2月20日、98歳で亡くなった俳人の金子兜太さん

https://book.asahi.com/article/11583666  【 2月20日、98歳で亡くなった俳人の金子兜太さん】より

金子兜太氏は野生の人で、なまなましく生きて、句にケダモノ感覚がある。花鳥風月が嫌いな人だった。句にぶんなぐられたけれど気分がいい。

 二〇一二年、兜太氏(当時九十二歳)が主宰する俳誌「海程」五十周年記念祝賀会があり、百四十人の野生的客人が集まった。まず藤原作弥さん(元日本銀行副総裁)が日銀時代のヒラ社員史を語った。組合活動にかかわり、福島、神戸、長崎の支店にとばされた。

 とばされたって日銀だろ、と野生的客人はブーブーと文句をいった。つづいて、トラック諸島に赴任時代の上官だった西澤実さんが「金子君はな、戦争に負けそうなトラック島で、陸海軍合同俳句会をやったとんでもねえ野郎だァ」と大声で演説した。そのときにつくったのが、魚雷の胴にトカゲが這(は)い回ってるって句だ(魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ)。しばらくすると薄っぺらい俳句誌を送ってきやがって、それが「海程」創刊号だった。(拍手)。それがなんだ、五十周年号は机の上に置くと、「広辞苑」みたいに立つよ。(拍手、拍手)。

 つづいて有馬朗人さん(元東大総長)が「東大時代の金子さんはとびぬけて優秀な成績を残しています」と報告すると、隣席の芳賀徹さんが「そんなはずはないだろ」とドラ声をあげた。私の右側にいた宇多喜代子さんは「かつて宇多喜代子をバイ菌から守る会がありました。バイ菌とは前衛俳句と呼ばれた金子兜太さんです」。ズケズケと遠慮なくいうところが俳人の景気のよさだ。

 芳賀さんが「バイ菌って言葉なつかしいですな」とつぶやき、有馬さんも「じつにいい言葉だ」とうなずいて、バイ菌、バイ菌バンザーイとなったところで、小沢昭一さんの音頭で万歳三唱をした。

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欲望のままに

 『他界』は、トラック島での戦争体験から、定年直前までの「定住漂泊」の心情を語っている。社会に「定住」しつつ一茶や山頭火のような「漂泊」に生きる。

 《定住漂泊冬の陽熱き握り飯》(一九七二年)

 九十九里浜の病院にいる妻を見舞いにいったときの吟、

 《癌と同居の妻よ太平洋は秋》

 人の死を「消滅ではなく他界」と信じている。肉体が消えても精神は永遠だ。二〇〇四年に一〇四歳で他界した母を思い出して

 《長寿の母うんこのようにわれを産みぬ》

 『小林一茶』は句による評伝で、一茶の約九十句を解説している。欲望のまま自由に生きた一茶の「荒凡夫(あらぼんぷ)」ぶりを兜太氏はめざした。

 『金子兜太の俳句入門』は、芭蕉や中村草田男から、高校生の句(古池に蛙とびこみ複雑骨折)まで引用して、生活実感やユーモアの骨法を説く。自作「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)どれも腹出し秩父の子」を自慢するところがいい。

天からの言霊

 兜太氏は高齢化社会のアイドルとなって、晩年は、多くの本が刊行された。『他流試合――俳句入門真剣勝負!』(金子兜太、いとうせいこう著、講談社+α文庫・961円)は、いとうせいこうさんがまえがきで「こてんぱんにノサれた」と独白する痛快な対談集。

 『存在者 金子兜太』(黒田杏子編著、藤原書店・3024円)は「そのまま」で生きていく人間を「存在者」と規定する。「被曝(ひばく)福島」と題して

 《魂(たま)のごと死のごと福島紅葉(もみじ)して》(二〇一七年)

 兜太名句は三十句ほど暗記しているが、一番好きな句は、

 《脳天や雨がとび込む水の音》(二〇〇八年)

