自分の十字架

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【自分の十字架】 より

人間は誰でも、十字架を背負って生きているものです。

十字架は厭だと言っても、それを取り除くことは出来ません。

この十字架は、外側から来る場合もあり、

自分自身の中に、自分自身の性格にある場合もあります。

いずれにしても、人間として生きる限り、

十字架を避けて通る事はできないのです。

十字架というのは、キリスト教の専売特許ではありません。

十字架は、ありのままの人生の現実です。

もし、イエスが栄光に満ちているだけのメシアであったとしたなら、

そのようなメシアは、私たちの苦難の人生を励まし力づけることができるでしょうか。

私たちが、絶望の淵にあるとき、私たちを助けてくれることが出来るでしょうか。

神の子でありながら、キリストが私たち人間の一人となって、

人間の悲惨を体験されたことのうちに神の子キリストのユニークさがあります。

そしてまさに神の子が人間となって、人間の苦難を、

それも最も過酷な苦難を身に受けるということにこそ、

私たち人間の救いがかかっているのです。

神は私たちを救うために、

人間の只中に入って来られ、自ら人間となられます。

私たちは、ナザレのイエスを通して神の愛を知り、

イエスを通して神の元へと戻る道を見出します。

もちろんのことですが、イエスの道が十字架の道だけで終わるのであれば、

私たちは少しも救われません。

十字架の死の後に「復活」という絶対的勝利があってこそ、

私たちはイエスについて行くことが出来ます。

神の子が、十字架上で非業の死を遂げるというのは、

人間の知恵で考える限り、全くとんでもないことには違いありませんが、

しかし、このとんでもないような神の極限の愛の業よってしか救われることが出来ないほどに、

私たち人間の罪への傾きは深刻であり、根深いものだということなのです。

私たちが、永遠の生命を望むなら、

私たちの人生を、キリストが全生涯を通して示された姿勢で引き受けることが必要です。

私たちがキリスト者として生きるということは、

人生の現実を誠実に引き受け、

キリストを通して神の愛に応える情熱によって、

人生を突破するということです。