画としての、そして原作の文学としての卓越性は別の話である。このような過酷な切支丹弾圧が過去この国に確かに存在し、そしてそれに殉じた多くの人々が確かにいた。信仰とはそのような一見理不尽な事態を生み出しかねない強大な力を持つものであり、それにも関わらず(それだからこそと言うべきか)、人は信仰を求めずにはいられない存在なのだということを感じた。

基本的に全体として原作に忠実であった本作だが、最後のシーンでは神の「沈黙」の意味、そしてロドリゴの「信仰」に対して、原作にはないスコセッシ監督の解釈が強く打ち出されていると感じた。もう一度原作を読んでみたくなった。


https://ameblo.jp/ldt-llf/entry-12394707549.html  【『海賊とよばれた男』】 より

原作に感動し、また同じ山崎・岡田コンビの前作『永遠の0』も良かったので期待する一方、評判では今ひとつ芳しくない印象もあったため、期待と不安が入り混じりながら観たが、個人的には山崎監督ならではのVFXのリアリティはさすがだったし、岡田准一や小林薫、染谷将太、吉岡秀隆、堤真一、國村隼といった俳優陣の熱演も良かったと思う。出光興産の創業者・出光佐三をモデルにした主人公・国岡鐵造の物語はどこまで史実に忠実なのか詳しくは分からないが、このような強烈なカリスマ性を持ち、自分が正しいと信じることをあくまで貫き通した、正にサムライと呼ぶに相応しい日本人がいたからこそ、そして、戦場という地獄をくぐり抜け、生き残った者たちが一丸となってそのカリスマを支えたからこそ、戦後日本の驚異的な復興が実現したのは紛れもない事実だと思う。

一方で、見方によればその強烈なカリスマ性とリーダーシップゆえに「狂信集団」の危うさを感じさせてしまうことも事実で、その辺りをどう感じるかでこの映画に対する評価も別れるのだろう(特に日承丸をアバダンという「戦地」に向かわせたことは、一歩間違えば取り返しのつかない惨禍をもたらし、大きな非難を浴びたことだろう)。だがそれを承知の上で、自分としては敢えてその「狂信」とそれを生む「熱」を、時代を動かすエネルギーとして肯定的に捉えたいし、またそのように熱く生きることができた彼らを羨ましく思った。

また、このような「熱さ」の陰で、それを「身を引く」という形で支えたユキの存在と、彼女亡き後に初めてその想いを知った鐵造の無念さにも静かな感動を覚えた。


https://ameblo.jp/ldt-llf/entry-12537302224.html  【絶望的な貧困のなかで力強く生きる「存在しない少年」〜『存在のない子供たち』を観て】  より

映画の魅力の一つは、行ったことも見たこともない場所のことを疑似体験させてくれることにあると思いますが、この作品は自分には馴染みのないレバノンという国でどのようなことが起こっているのかを「体験」させてくれたという意味で、映画の魅力を感じさせてくれます。

12歳の少年ゼインが、両親を訴える、というショッキングな場面からこの映画は始まります。しかもその理由は「自分を勝手に産んだこと」。そこに至る背景を追っていく形で物語は進んでいきますが、そこにあるのはレバノンにある絶望的なまでの貧困。出生証明もないゼインは社会にとって「存在しない子供」として扱われながらも、懸命に生き延びていきます。その力強さ、健気さがいじらしい。蛇口をひねっても汚い水しか出てこないのに対して「なんて国だ!」と12歳の子供が毒づくところに、豊かな国に住む自分たちとの圧倒的な違いを感じました。

親にも見捨てられ絶望的な状況の中で終始笑うことを忘れたかのようなゼインが、最後に見せるはにかんだ笑顔に一筋の光明が見えた気がして救われました。