 で、ノウテンという言葉の響きに雨が降り落ちる音が重なっている。芭蕉の言霊(ことだま)が天から降ってきた=朝日新聞2018年3月18日掲載

嵐山光三郎(アラシヤマコウザブロウ)作家

1942年生まれ。「悪党芭蕉」で泉鏡花文学賞、読売文学賞。

俳人の金子兜太さんが60年余り書き続けた日記の原本(金子眞土さん撮影)

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190210-OYT1T50037/?fbclid=IwAR1fySdTMJNwu-7cqgJnORZDpx1Bgv-dlCslVImuHstWEgzyBR-U9ETPB4o  【兜太さん 揺れる思い…60年分の日記 刊行へ】

とうたさんの60年余に及ぶ日記が、一周忌を迎える今月から刊行される。日銀勤めの揺れ動く思いなどがつぶさにつづられるとともに、小説の執筆にも意欲を持っていたことが分かる貴重な資料だ。

 「金子兜太戦後俳句日記」と題し、全3巻(白水社)。1957年から2017年までの約60年分で、日記原本を俳句関係の記述を中心に約3分の1にまとめた。今月20日発売の第1巻は、1976年までを収録。続刊は半年ごとに出る予定だ。

(日記を手にして話す生前の金子兜太さん(2016年1月、埼玉県熊谷市の自宅で)

■「何としても東京へ」

 「一つの決意。あと一年銀行内の様子を見、これ以上の自分の上進がなければ、いさぎよくやめて、文筆活動に入ろうと思う」(57年2月7日)。当時37歳。神戸支店にいた。

 58年1月、長崎転勤発令。新聞広告に出た俳句誌の座談会を見つけ、「小生、俳句についての中央的活躍に愛着を覚え、これらの人に嫉妬を感じた。不思議に地方に来た感じが強く胸を押

おさへ、淋

さびしい」(58年2月4日)。中央俳壇への思いは強く、「何としても東京へゆきたい。支店生活十年間、蓄積したものを、東京へ打

ぶっつけてみたい」(60年1月4日)ともつづる。

 60年に本店へ戻った後、47歳で金庫番の仕事に決まったときはこう書いた。「証券局主査に十二月一日発令のこと。一パツかませてやろうかと思ったが、そこは大きく出ることが勝ちと覚悟し、ゆっくり話す」(66年11月29日)

 日記には俳句も残された。長崎時代の代表句、<彎曲

わんきょくし火傷し爆心地のマラソン>は、58年3月9日に記された4句の中にある。直前には「俳句がどうしてもできない。いらいらする」などと苦心した様子だが、この日は「夜、ムキになって俳句を作る。状態が熟し、次第にできてくる」と、高揚感が伝わる。

■小説にも意欲

 戦争体験を小説として発表する考えもあった。「ふと戦時中の話をしている内、『いも』という題の小説を思いつく。甘藷

かんしょをめぐる人間の関係と餓死の様相。やっと一本、トラック島の構想にシンが入った感じ」(59年8月12日)

 「トラック島戦記」「環礁戦記」と名付けて執筆していたとみられ、「古事記の神々の名を戦記の登場人物に当てはめる作業完了」(73年5月5日)、「清記にも時間がかかるものだ。それでよし」(76年9月27日)など、並々ならぬ意欲をうかがわせる筆致だ。

 日記は長男の眞土

まつちさんが校訂し、俳人の長谷川櫂さんが解説。長谷川さんは「日記は、豪放磊落

らいらくな人物として知られた金子さんのイメージをくつがえす。気持ちの変化が克明に記され、緻密

ちみつで繊細な実像が書かれている。戦後俳句史の貴重な資料だ」と話している。

 各巻約450ページ、予価9000円(税別)。

 ◆金子兜太=1919年生まれ。東京帝大経済学部卒。日本銀行に就職後、44年、海軍主計中尉としてトラック諸島へ。戦後、日銀に復職し、組合専従の事務局長を務めた後、約10年間の地方勤務などを経て、55歳の定年まで勤めた。戦後の前衛俳句運動の旗手。俳誌「海程」を主宰した。