金子兜太さんを悼む~俳人・長谷川櫂

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20日に死去した俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さん。1987年から朝日俳壇選者を務めた=2017年10月、埼玉県熊谷市、関田航撮影

乾いた詩情 戦後俳句を開く  俳人・長谷川櫂

 春の寒さに耐えかねるように大樹が音をたてて倒れる。その残響の谺(こだま)に耳を傾けながら、この文を書いている。

 振り返れば金子兜太九十八歳の生涯は大きく二つに分かれる。まず社会性俳句、前衛俳句の旗手として戦後俳句の境界を広げてきた「昭和の兜太」。その後、人間としての生き方や戦争・原発について発言をつづけた「平成の兜太」である。

 私はこの二十年近く毎週金曜日、朝日俳壇の選句会で会って話をした。話題は俳句や文学より四方山(よもやま)の人物評から昨今の世相、国内外の政治問題まで、思えばじつに楽しい時間だった。

 そこから浮かび上がる兜太という人は世間で思われているような豪快な野人ではなく、むしろ繊細な神経の持ち主である。青年時代の兜太の書を見たことがあるが、それは後年の肉太の書ではなく、線の細いインテリの書だった。その自分の繊細さに対する反発、そして肉付け、いわば自己改造がのちに太っ腹な兜太を出現させたのではなかったか。

 《青年鹿を愛せり嵐の斜面にて》

 初期のこの句に流れる清冽(せいれつ)な詩情こそ愛すべきである。ここに兜太の詩の原点が眠っている。それが数十年後、次の句を生み出す。

 《よく眠る夢の枯野が青むまで》

 兜太はしばしば一茶への共感を語っているが、あれも一茶に自分と通じるものを見ていたというより、荒凡夫・一茶を手本にして自分を鍛えようとしたのだろう。

 《三日月がめそめそといる米の飯》

 四十代の作だが、ここにはそのころの兜太が何を嫌悪していたか、兜太が克服しようとしたものが名指しされている。米の飯、三日月、しかもそれはめそめそとしている。日本人の心の底に昔から流れる湿っぽい情緒といえばいいか。それが日本を戦争へ導き、敗戦後もしぶとく残りつづけたと兜太の目には映っていたにちがいない。

 この日本的なじめじめした情緒に代わる、からりと乾いた新しい詩情を模索したのが、対象としての社会問題であり、方法としての「前衛」であったはずだ。

 《彎曲し火傷し爆心地のマラソン》

 この句は原爆という人類的な社会問題を前衛的手法で構成した記念すべき作品である。兜太というより兜太のこの一句によって戦後俳句の世界は大きく切り開かれた。

 晩年、兜太は高齢化社会の老人たちのアイドルにされる。この事態に直面して兜太は自分を「存在者」と定義し直した。人間は戦争で犬死にしたりせず、何もしなくても生き永らえるだけで尊いという考え方である。

 これが草木岩石すべてに命が宿るという日本の原始的な宇宙観に通じることはいうまでもない。重要なのはそれが理想を見いだせぬまま欲望を肯定してきた戦後の価値観に形を与え、迷える老人たち、誰より自分を励まそうとしたものだったということだろう。

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 はせがわ・かい 1954年生まれ。俳人。93年に俳誌「古志」創刊。2000年から朝日俳壇選者。